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第九話 遭難

 沢の水が流れ込んで出来た小さな池は、夜を明かすには丁度良いかもしれない。マリベルはそう考えて、風と寒さをしのげる場所を探すことにした。

 池の上部は小さいけれども茂みが途切れて、ほんのり茜色に染まる雲が浮かぶ空がはっきりと見えた。やはり数時間の間、気を失っていたのだとマリベルは自覚し、早めに動き出す。

「経験は身を助けるって本当ね」


 乾いた枝を拾い集めながら、マリベルは池の周囲を歩く。

 山が近いせいか、大きな岩がごろごろと転がる地形に、長年手つかずで成長した木々が岩を抱き込むように幹を上へ上へと伸ばしている。こういう地形は、マリベルにとって慣れ親しんだものだ。

 コールフィールド子爵家がある屋敷の裏は、かつて深い森が広がっていた。幼いマリベルは、祖父に連れられてその森に入っては、自然の恵みを収穫し、狩猟の手伝いをしていた。あまり裕福ではない子爵家を潤してくれる森だったが、今はもうその頃の姿を保っていない。聖都ヴァリハリウスが発展するとともに少しずつ木々が伐採され小さくなり、マリベルが成人する前には昔の面影を失っている。

 かつて森の奥に棲んでいた数多の動物たちも、あっという間に姿を見せなくなってしまった。それが寂しくて、幼いながらも哀しかったのを覚えている。


「そういえば、森の主様を最後に見たのは、伐採が始まるよりも前だったわね。きっと森が無くなることを、予見していたのだわ」


 マリベルはかつて幼い頃に祖父と遭遇した、美しい白い牡鹿の姿を思い出していた。

 白い鹿は、神聖帝国にとって象徴でもある。深い森に棲むために稀ではあるけれども、ときおり人々に目撃されている。この国の人々は、彼らを主神セスの遣いと崇め、決して傷つけてはならないとされている。


「……丁度いい穴ぐらね、ここを間借りしましょう」


 ひときわ大きな樹の根元に、マリベルが身を寄せるのにぴったりな窪みを見つける。

 寝床を確保できたので、次は火種となれる木の皮を探す。池は動物たちが水飲み場にしていることがある。出来ることなら森で夜を明かすことは避けたいが、深い森で目印のない場所に留まることはもっと危険だろう。せめて火を熾し、身を守ることを優先するマリベル。

 そうして集めた枝と落ち葉を集めて、石を簡単に組んだ中で火を熾す。小さく丸めた木の皮を握り、マリベルは深呼吸してから集中する。


「一か八か、お願い」


 ほんの少しでもいい。火種が欲しい。

 三歳の幼児ですら、簡単にできる初級魔法。それすらマリベルにとって、体中全ての魔力を一点に集め尽くすくらいでないと、発現することは不可能だった。

 目を伏せ、両腕を差し出して魔力を練る。

 そうして集中し続けること十分。

 ようやくマリベルの組んだ指の間に熱がこもると、慌てて手の内にあった火種を柔らかい葉で包み、息を吹きかける。


「……そんな」


 赤い炎が立ち上がることを期待したものの、炎があがることはなかった。燻った白い煙を出しただけで終わってしまった。

 マリベルは心底がっかりしながら、しながら大樹に背をもたれかけさせて、大きく息をつく。

 額には汗が滲み、少しだけ息も上がっていた。

 マリベルの体内に残っていた僅かな魔力が、底をついているのが分かる。二度目の挑戦は不可能だろう。

 不運だった。長い馬車の旅を続ける間、ただでさえ枯渇していたところに、今回の発火の魔法が成功する可能性はとても低いことは、自分でも分かっていた。


「いいえ、それでも試してみる価値はあった……」


 マリベルは煤がこびりついた掌を開き、大樹にぐったりと身体を預けたまま見下ろす。

 もう、手足を動かすことも億劫だった。このまま瞼を閉じてしまいたい、そんな欲求に身を任せてしまいそうになった時。

 マリベルの霞む視界に、白い鼻先がにゅっと入ってきた。


「え……白い……牡鹿?」


 驚いたことに、真っ白な牡鹿が、いつの間にかマリベルが寄りかかる大樹の側に立ち、室のようになっている穴を覗き込んできていた。

 艶のある白い毛皮は、まるで淡く発光しているかのように、昏い森とは対照的だった。水色の瞳がマリベルをじっと見つめ、首をほんの少し傾ける。

 大きな体格と伸びきった立派な角が左右に広がり、雄々しい姿ではあるが、なぜかマリベルに恐怖心を与えることはない。


「ごめんなさい……貴方のお気に入りの場所を取ってしまったのね」


 重いからだを引きずって立ち上がろうとしたマリベル。だが上手く力が入らず、片膝をついたまま、大樹の幹に掴まるがそれも上手くいかない。

 そんな様子を見ていた牡鹿が、ふいに池に向かって歩き出す。

 水を飲みに来ただけだったのだろうか。そう思って見守っていると、牡鹿は何かを口に咥えて戻ってきたのだ。

 やっぱりこの場所を明け渡したほうが良さそう。そう思って再び立ち上がろうと、震える足に力を入れたのだが。


「え、まって……」


 戻ってきた牡鹿が、まるで立つなと言いたげに鼻先をマリベルの膝に押しつけたのだ。

 そして再び座り込んでしまった彼女のスカートの上に、咥えていたものを置いた。

 それは池のほとりに咲いていた、ほんのり赤く光るリコリスの花だった。


「これ……私のために?」


 白い牡鹿は、じっとマリベルを見守るように立っている。まるで「さあ早く」と言いたげでもある。

 マリベルはそんな牡鹿から、膝の上に乗るリコリスに視線を移す。

 ごくりと、咽が鳴る。

 今、ここにはマリベルと牡鹿だけ。しかも魔力が枯渇して、火すら熾せずに朝を待たねばならない状況だ。

 マリベルは意を決して両手で発光するリコリスをすくい、急いでそのまま口へ運んだ。

 触れただけで崩れていくリコリスの花びらを、零さぬように呑み込む。

 するとマリベルの頬、それから喉が赤く光り、彼女が呑み込む様を顕しているかのように胸から腹へと淡い発光が落ちていく。

 そうして強かった光が徐々に淡く変化しながら、マリベルの四肢へと広がり、消えていった。

「……はあ」


 吐息を漏らす姿を、牡鹿がじっと見つめているのに気づき、マリベルは苦笑する。そして先ほどまでとは違い、素早く立ち上がると。


「ありがとう、おかげで動けるようになったわ」


 これが、マリベルが悪食と噂される要因だった。

 猛毒の花リコリスを食べる令嬢。

 誰にも知られぬよう、決して見られぬようにと、隠し通してきたはずだった。それなのにいつからか、ヒソヒソと噂されていたのに気づいた時には、もうマリベルには訂正することができないほどになっていた。

 いや、訂正というのは正しくない。真実、マリベルはリコリスを口にするのだから。

 だがマリベルがそうするには、どうしても避けられない事情があってのことだ。それは今回のように、魔力が枯渇して動けないほどになった時だけ、誰にも見られないよう、隠れて密かに口にしていた。

 どうしてマリベルだけがリコリスの毒に耐性があるのかは、マリベル自身すら分からない。そもそも、リコリスとは何なのか、それすらどの本を調べても明確な答えに辿り着けなかった。ただ唯一分かることは、リコリスを食べた後は、マリベルの身体に僅かながら魔力が満たされること。そして……


「あなたにも、やっぱり毒は効かないのね」


 マリベルは、そっと身を寄せてくる白鹿の背を撫でる。


「おかげで、しばらくは何とかなりそうよ、ありがとう」


 再び用意してあった木の皮を手に握る。そして同じように両手でそれを包み、炎が燃えさかる様を想像しながら、呪文を唱える。

 するとさほど時間を経ずして、掌に熱が膨らむ。マリベルは急いで赤くなった木皮を枯れ葉の中に落とし、息を吹きかけると、赤い炎が大きく立ち上がったのだった。

 パチパチと音をたてて燃え始める。

 生木がたくさんの煙を出して、池の上に吸い寄せられるかのように流れて、紺色に染まりつつある空へと舞い上がっていく。そんな様子を安堵しながら眺めて、マリベルはほっとため息をつく。


「さっそく迷惑をかけてしまったわ、契約前だからクビとは言わないかもしれないけれど……」


 今日会ったばかりの、人の良さそうな使用人たちの顔を思い出し、少しだけ辛くなるマリベル。出来ることなら、あの優しい人たちの中で働きたかった。

 切なくなりながら、マリベルは熾した火の側に座ると、まるで彼女を慰めるかのように牡鹿が身を寄せながら横に寝そべる。


「ありがとう、あなたが居てくれて良かった。明るくなるまで、ここに居させてね」


 捜索をしているだろうとは思うものの、暗くなっては仕方がない。朝になったらまずは池から湖に繋がる沢がないか、探してみよう。

 そんな風に気持ちを切り替えた頃。

 小さな池に、一筋の小さな光が落ちる。その光が池の水面に触れるのと同時に、まばゆい光が一気に広がり、水面に魔法の文字が円を描いていく。


「……あれは、まさか転移魔法陣?」


 そしてマリベルが唖然と見守る中、その円の中心に長い黒髪を靡かせた、クライドが現れた。

 彼一人を転移させた魔法陣が光を失い、消失していくとともに、彼が水面の上を歩いてくる。そして真っ直ぐマリベルの目の前にまで来ると。


「怪我は?」


 そう言いながら手を差し出されたのだった。

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