第106話:『天翼の軍師と、待たされる商人』
翌日。
皇宮の大謁見の間は、昨日とは打って変わって異様な熱気に満ちていた。
高い窓から差し込む光が床の大理石を磨き上げ、居並ぶ人々の影を長く引き伸ばしている。皇帝陛下の勅命により、帝都中の有力貴族、歴戦の将軍、そして吟遊詩人や物書きなど、あらゆる「言葉を扱う者たち」が一堂に会し、固唾をのんでその瞬間を待っていた。
声と功績しか知られていなかった伝説の英雄。
帝国の救い主、『天翼の軍師』が、ついにその姿を現すのだ。
やがて、荘厳なファンファーレが天井の高い空間にこだました。謁見の間の巨大な扉が、地の底から響くような重い音を立てて、ゆっくりと開かれていく。
光の中に浮かび上がった一つの人影に、その場にいた全ての者が息をのんだ。
人々が想像していた、歴戦の傷跡を刻んだ老賢者ではない。魔力をその身に宿した大魔導師でもない。
そこに立っていたのは、まるで物語から抜け出してきたかのような、一人の銀の騎士姫だった。
体に吸い付くような濃紺の騎士服風ドレスが、しなやかな身体の線を際立たせる。月光をそのまま束ねたかのような銀の長髪は、一歩進むたびに光の粒子を振りまきながら滑らかに流れた。そしてその顔には、目元だけを覆う蝶を模した優雅な銀の仮面。神秘的な佇まいが、見る者の心を射抜き、そして魅了した。
「……な……」
「……あれが……『天翼の軍師』様……?」
「……なんと、美しい……」
囁きは波紋のように広がり、壁に飾られたタペストリーを揺らすほどの大きなざわめきへと変わっていく。私が静かな足取りで玉座へと進むにつれ、そのざわめきは最高潮に達した。
「――静まれぃッ!」
玉座からの皇帝陛下の一喝が、雷鳴のごとく謁見の間を打ち据える。空間が震え、人々は弾かれたように口をつぐんだ。水を打ったような静寂が、支配する。
(……厚底ブーツ、歩きにくい。転ばなくて、よかった……)
仮面の下で冷や汗をかいていることなど、もちろん誰も知る由もない。
式は粛々と進められた。
皇帝陛下が私の偉業――二度にわたる王国軍の撃破、そして王国を内側から覆し平和へ導いた比類なき功績――を、朗々と謳い上げる。その声が壁に反響する中、莫大な褒賞と、帝国の最高顧問という地位が改めて授けられた。
その歴史的な瞬間が終わるやいなや。
それまで息を殺していた言葉を扱う者たちが、堰を切ったように踵を返し、謁見の間から駆け出していく。
彼らの瞳は爛々と輝き、その頭の中では、新たな英雄譚がすでに産声をあげているのだろう。
戦場を駆ける銀の流星、その知略によって幾万の兵が舞う光景が。
『聞け! 天翼の軍師は銀髪の騎士姫! 戦場に舞い降りた麗しの女神であった!』
『年は十四か十五か!? その仮面の下に隠された素顔は! 謎に包まれた救国の乙女の伝説が、今、始まる!』
◇◆◇
その頃、王宮の一室。
硬い椅子に身を沈めた一人の男が、ひたすらに時が過ぎるのを待っていた。
ヴェネツィア連合、新興勢力派の旗頭、マルコ。
昨夜、宰相から「明日、話がある」と呼び出され、朝もやの刻からずっとこの部屋にいる。
窓のない石壁が、外界の喧騒を鈍くしか伝えない。
それでも、遠く響く荘厳なファンファーレと、地鳴りのような歓声が断続的に耳に届いた。
(……始まったか。『天翼の軍師』様のお披露目が……)
帝国の最重要人物が総出の式典だ。待たされるのも仕方ない。彼はそう自分に言い聞かせ、乾いた唇を舐めた。
目を閉じれば、思考が闇に渦を巻く。
一体、どんな人物なのだ。あのグレイグ中将の信を得て、王国を内側から鮮やかに切り崩したという怪物は。
今日の式典で、ついにその姿を現すという。
ならば、この後自分が会うのは――。
いや、まさか。いくらなんでも、一介の商人にそこまでの……。
マルコは自らの突飛な想像を打ち消すように、小さくかぶりを振った。だが心のどこかで、その「まさか」を期待している自分もいる。
どれほどの時間が経っただろう。
埃っぽい空気の中で意識がまどろみかけた、その時。
重い扉が軋みを上げて開き、宰相アルバートが姿を現した。
「……おお、マルコ殿。待たせたな。少し長引いてしまってな」
悪びれもせずそう言うと、宰相はマルコの向かいの椅子にどさりと腰を下ろす。革の軋む音が、やけに大きく響いた。
そして、彼は口元を歪ませた。
全てを見透かすような、老獪な狐の笑み。
「……さて。先ほど謁見の間でお披露目が終わったばかりで、少々お疲れなのだがな」
宰相は疲れたように肩を回しながら、何でもないことのように続ける。
「我が国の『天翼の軍師』殿が、そなたに会って話がしたいと申されておる」
――!
マルコの心臓が、肋骨を叩きつけるように大きく跳ね上がった。
息が詰まる。まさか。まさか、本当に。
「後ほどこちらへ来られる。……くれぐれも失礼のないようにな」
宰相は愉しむように目を細める。
「あの方は、少々気難しいお方なのでな」
その言葉に、マルコの背筋を冷たい汗が流れ落ちた。
自分は今から、この帝国の最も重要で、そして最も危険な人物と対面するのだ。
ごくり、と乾いた喉が鳴る。彼はただ、硬直したまま居住まいを正すことしかできなかった。
帝国に新しい時代を創り上げた、伝説の軍師。
その人物が、この自分に一体何を求めるのか。
張り詰めた沈黙の中、マルコの人生を賭けた大交渉が、静かに始まろうとしていた。