第99話:『秘匿された真実と、王の新たな枷』
王宮の一室。
厚いベルベットのカーテンが外界を遮断し、午後の光さえも拒んでいる。バルコニーから聞こえていた喧騒は、まるで分厚い壁の向こう側の出来事のように遠い。埃と後悔の匂いが入り混じった重い沈黙が、部屋を支配していた。
その中央、乱れたベッドの上で、元国王レオナルドは横たわっていた。
焦点の合わぬ瞳は、天井の染みをただ見つめているだけ。数時間前まで玉座で王国を睥睨していた男の威厳は、皺くちゃのシーツの中に溶けて消え、今は魂が抜け落ちた人形のようだ。
彼の前には、三人の女性が静かに立っている。
賢者グラン。
聖女マリア。
そして、『囁きの小箱』を通じて、その場に「存在」している私、リナ。
「――第一王子クロード殿下は、反乱派貴族による口封じのため暗殺された。……公式にはそう発表します」
最初に氷のような沈黙を破ったのは、マリアだった。その声はどこまでも冷静で、感情の欠片も感じさせない。
「よろしいですわね? グラン」
「……ですが、マリア、それは...」
グランが苦渋に顔を歪め、唇を噛み締める。「それは真実では……。レオナルド陛下が、自ら手を下そうと……」
「だから、何だというの?」
マリアは美しい眉をわずかに動かすだけで、グランの言葉を切り捨てた。
「その真実を公にして誰が得をします? 誰もいませんわ。故に、この件は秘匿。それ以外に道はない」
彼女はベッドの上のレオナルドへと向き直る。
美しいアメジストの瞳には一片の同情も浮かばない。そこにあるのは、国家という巨大な盤面を見据える、冷徹な政治家の算段だけだった。
「……レオナルド陛下。いいえ、レオナルド公」
あえて突き放すように、彼女は新しい呼び名を使った。
「あなたにはまだ死んでいただくわけにはいきません。果たしていただくべき、『役目』がありますから」
「……役目……だと……?」
レオナルドの唇から、か細く掠れた声が漏れた。
「ええ。生きて、過去の清算をしていただくのです」
マリアは静かに、しかし残酷に言葉を続ける。
「もしあなたが今ここで死ねば、どうなるかお分かり? 真実がどうであれ、アルフォンス様は『父王を死に追いやり、兄を暗殺して王位を奪った簒奪者』という根も葉もない噂に、生涯苦しめられることになる」
「……っ!」
レオナルドの顔が、絶望に引き攣った。
「アルフォンス様が真にその地位を盤石なものとするまで、あなたは生きなければならない。あなたが犯した悪政の責任をその一身に受け、泥を啜り続けていただく。……簡単に死なれては困るのですよ、あなたは」
そのあまりに冷徹な論理に、グランは息を呑み言葉を失う。だが、それが最も合理的で正しい判断であることも、痛いほど分かっていた。
マリアは部屋の隅、黒檀の小箱に視線を移す。
「――『天翼の軍師』様。そういうことよね?」
しばらくの静寂が、重く部屋に満ちる。
やがて、小箱から私の静かな声が響いた。変声機を通した無機質な音のはずなのに、それは不思議な温かみを帯びていた。
『……その通りです。ですがマリア様。少し、言い方が厳しすぎるのでは』
「あら、そうかしら? 私は事実を述べたまでよ」
『レオナルド公』
私は呼びかけた。
『あなたにはまだ、生きる意味があります。それは、ただ罪を償うためだけではありません』
その声は、凍てついた心に寄り添うように響く。
『アルフォンス新王がこれから歩む道は、決して平坦ではないでしょう。彼が道に迷った時、父として、先を歩んだ王として、助言を与え支えて差し上げる。それもまた、あなたにしかできない重要な役目ではありませんか』
『……あなたの命は、もはやあなただけのものではない。この国の未来のため、そして何よりも、あなたの愛する息子、アルフォンス新王のためにあるのです。どうか、その重みをお忘れなきよう』
その言葉は、乾ききった大地に染み込む一滴の水のように、レオナルドの心に届いた。
虚ろだった瞳に、ほんのわずかな意志の光が宿る。
ゆっくりと、錆びついた機械のように顔を上げ、彼は深々と頭を下げた。
「……分かった……。この老いぼれの命……アルフォンスのために、使おう……」
それは、彼が自らに課した、新たな、そして最も重い枷。
王としてではなく、父として生き続けるという、果てなき贖罪の道。
カーテンの隙間から差し込む光はまだ弱く、王都の空には、夜の闇の名残が色濃く垂れ込めていた。