第109話:『帝都の熱狂と、魔法のエンジン』
『天翼の軍師は、銀髪の美姫であった!』
衝撃的な一夜が明け、帝都は熱狂の坩堝と化していた。
息抜きのため久しぶりにリナの姿に戻り、セラさんと街へ繰り出した私は、その変わりように息を呑む。以前のどこか沈んでいた鉛色の空気は払拭され、街路には人々の喧騒と活気が陽光のように満ち溢れていた。戦争へ注がれていた物資が民間に流れ込み、市場には色とりどりの品が並び、誰もが明るい笑顔を浮かべている。
ふと、背後に気配を感じる。半歩後ろを歩くのは、ごく普通の麻のワンピースを着たヴォルフラムさん。彼女は決して私に話しかけず、街の景色に興味があるといった風を装っているが、その瞳は常に冷静に群衆の動きを観察し、私への潜在的な脅威がないかを見極めている。視線の少し先、通りの向こうで果物を買うふりをしているのは、無口な影――ゲッコーさんだ。彼らは言葉を交わさずとも完璧な連携で私を守っている。……少し、過保護すぎる気もするけれど。
だがそれ以上に私を襲ったのは、別の種類の熱狂だった。
「――聞いたか! 軍師様はまだ十四、五の、息をのむほどの美しさだったそうだ!」
「ああ! その銀の髪が風になびく様は、まさに天女であったと!」
「仮面の奥の瞳は、全てを見通す瑠璃色に輝いていたとか……!」
酒場や広場で、吟遊詩人たちが新たな英雄譚を朗々と語り上げる。あまりに美化され誇張された自分の物語に、眩暈がした。
(十四、五って……厚底ブーツ、仕事しすぎ。瑠璃色の瞳ってどこから来たの……)
「……リナ様。お顔が真っ赤に……」
ヴォルフラムさんが私の異変に気づき、そっと耳打ちする。
「……うぅ……もう帰ります……」
私がその場にしゃがみ込みそうになった、その時。セラさんが私の手を優しく引いた。
「リナ。少しあそこで休みましょう」
彼女が導いてくれたのは、大通りに面した三階建ての洒落たカフェのテラス席だった。眼下には活気に満ちた帝都の街並みが広がっている。ヴォルフラムは何も言わずに隣のテーブルに腰を下ろし、背を向けながら周囲への警戒を続ける。ゲッコーの姿は見えない。きっと近くの建物の屋根からでもこちらを見ているのだろう。彼らの徹底した仕事ぶりには頭が下がる。
「恥じることはありません。誇ってください」
運ばれてきた紅茶の湯気を眺めながら、セラさんが静かに言った。
「あなたが、これだけの笑顔を取り戻したのです。この平和な景色を創り出したのは、他の誰でもない、あなたなのですよ」
「……嬉しいんですけど……やっぱり恥ずかしいものは恥ずかしいです……」
それでも、眼下の人々の幸せそうな笑顔を見ていると、胸の奥に温かいものが込み上げてくる。
「……でも、そうですね」
私はカップを両手で包み込み、呟いた。
「私、まだまだ頑張ります。孤児院のみんなも、同じように幸せな顔にしてみせますから」
◇◆◇
久しぶりに、私はお忍びで北の『技術研究局』を訪れていた。
マキナの工房は、以前とは比べ物にならないほど巨大な施設へと生まれ変わっている。
「――よう、リナ! 待ってたぜ!」
工房の奥、けたたましい金属音が響く中で、マキナが油まみれの顔で笑った。彼女は得意げに親指で背後を指し示す。
そこには、黒光りする鉄の巨塊が鎮座していた。複雑に絡み合うパイプと歯車。紛れもなく完成した『蒸気機関』だ。
「どうだ! ここまで来たぞ!」
彼女は木切れを炉に放り込みながら、ドヤ顔で胸を張る。
その力強い機械の鼓動を見つめながら、私の頭にひとつの閃きが落ちた。
(熱源は燃料……。でも、私のあの力なら、水さえあれば……)
「マキナさん。熱を入れていない、試験用の小型の蒸気機関はありますか?」
「ん? ああ、試作機があっちにあるが……何するんだ?」
案内されるがまま、小さな模型のような蒸気機関の前に立つ。
そして、そのボイラー部分にそっと手を触れた。冷たい金属の感触。
(うまく、いくかな……)
目を閉じ、意識を集中させる。そして、あの古代の言葉の断片を、新たな意味を込めて紡いだ。
「――《この器にある水よ。その力が失われるまで、気体へと姿を変え、体を膨張させよ》」
しゅっ――ごっ!
次の瞬間。静寂を破り、機械が一度、大きく身じろいだ。
熱源もないはずの鉄の塊が、まるで命を吹き込まれたかのように脈動を始める。
しゅっ――ごっ! しゅっ――ごっ!
しゅっ、ごっ! しゅっ、ごっ! しゅっ、ごっ!
リズミカルな駆動音が、工房の喧騒を塗りつぶしていく。
「――は、はぁっ!?」
マキナが、目の前の光景を理解できずに完全に停止した。
私は思わず呟く。
「……あー。……動いちゃった」
「…………ど、どうなってんだ、これ……?」
甲高い声が、工房の空気を引き裂いた。
「おいリナ、ちょっと待て! おかしい、絶対におかしい!」
マキナが絶叫と共に駆け寄ってくる。その目は血走り、眉間には深い皺が刻まれて、まさに鬼気迫る形相だった。彼女は小さなエンジンの周りを檻の中の獣のようにうろつき始めると、確かめるようにボイラーの側面に手のひらを当て、すぐに離した。
「……冷たい?」
呟きは、驚愕に染まっている。滑らかに上下するピストンを食い入るように見つめ、意味をなさない言葉をぶつぶつと漏らしながら、再びボイラーへ向き直る。
「熱が発生していない。温度はピクリとも変わらない。なのに、水だけが気化して減り続けている……?」
彼女の瞳は、もはや狂気と好奇心の境目をさまよっていた。指先でガラスを叩きながら、水位計の目盛りがゆっくりと、しかし確実に下がっていく様と、微動だにしない温度計の針を、信じられないものを見る目で何度も見比べる。
「相転移が起きているのに、エンタルピーの変化が観測できない? 液体が気体になるためのエネルギーは、一体どこから……」
まさか、と乾いた唇が震える。
「水の質量そのものが、直接運動エネルギーに変換されているのか? いや、それならこんな穏やかな反応のはずがない! もっと膨大な、爆発的なエネルギーが……!」
マキナは指を髪に突き立て、ぐしゃぐしゃと掻き乱した。その仕草には、長年築き上げてきた知識体系が目の前で崩れ去っていく焦燥と、未知への興奮が入り混じっていた。
「――お前、これ、物理法則の根幹を揺るがすレベルの異常現象だぞ!? 熱力学の常識が全く通用しない! この仕事量はどこから生まれてるんだ! 説明しろ、リナ!」
詰め寄る彼女の剣幕に、私は思わず肩をすくめた。
「ご、ごめんマキナ。言ってることの意味が、よく判んなかった……」