前編 林業御殿
日下部祐一朗がデザイン科3年のアトリエにやってきたのは、大学が冬休みに入る直前の講評日のことだった。
「塩津先輩って・・・いますか?」
奥三河は川らしい川がない。山も雄大というようなものではなく、ちまちまとした小さな峰に挟まれた日暮れの早い地域だ。
そんな山奥とも言っていいような場所に、祐一朗は軽自動車に乗って1人でやって来た。くねくねとした狭い林道を上った先に、目指す屋敷はあるはずだった。
こんな冬場に通る者もない林道は、新雪が積もったままになっている。
スタッドレスを履いているとはいえ、気をつけないと脱輪でもしようものなら、祐一朗1人ではどうしようもなくなってしまいそうな道だ。
「なんでこんなハメに・・・。」
独り愚痴りながら、慎重にハンドルを握る。
ここいらは一応林業地ではある。が、東濃桧などと違って三河材というのはそれほど名の通ったブランドではない。
かつては林業で栄え、こんな山の中に遊郭まであったというが、今は寂れて、いくつかの人の住まなくなった「林業御殿」が残っていることがかろうじて往時を偲ばせるのみだ。
すでに廃業してしまった林業家も多く、その持ち山などは間伐さえされずにツル植物が幹に絡みついたままの放置林になっている。
そういう森林は日が射さないので薄暗く、下草も生えていない。祐一朗はそんな荒れた杉の森を横目に見ながら、雪の林道をくねくねと登ってゆく。
他所のことは言えない。祐一朗の家も祖父の代までは林業を営みにしていたが、外材の安値に抑えられて全く採算が取れなくなり、祖父も体力が衰えてからは森林の面倒を見ることをやめてしまった。
林道沿いの杉は父親が他人に頼んで伐採して売ったが、奥の方は同じように薄暗い森林になってしまっている。
いま祐一朗が目指しているのは、そんな「林業御殿」の1つである日下部家の旧家屋だ。森林の景気が鳴るようだった祖父の若い頃、曽祖父が建てたものだという。
当時、日下部の家はこのあたりで一番羽振りが良かったのだと祖母からは聞いている。
もちろん、今は人は住んでいない。ただ、他の廃屋と違うのは、日下部家の「御殿」には今も5年に一度は人が訪れる、ということだ。
日下部家独特の秘祭、冬至祭りを行うためである。
その冬至祭りを、今日は祐一朗1人で行わなければならない。
「なんで、こんなハメに・・・。」
祐一朗はまた独言る。
まったく、なんでこんなことになってしまったんだろう。と言ってみても仕方がない。
5年前の祭りは祐一朗を除く家族全員が参加していたのだが、祖父は3年前に他界し、父親は急な出張で来ることができず、母親は2日前に入院してしまい、カナダに嫁いでいる姉は今年は帰れないと言う。
祭りの次第を最も詳しく知っている祖母は、ぎっくり腰になって動けなくなってしまった。
そんなこんなで、秘祭は祐一朗1人でやらなければならないことになってしまったのだ。
「ばあちゃんが動けるようになるか、親父が出張から帰ってくるまで延ばしちゃダメなの?」
「ダメなんだよ、冬至でないと。ちゃんとやらんと祟りがあるで。」
なんでも曽祖父の代にあの家を作る時、商売繁盛のご利益を与える代わり7代まで秘祭を執り行って柱を祀るよう土地神様と契約をしたんだそうだ。
「神様との契約は守らんと、祟りがある。日下部の家が絶える。」
曽祖父はそう言い残したらしい。
そんなこと言ったって、ご利益の効力はとっくに無くなってるじゃんよ?
林業は廃業して、山は荒れ放題・・・。
神様が不履行なら、こっちももういいんじゃねーの?
思わずそう言いそうになったが、祖母の真剣な眼差しを見てその言葉は呑み込んだ。
まあ、ばあちゃんが生きてる間くらいは、安心させてやった方がいいよな。
やっとの思いで着いた「御殿」は林道沿いにはあったが、杉を伐って売った後、植林も手入れもしていないから、あたりは雑木が生え放題の藪になっている。
そんな中で、旧日下部家の「御殿」はまだかろうじて凛とした雰囲気を保ってはいた。
「親父が毎年夏には、一応草刈りにだけは来てるからかな・・・。」
玄関の時代がかった南京錠を外して、重い雨戸を開ける。
中にもう1つ、格子の引き戸がある。細かい職人技で作られたもので、今作ったら1枚何十万もすると以前聞いたことがある。当時だって高かっただろう。
中は真っ暗なので、とりあえず玄関脇にあるブレーカーのレバーを上げて電源を入れる。
天井からぶら下がった白熱電球の照明器具が灯り、あたりが見えるようになった。電球自体は昔のもので、今では手に入らない白熱電球だが、その傘は瀟洒な切子硝子でさりげなく金がかけてある。
土間も石畳だ。
土間と上段の間の境に太い大黒柱が立っている。1尺5寸(45センチ)角という太さで、5年前のしめ縄がくたびれた様子で巻かれていた。
祐一朗は、祖母に言われて用意してきたさまざまな祭具類を車の中から「御殿」の中に運び込んだ。新しいしめ縄も三方も土器もある。そして大量の食料も。
「こんなに1人で食えないよ、俺?」
「いいから持って行きん。神様は大食らいなんだで。お供えするだけだから。余ったものは持って帰ってくればええだら。」とばあちゃんは言った。
本来は囲炉裏に火を入れるのだが、祐一朗は火の扱いなど知らないし、火事になってもいけないから電気ストーブも持ってきた。ついでに寝袋も。
一応、一晩神様と飲み食いすることになっているのだが、ばあちゃんは「寝ても大丈夫だで」と言っていた。
こういう古い家は底冷えするから、寝袋は必須だと思ったのだ。
酒は少し贅沢して高いものを買ってきた。
明日は運転して帰るのだが、宵の口なら飲んでも大丈夫だろう。
祐一朗は柱のしめ縄を取り替えた。
新しいしめ縄のついた大黒柱は、何だか神々しく見える。
「ただの柱でも、しめ縄を巻くと何だかそれらしくなるもんだな。」
祐一朗は一人で悦に入って眺めてみる。
「さて・・・。」
祭りの式次第だ。
祐一朗は、はっきり言ってほとんど何も分かっていない。
5年に1度しかしない祭りだから、祐一朗が最初に見たのは小さい頃で、その次が小学生の時だ。
小さい頃は何となく怖かったことしか覚えていないし、小学生の時は「早く終わんねーかな」と思いながらだったので、ほぼ何も頭に残っていない。
3回目は高校受験前だったから勘弁してもらったので、結局祐一朗は祭りの雰囲気ぐらいしか分かっていないのだ。
祖母が書いてくれたメモを見ながら、まず祝詞をあげる。
続いて烏帽子をかぶって、枝打ち用の鉈の舞を奉納する。
これを自分がやることになるとは全く思っていなかったので、2日前からぎっくり腰の祖母の口だけ指導で猛特訓してきた付け焼き刃である。
「えっと・・・たしか、こうやって・・・・こうで、合ってたよな・・・?」
つい口に出して独り言を言ってしまう。この薄暗い「御殿」の中で1人だけ、という怖さもあるかもしれない。
ぎこちなく舞っているうちに、祐一朗は妙なものを見た。・・・ような気がした。
大黒柱のしめ縄の上あたりに、鬼瓦のような顔が浮かび上がったように見えたのだ。
鬼、といっても昔話に出てくるような鬼の顔ではなく、何だか四角張った機械みたいな顔で、表情がよく分からないものだ。
笑っているのではないことは分かるが、怒っているわけでもなさそうだ。
器物のようであり、それゆえに「鬼瓦」という言葉が祐一朗の頭には浮かんだのだ。
祐一朗は目を瞬かせた。
するとそれは消えてしまって、ただの黒い大黒柱が見えているだけである。
しかし、しばらく舞っているとまた目の端に映った大黒柱の表面に、その顔が浮かんでくる。
気味が悪い・・・。
この「御殿」の中にたった1人でいるだけに、祐一朗には自分に見えない死角の方に何かいるのでは・・・・? という思いが湧き続け、それを懸命に抑えながら舞を続けなければならなかった。
舞の最後に、鉈で大黒柱を切り付ける所作がある。代々の舞手が切り付けた傷が、しめ縄の下あたりにいくつもある。
祐一朗もそこに1つ傷を加えるために、くるりと回って鉈を水平に柱に当てる所作に入った。
これで舞は終わりだ。あとは柱の前で、一晩飲み食いすればいいだけ。気楽な儀式になる。
祐一朗は少し格好をつけてくるっと回り、鉈で切り付けるべく柱の方に向いた時。
しめ縄の上にあの顔がはっきりと浮かんでいた。
「うわっ!」
思わずビクッとして腕がぶれ、鉈の刃もぶれて柱に真っ直ぐ当たらず、ぐにっと捻れてしまった。
柱に傷は一応ついたが、所作が決まったとは言い難い。
祐一朗がもう一度見上げると、鬼瓦のような器物のような顔は消えてしまっっている。
「何だったんだ? あれ・・・。こ・・・これで、いいんか・・・?」
祐一朗は今すぐ逃げて帰りたくなった。
1人でなければ・・・。
こんなことが起こるなんて、聞いてないぞ?
無理矢理にでも、ばあちゃん連れてくればよかった・・・。
すると、さっき付けた頼りない柱の傷のあたりから、黒い靄のようなものが湧き上がり、それが柱のまわりにまとわりついてどんどん濃くなってゆく。
祐一朗は鉈を持ったままで後退った。
こんな記憶はない。
2回見ているけど、こんな変なことが起こった記憶はさすがにない!
儀式、失敗したのか?
やがて、柱のまわりにまとわりついた黒い霧のようなものはあの顔の形になり、祐一朗の方に向かって動き出した。
「わ・・・うわああああ!」
祐一朗は鉈を振り回したが、靄には何の効果もない。
しいなここみ様の指摘を受けて、少し修正しました。
「脱輪」。。。(笑)