第96話:『病床からの、組閣と、騎士の誓い』
賢者の庵に差し込む陽光が、空気中の細かな埃をきらめかせている。
ようやく長く続いた熱が引き、私は数日ぶりに上体を起こしていた。ベッドの上、背中に枕を当てがわれ、ヴォルフラムが作ってくれた滋養粥を匙でゆっくりと口に運ぶ。湯気の向こうで心配そうに見守る彼女に、私はかすれた声で告げた。
「……ありがとう、ヴォルフラムさん。……美味しいです」
「! はっ! お口に合いましたか! よかった!」
私の言葉に、彼女の顔がぱっと花開くように輝く。そのあまりの喜びように、思わず苦笑がもれた。空っぽだった胃に、じんわりと温かさが染み渡っていく。
だが、休んでばかりもいられない。
私の回復を待っていたかのように、王国の未来を決める最も重要な会議の時が来た。
私はベッドに座ったまま、枕元に置かれた黒檀の『囁きの小箱』に手を伸ばし、その銀のボタンを押し込んだ。
『――聞こえるかしら、天翼の軍師様。こちらの準備は整いましたわ』
凛としたグランの声が、小箱からクリアに響く。
彼女たちがいるのは王都の王宮、その奥深く。かつて腐敗貴族たちが密談を交わしたという機密室だ。
『……天翼の軍師殿。……世話を、かける……』
続くのは、疲労の色を滲ませながらも、威厳を失わない国王レオナルドの声。
『……天翼殿。貴方の声が聞けて、嬉しい』
アルフォンス王子の実直な声には、安堵が混じっていた。
そして――。
『あら、ごきげんよう、軍師様? 私を呼び出すなんて、一体どんな面白いことを企んでいるのかしら?』
聖女マリアの、愉悦を隠さない挑発的な声が、鼓膜をくすぐる。
私は一度深く息を吸い込み、肺に満ちた空気を静かに吐き出した。
ここからは、『天翼の軍師』の仕事だ。
「――皆さん、お集まりいただき感謝します。早速ですが、いくつか提案をさせていただきます。そちらでアルフォンス様とグラン様を中心に検討いただき、その結果を私に」
私は新生王国の骨格となる人事案を、一つずつ、確かな声で紡いでいく。
「まず、国王レオナルド陛下には、アルフォンス様への正式な戴冠式を盛大に執り行っていただきます。正統な王位継承を、内外に示すのです」
「そしてグラン様。あなたには宰相として正式に任官していただく。アルフォンス様の知恵袋として、国をお導きください」
「……次に、ライナー・ミルザ大佐。彼を王国の新たな衛士長として推薦いたします。彼の清廉さと実力は、私が保証します」
「最後に、暗部の創設です。『黒曜の疾風』ことハヤト殿をトップエージェントに。……そして聖女マリア様。あなたには、その暗部の頭取という裏の顔を持っていただきたい。表の顔はもちろん、『慈愛の聖女』として。……できますよね?」
最後の問いかけに、マリアが喉の奥でくくっと笑う声が、小箱から漏れた。
『ふふっ、あはははは! 当然ですわ! 面白そうじゃないの! やってやりますわよ!』
一通りの提案を終えた、その時。
部屋の隅で控えていたライナーが、はっと息をのむ音が聞こえた。
「そ、それは……! 私は……ッ!」
私は彼に目配せで制し、一旦、王都との通信を切った。
しん、と静まり返った部屋には、私とライナー、そして心配そうにこちらを見つめるヴォルフラムだけが残される。
「……ライナー隊長」
私は静かに語りかけた。
「無理強いはしません。あなたはもう十分に、私への忠誠を示してくれました」
「……ですが」
彼の瞳をまっすぐに見つめる。
「あなたの心は、本当は王国にある。違いますか? 腐敗した祖国を憂い、アルフォンス様の力になりたい。……そう願っているのでしょう? 私には、分かります」
「ぐっ……うぐぐ……」
ライナーは言葉に詰まり、鍛え上げられた大きな拳を、血が滲むほど強く握りしめた。
「わ、私は……! リナ様にこの命を捧げると、誓ったのです……!」
「ええ。ありがとう」
私は、ふっと微笑んだ。
「では、お願いがあります。私がいつか本当に困って助けを求めた時、たとえあなたが王国の衛士長であろうと、何をおいても駆けつけてほしい。……それでは、だめですか?」
そのあまりに優しい提案に、ライナーの張り詰めていたものが、ついに砕け散った。
彼はその場に片膝をつくと、床に額をこすりつけんばかりに深く、深く頭を垂れる。
「……必ず……! 必ずや、お助けに参ります……! リナ様……私の心は、確かに王国に……あるようです。……で、す、が!」
彼の声が、嗚咽に震える。
「リナ様が私に、そして私の愛する王国に成してくださったこの大恩は! この命に代えても、必ずやお返しいたします! ……この誓いだけは、決して!」
「……ありがとう、ライナーさん」
私は彼の熱い想いを、静かに受け止めた。
「隊員の皆さんにも伝えてください。王国に戻るか、私と共に帝国へ来るか。それぞれの判断に任せると。……くれぐれも、強要はしないように」
「……はっ!!!」
ライナーは涙を乱暴に拭うと、決意を宿した目で一礼し、部屋を出て行った。
一人残された私は、ふぅ、と長い息をつく。
そして再び、『囁きの小箱』のボタンを押した。
「……さて。王都の方は、どうなりましたか」
私の声はもう、いつもの『天翼の軍師』のものに戻っていた。
小箱から響く声が、新たな時代の歯車が、今まさに回り始めたことを告げていた。