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ようこそ、最前線の地獄(職場)へ。 書記官リナ、8歳です  作者: 輝夜
序章:『勘違いエリートコースの果ては、地獄の最前線でした』
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第1話:『灰色の孤児と女神の噂』


「また負けたらしいぞ。今度は東の防衛線、第三砦が落ちたとか」

「もう何度目だ……。アルカディア王国の連中は、いつからあんなに強くなったんだ」

「決まってるだろう。“剣聖”と“聖女”さ。王国に現れたという二人の英雄様のおかげだ。そんな御伽噺みたいな相手に、俺たち凡人がどうやって勝てって言うんだよ」


夕暮れ時、聖リリアン孤児院の配給に並ぶ大人たちの声は、ひどく乾いてささくれていた。その囁きは、冷たい秋風に乗って、列の最後にちょこんと並ぶ私の耳まで届いてくる。

私の名はリナ、8歳。

……表向きは。

私の精神は、日本という平和な国で三十年を生きた、しがない会社員のそれだ。過労だったのか事故だったのか、死んだ理由は定かではない。気づいた時には、赤ん坊としてこの剣と魔法のファンタジー世界に生まれ落ちていた。そして、どういうわけか両親はおらず、物心ついた時からこの孤児院で暮らしている。


「はい、リナ。今日は少し黒パンが固いから、スープにしっかり浸して食べるのよ」

配給係のシスターが、心なしかいつもより薄く、そして小さなパンを私の手のひらに乗せてくれた。その指先が、痛々しいほどカサついている。

「ありがとう、シスター」

私は作りうる限りの健気な笑みを浮かべてこくりと頷き、仲間たちが待つ薄暗い食堂のテーブルへと足を運んだ。


ここが、私の今の家。

現皇帝、ゼノン・ガレリア陛下は稀に見る名君だ。彼の善政のおかげで、私のような孤児でも飢え死にすることはない。けれど、もう五年も続く王国との戦争は、偉大な皇帝陛下の善政をもってしても覆い隠せないほど、深く、暗い影を帝国中に落としていた。

配給されるスープは日に日に水っぽくなり、今では具を探す方が難しい。カチカチに固まった黒パンは、そのまま齧れば歯が欠けてしまいそうだ。


(剣聖に聖女、ねぇ……。十中八九、私と同じ転生者でしょ。分かりやすいチート貰っちゃって、羨ましい限りだわ。こっちは多言語理解って……何よその微妙なスキル。TOEIC満点みたいなもんじゃないの)


前世の記憶があるからこそ、その“御伽噺”が決して与太話ではないと直感で理解できてしまう。きっと、私と同じように異世界から来た誰かが、剣術や神聖魔法といった華々しい能力チートを武器に、敵国で大活躍しているのだろう。そりゃあ、帝国も劣勢になるわけだ。


それに比べて、私のチートは『多言語理解』。

役に立たないとは言わない。この孤児院には、帝国の共通語がおぼつかない辺境出身の子もいるけれど、私はその子の方言がなぜか手に取るように分かる。図書室の隅で埃をかぶっていた、誰も読めない古代語で書かれた分厚い絵本も、まるで前世で読み慣れた日本語の小説のようにスラスラと意味が頭に入ってくる。

でも、それがなんだと言うのだ。

それで戦況が覆せるわけでも、この石みたいな黒パンが、前世で食べた焼きたてのクロワッサンに変わるわけでもない。

地味だ。あまりにも、地味すぎる。せめて生活魔法とか、アイテムボックスとか、そういうのが欲しかった。


「リナ、あのね、絵本! “竜の王様”の続き、読んで!」

弟分の一人、トムがスープ皿を片手に私の隣に駆け寄ってきた。その目はキラキラと輝いている。

「はいはい、分かったから。まずはスープを全部飲むこと。いいわね?」

私は内心の壮大な嘆きを、具のないスープと一緒にごくりと飲み込んだ。そして、皆が食事を終えるのを待って、図書室の隅からあの分厚い古代語の絵本を持ってきた。


「『――さて、悪い魔法使いに宝石を盗まれてしまった竜の王様は、悲しみに暮れていました。ですが、そこに一人の賢い小鳥が飛んできて、こう言いました』」

私の声が、静かな食堂に響く。

子供たちは皆、うっとりと目を輝かせ、物語の世界に引き込まれていく。彼らにとっては、この古びた絵本だけが、戦争の暗い現実を忘れさせてくれる唯一の娯楽なのだ。

物語を語る私の声は、我ながら子供らしくて可愛らしい。けれど、頭の中では三十路の私が冷静にツッコミを入れている。

(この賢い小鳥のセリフ、古代シルヴァニア語の最上級敬語じゃないの……。なんでこんな童話にそんな小難しい表現が……。作者、絶対インテリ貴族だわ)


そんなことを考えていると、遠く、帝都の中心から重く沈んだ鐘の音が響いてきた。ゴォン……ゴォン……。

それは、弔いの鐘。戦地で大きな敗北があった時にだけ鳴らされる、絶望の音だ。

さっきまで物語に夢中だった子供たちの顔にも、不安の色がよぎる。大人たちは皆、窓の外を、鐘の音がする方角を、暗い顔で見つめていた。

また、どこかの砦が落ちたのだ。また、多くの兵士が死んだのだ。


そして、その絶望を運ぶ鐘の音に混じるように、あの噂が再び食堂を満たしていく。

「“聖女”の祈りは、矢の雨さえ逸らすらしい」

「“剣聖”の一振りは、一騎で百人を薙ぎ倒すとか」

「……我々は、女神に見放されたのかもしれんな」


私は、絵本を抱きしめる子供たちの小さな背中を見ながら、固い黒パンをもう一度、強く握りしめた。

地味なチート。灰色の孤児院。そして、日に日に色褪せていく世界。

今はまだ、この地味な能力が、私の、そしてこの負け戦の帝国の運命を、根底からひっくり返す切り札になるなんて、知る由もなかった。


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