32話 溺れさせるはずが溺れる事に。
王国軍は何も王都に籠城するつもりはない。それはあくまでも最悪な最終局面である。
王国が生き残る為には、北軍と北部辺境伯軍の合成軍を蹴散らし、撤退させるしか方法はない。
王国が奪われた副都を攻撃しなかったのは偏に守りで勝てなかったのに、攻撃側で勝てるはずがないと分かっていたからである。
そこでいたずらに戦力を減らす事はせずに、決戦に備えることに全力を投じた。
それが今、ソウ達が目の前にしている光景である。
「あんなモノをよくこの短期間で拵えたものだな」
ジャックの呟きに
「人が死ぬ気でやればやってやれない事はないと、体現してくれましたね」
ソウが半ば冗談で返した。
今朝街の前の野営地から出立した北軍は、辺境伯軍を半分ほど街の守備隊に残し夕刻前にここへ辿り着いていた。
兵が減るのは避けたいが、挟み撃ちはもっと避けたい。王国の策略だとわかっていながらも街に兵を割いたのだ。
王国が選んだ決戦の地は川だ。
帝国軍と王国軍の間には幅10mほどの川が流れている。元々橋が掛かっていたのだろうが、今は無く、向こう岸にそれらしい跡が残っているだけである。
川の周りは丸い石や岩がゴロゴロと転がっているのが伺えた。水深はここからではわからないがそこまで深そうには見えない。
「どちらにしてもかなり苦戦は強いられるだろうな。こちら側はどうにかして、あの土塁を突破しなければならない」
「そうですね。迂回…は出来ても少数でしょうから、すぐに袋叩きにあいます。それに土塁の前にまずは川をどう越えるかですね」
ソウ達がいる方の川岸は見渡す限り何も存在しない。正確には色々な所が煤けているので、王国軍が隠れ蓑になりそうな所は全て燃やしてしまったのだろう。
唯一隠れられる所といえば、帝国軍が通ってきた街道がある森くらいのものだが、そこまで下がれば川からはかなり離れてしまう。街道は撤退するにはいいが、大軍が展開するには密集した木が邪魔になる為、野戦では使用しずらい。
王国軍の陣取っている川岸は、高さ3m程の土塁が見渡す限り全ての場所に積み上げられていた。
その向こう側はどうなっているのかもわからない。
「わかっている事は、こちらも手出し出来んが向こうもそれは同じということ。今日はここでの野営になるだろう。俺はこれから全体の軍議に参加してくる」
「はっ!」バッ
ジャックはそう告げてその場から去って行った。
残されたソウは嫌な予感を感じていたが、それが何処から来るものなのかわからないままだった。
明朝。まだ日が昇っておらず、辺りは薄暗い中、轟音が川岸に轟いた。
ドドドドドドドドドドッ
それはまるで生き物のように辺りを蹂躙していく。時に腹を空かせた神話の龍のように全てを呑み込み、時に怒り狂った神話の巨人のように全てを破壊しながら。
上流から流れ迫る濁流は全てを呑み込んだ。
布陣していた帝国軍の天幕、軍幕、篝火は全て呑み込まれて、暫くするとそこは濁った池へと様変わりしていた。
そこに大きな歓声が上がる。
「「「うぉぉおおおっ」」」
辛うじて濁流に耐え切った土塁の向こう側。王国軍の勝鬨の声であった。
しかし、それにはまだ少し早い。
「全軍突撃ぃいっ!!」
これから簡単な掃討作戦が最後に残っているのだから。
いくら鉄砲水を直撃させても、万を超える軍勢であれば生き残りは多数いる。
もしかしたら半数くらいいるかもしれない。
しかし、寝起きもしくは寝ている所に突如水が襲ってきたのだ。
碌な準備も心構えも出来ていないモノはいくら精強で知られる帝国兵であったとしても雑兵へと様変わりする。
王国軍は溺れないように鎧を装備せずに川を渡り、帝国軍に蹂躙された。
時は遡り前夜。帝国軍陣地にある一際豪華な天幕が騒がしくなる。
「何事か!?」
中にいたディオドーラ将軍が何某かに聞く。
すぐに入口が開かれて兵が応える。
「はっ!エルメス少佐とソウ軍曹が将軍に一刻も早く伝えたい事があるとのことで。直ちに追い返します!」
それを聞いたディオドーラは兵に告げる。
「通せ」
「は?…はっ!」
兵は一瞬理解に苦しむが命令には従うのみ。返事を返したら直ぐに入り口から離れて行った。
「こんな夜更けにどうした?決戦は明日だぞ?」
入ってきた二人に不機嫌そうに問う。これでくだらない事であれば…と脅しの意味を兼ねて。
もちろんジャックに限ってそれはないと分かってはいるが、寝不足は老体には堪えるのだ。
「夜が明ける前に敵の罠が発動します」
答えたのはジャックだ。
「罠だと?ここには何もないではないか?」
帝国軍側の川岸には草一本も残されていない。川に近づくと土から丸い石に地面が変わるだけである。
「水が少な過ぎるのです」
「いまいち要領が掴めんな。全部話せ」
そこでジャックが説明したのは
川岸に広がる石が多すぎる。こういう丸い石は川の近くにしか存在しない。であれば、川の水量が減ったという事。その水はどこにいったのか?
「つまり水責めということか。証拠はあるのか?言葉だけでは軍は動かせんぞ?」
ジャックに反発する軍の上層部は多い。
「第四大隊に新たに作った特殊部隊に調査させました」
ジャックも寝耳に水だったのだ。
休もうかと思っていた時に自身の天幕にソウがやってきたのだ。
ソウはやってきて早々に、気付いた事をジャックに報告した。
川の水位のこと、王国軍の土塁の本当の狙い。
そしてジャックに許可を求めた。特殊部隊を使って川の上流を調べさせる事の。
そして結果は出た。
上流に恐らく帝国軍側の燃やす前の材木を使って作った堰を発見したのだ。
堰とは名ばかりの殆どダムだ。
土塁の土はここから運び出されたものだろう。そこには池が造られており、その水量は土塁の規模に相当した。
「なるほど。ソウの気づきにエルメス少佐が応えたのだな。
良くやった。後は任せ、二人は戻るのだ」
「「はっ!」」
こうして王国の策は空振りとなったのであった。
「いいか?指示通りに行動するんだ。絶対に王国軍にバレてはならない」
時は夜の帳が完全に降りた頃、場所は大隊の天幕。その中で中隊長を前にしてジャックが命令を下した。
「鎧はそのまま置いていく。音が鳴るし偽装の為だ。装備は重たいから遠くまでは流されん。そしてすでに行動は開始されている。一度に動けば物音が大きくなる為、報せが来るまでは各部隊の天幕内で待機を命じる。もし騒ぐ者がいれば躊躇なく斬れ。それは自国兵であっても敵だ。ここからは敬礼も無しだ。いいな?」
ジャックの言葉に頷きを返した中隊長達は静かに天幕を後にした。
普段であれば大量の篝火が炊かれているが、その数は1/4以下にまで減らされている。
静まり返る帝国軍陣地であった。
懸念されるのは王国軍側が偵察に来る事だが、もし偵察がバレると何かの拍子で作戦が水の泡になる可能性が高い。
例えば偵察部隊なのに何らかの策だと警戒されるかもしれない。
例えばこれまでしてこなかった夜襲を警戒するきっかけになってしまうかもしれない。
以上の理由から王国軍が偵察隊を放つ可能性は低く、遠くで暗闇の中を見張られる分には十分隠し倒せると考えた。
そして万全の体制でその時を待っていた帝国軍の耳に聞き慣れない轟音が迫ってくる。
ドドドドドドドドドドッ
帝国軍が隠れている街道沿いの森の中までは水はやって来ていない。
しかし、目の前を流れる暗く濁った濁流に歴戦の帝国兵であっても背筋に冷たいものが流れた。
一気に全てを押し流した濁流だったが、暫くするとその流れを安定させ、辺りに静けさが戻ってきた。
それを破ったのは、王国軍の怒声の様な突撃の鬨の声だった。
「すげぇぞ!?何も残っていない!」
水位は膝の辺りまで依然としてあるが、王国軍はその中をやってきていた。
「か、勝ったんだ!俺達が帝国軍を倒したんだ!」
「喋ってないで死体を探せ!」
「士官の首一つで昇進や褒美が出るぞ!」
泥水の中を王国兵が手探りで帝国兵の死体を探すが、辺りにはまだ日が差していないためうまくいかない。
帝国軍の篝火も全て流されていて、視界がとれないのだ。
そこに漸く陽光が差した。
王国軍にとっては恵みの朝日になるはずだったが、それは別の鬨の声により間違いだったと知らされる。
「突撃ぃぃい!!」
「「「「うぉおおおっ!!」」」」
泥水を掻き分けて帝国軍の一斉突撃が開始された。
そこにいた王国兵は戸惑う。暗闇の中、水の中を通ってここまで来たのだ。隊列など組めているはずもない。
そして気持ちはすでに勝ち戦だった為、その混乱に拍車が掛かる。
対して帝国軍も条件に大きな違いはない。
しかし、気持ちの面、覚悟の面では大きな違いが出た。
王国軍は策に溺れて、大敗を喫する事となった。




