第10話:『夜明けの奇襲と祝宴の凶報』
決戦の朝。
東部戦線の空は、まるで血を流す前の大地のように、不気味なほど静かな朝焼けに染まっていた。
駐屯地の私の天幕では、カンテラの光が作戦地図を頼りなげに照らしている。私は車椅子に座り、フードを目深にかぶったまま、ただじっと、その時を待っていた。
(……大丈夫。私の分析に間違いはない)
私は自分に言い聞かせる。敵が今回のような、回りくどい罠を仕掛けてきたこと。それ自体が、何よりの証拠だった。
この世界に、本当に居るのかどうかはまだ確信が持てないけれど、もし、チート転生者――『剣聖』と『聖女』――がこの戦線にいるのなら、王国軍はここまでの策など弄する筈がない。彼らの圧倒的な個の力を活かす策か、もしくは真正面から全てを蹂躙してきたはずだ。それが、彼らの勝ち方だったから。
罠を張るということは、裏を返せば、彼らは今ここに「いない」。そして、彼らという「絶対的な武器」を欠いた王国軍は、純粋な軍略で戦うしかない。ならば、そこには必ず、付け入る隙が生まれる。
「――刻限だ」
天幕の入り口で、伝令が短く告げた。
その言葉を合図に、夜明けの静寂は破られた。
帝国軍の動きは、リナの描いた筋書き通り、完璧だった。
まず、囮部隊が敵の偽装陣地へと猛然と突撃する。王国軍は「かかった!」とばかりに誘い込み、退路を断とうとする。そこまでは、敵の将軍、オルコットの描いた通りの展開だった。
だが、その瞬間、彼の悪夢は始まった。
「報告! 丘の背後に、敵の伏兵! 我が軍の本隊が奇襲を受けています!」
「な、なんだと!? 馬鹿な! なぜ我々の本隊の位置が!」
オルコット将軍の司令部に、絶叫のような報告が次々と舞い込む。
帝国軍の主力は、彼の罠にかかったフリをしながら、その実、丘の裏手に潜んでいた王国軍本隊の側面を、鋭利な刃のように突き破っていたのだ。指揮系統を完全に破壊された王国軍本隊は、なすすべなく混乱に陥る。
「退け! 退却だ! 立て直せ!」
オルコット将軍の怒号も、パニックに陥った兵士たちには届かない。
そこへ、とどめの一撃が突き刺さる。
「将軍! 鷲ノ巣峠が、敵の別働隊によって陥落! 我々の退路が……断たれました!」
「……っ!?」
オルコット将軍は、絶望に顔を歪めた。
策は完璧に読まれ、本隊は奇襲を受け、退路さえも断たれた。これは、もはや単なる敗北ではなくなる。このままでは、我が軍は全滅だ。
「……ありえない……ありえないっ!なぜだ!なぜ、我々の動きが、こうも敵側に筒抜けになっているのだ!?」
彼は、見えざる敵の存在に、ただ戦慄するしかなかった。
帝国軍の駐屯地は、歓喜に沸いていた。
「勝った!」「王国軍に勝ったんだ!」「見たか、奴らの無様な逃げっぷりを!」
兵士たちは抱き合い、雄叫びを上げ、涙を流して勝利を分かち合う。
しかし、帰還したグレイグとセラの表情は、喜びの中にも冷静さを保っていた。
「見事な勝利だ。だが……」
作戦報告の天幕で、グレイグが地図を見下ろしながら呟く。
「敵の“切り札”……『剣聖』と『聖女』の姿は、やはりなかった。奴らがいれば、こうも簡単にはいかなかっただろう」
「はい。捕虜の誰も、彼らの姿を見たと証言する者はいませんでした」
セラが、冷静に付け加える。
そこへ、私は解読を終えた鹵獲文書を手に、車椅子で静かに入っていった。
「閣下。彼らの不在理由が、判明いたしました」
「ほう、軍師殿。聞かせてもらおうか」
私は、変声器を通して、落ち着いた声で告げた。
「彼らは、王都に召還されていたようです。これまでの連戦連勝を祝う、大規模な戦勝記念式典に参加するため、と」
その言葉に、グレイグとセラは一瞬、呆気にとられたような顔をした。
やがて、グレイグの口元が、ニィッと吊り上がる。
「……式典、だと? ハッ! 我々を、完全に舐めきっていたというわけだ。だが、その慢心が、奴らの命取りになったな」
彼は愉快でたまらないといった様子で、私のフードをくしゃりと撫でた。
「いいぞ、リナ。最高の初陣だ。お前は、敵の祝杯を、一夜にして極上の苦い酒に変えてやったんだ」
◇◆◇
その頃、アルカディア王国の王都は、華やかな祝賀ムードに包まれていた。
王宮の大広間では、煌びやかなシャンデリアの下、着飾った貴族たちが、二人の英雄を囲んで賞賛の言葉を並べ立てていた。
一人は、精悍な顔立ちの青年、ハヤト。日本の高校生だった彼は、この世界で『剣聖』のチート能力を授かった。彼は最高級のワイングラスを片手に、退屈そうな顔で貴族たちの追従を聞き流している。
もう一人は、慈愛に満ちた微笑みを浮かべる少女、マリア。彼女は『聖女』の力を持つ。彼女の周りには、その加護を求める貴婦人たちが群がっていた。
「いやぁ、剣聖殿の武勇伝は、何度聞いても胸がすくようですな!」
「聖女様の奇跡なくして、この勝利はありえませんでしたわ!」
(もっと俺様をほめたたえろ。ふふふふ。今はまぁ一歩一歩実績と名声を高める時だ。最終的にはこの国を、俺の物にしてやるから、それまでせいぜいその席でふんぞり返っていな、王さまよ!)
「ふふ、皆様の平和こそが、私の祈りの源ですわ」
マリアは完璧な聖女の笑みを浮かべながら
(みなが私の虜ですわ!ふふふ。あ、あそこの騎士様、良いかも。明日のディナーにお誘いしてみようかしら……)
その、祝宴の空気を切り裂くように、一人の伝令兵が血相を変えて広間に駆け込んできた。彼は宰相に何事か耳打ちし、宰相の顔は見る見るうちに青ざめて国王の元に駆けていく。
ざわめきが広がる中、国王が玉座から静かに口を開いた。
「剣聖殿、聖女殿。急報だ。……東部戦線の、オルコット将軍の部隊が、帝国軍の奇襲を受け、壊滅したらしい」
広間が、水を打ったように静まり返る。
「至急、両名には前線へ向かっていただきたい」
その言葉に、ハヤトは心底うんざりしたように、ワイングラスをテーブルに叩きつけるように置いた。
「ふん。俺たちなどいなくても勝てると、自分たちだけで十分だと豪語していたくせに、情けない連中だ」
「仕方がありませんわね、ハヤト様」
マリアは、困ったように微笑みながら言う。その瞳の奥は、全く笑っていない。
「私たちがいないと、王国軍はこうも弱いということでしょう。さあ、参りましょう。少し、お灸を据えて差し上げませんと」
二人の、王国軍を見下しきった尊大な態度に、国王の眉がぴくりと動いたのを、気づいた者はいなかった。
東部戦線では、帝国軍が勝利の雄叫びを上げている。
王都では、英雄たちが自らの手柄に酔いしれている。
そして、その両者の間で、一人の小さな「謎の軍師」が、次なる一手について、静かに思考を巡らせていた。