第108話:『商人の野心と、魔女たちの企み』
「――では、マルコ殿」
静寂を破った私の声が、彼にとって最後の試練を告げる鐘の音のように響いた。
「五日後、改めて話を伺います。その『この世で随一の自由都市』、大まかな草案で結構。……それを見て、この話を進めるか否か、最終的な判断を下します」
それは彼の構想力、実行力、そして本気度を試す、最終試験。
マルコは緊張に強張った顔の中で、瞳だけをギラつかせた。野心の炎が、その奥で揺らめいている。深く、床が軋むほどの一礼を残し、彼は音もなく部屋を退出していった。
◇◆◇
皇宮の、磨き上げられた大理石がどこまでも続く長い回廊。マルコの頭の中は、思考が沸騰するような熱を帯びていた。
(……なんだ……。なんなのだ、あの軍師は……!)
ただの交渉だと思っていた。帝国の弱みを突き、有利な条件を引き出す、いつものゲーム。
だが、違った。
あの仮面の奥から注がれる視線は、そんな矮小な駆け引きなど見ていない。
彼女が見ているのは、この大陸の百年先。
そして、その壮大な未来図を描くための重要な駒として、この自分を選んだのだ。
(……新しい都市を、創る……!)
背筋を駆け上がるのは恐怖ではない。歓喜の戦慄だ。
金儲けなど、どうでもいい。これはそんなちっぽけな話ではない。
歴史に名を刻むという途方もない事業。商人として、これ以上の栄誉があるか。これ以上の面白い賭けがあるか!
気づけば、彼は走っていた。
すれ違う貴族たちが怪訝な視線を向けるのも構わない。冷たい回廊の空気を切り裂き、革靴が大理石を叩く音だけが響く。一刻も早く宿舎へ。ペンを握り、信頼できる仲間たちを大陸中から呼び寄せねば。
眠っている暇などない。
五日間。
その五日間で、あの神のごとき軍師の想像を、遥かに超える青写真を叩きつけてやる。
(見ていろ、天翼の軍師……! このマルコ、必ずやあなたの期待に応える。いや、その期待ごと喰らい尽くしてやる!)
彼の野心は今、制御不能の業火となって燃え盛っていた。
◇◆◇
その頃、王国の王宮の一室。
インクと古い紙の匂いが満ちる書斎で、グランは王国の復興計画を示す羊皮紙の山に埋もれていた。
その静寂を破り、枕元の『囁きの小箱』が、ぶぶっ、と低い振動と共に淡い光を放つ。リナからだった。
『――グランさん。忙しいところ、ごめんなさい』
「いえ……。何か進展が?」
『ええ、少しだけ。ヴェネツィアの件です』
リナは先ほどのマルコとの会談を、淡々と、しかし核心だけを射抜くように簡潔に伝えた。
『……というわけで、五日後に持ってきて頂ける予定の草案次第ですが、計画は進めるつもりです。グランさんにも、ご協力をお願いしますね』
あまりにさらりとした、だが大陸の勢力図を根底から覆しかねない報告に、グランは思わずこめかみを押さえた。
(経済特区……。この人は、本当にどこまで先を読んでいる……)
「……ねえ、グラン」
いつの間にか背後に立っていたマリアが、吐息がかかるほど近くで囁いた。彼女は楽しげにふん、と鼻を鳴らす。
「そういった小難しい経済のことは専門外だわ。……でも」
マリアの瞳が、獲物を見つけた猫のように妖しく光った。
「……その新しい楽園に、ヴェネツィアの有能な人材と資本をごっそり引き抜くというのなら、話は別よ」
彼女はグランの肩にそっと手を置く。悪魔が囁くように、甘く、冷たい声が響いた。
「……どうしたいのか言いなさい、グラン。あの古い利権にしがみつく強欲な爺たちを……私が、良いように料理して差し上げてよ」
『囁きの小箱』越しに漏れ聞こえる物騒な会話に、私は思わず口を挟んだ。
『……マリアさん。あまり過激なことは……』
「あら、聞こえていたの、軍師様?」
マリアはくすくすと喉を鳴らして笑う。
「大丈夫。私はただ、『ヴェネツィアの優秀な商人や職人が、帝国と新生王国の庇護の下、もっと自由に商売ができる場所ができる』という『福音』を届けてあげるだけ。彼らがその救いの手をどう掴むかは、彼ら次第でしょう?」
その、あまりにしたたかで悪魔的な提案に、グランは苦笑するしかない。
『……分かりました。では、その『布教活動』はマリア様にお任せいたします』
私も観念して、そう応じた。
「ええ、任せてちょうだい!」
盤上の駒が、静かに動く。
標的は、ロベール伯爵の背後で糸を引くヴェネツィアの商人たち。
豪奢な椅子にふんぞり返り、自らの安泰を疑いもしない老獪な獣たち。
彼らのこれまで築き上げた盤石な屋台骨は、その足元から静かに、しかし根こそぎ崩されようとしていた。