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古代ギリシャに重ねて見てみる最近(愚痴多め)

作者: 魚羅投句

古代ギリシャって良いよね。

オリュンポス十二神とか哲学者とか。

奴隷制とかは怖いけど。

最推しはディオゲネスって人で、

アレキサンダー大王にタメ張れる壺暮らしのおじさんです。

 

 昨今の日本を見ると、私は以下のように感じるのだ。(日本までしか見れないとも言えるだろう。)

 難解(もしくは単純)な道理よりも親しみやすい言葉を優先している、と。

 これが国家滅亡の兆候と言ったら流石に過言だろうか。(勘違いされないよう記しておくが、私は左右だとかには興味がなく、中庸でありたいと思っている。)


 私は、選挙やSNS、あるいは学生時代の記憶から上記の状態にあると考えた。勿論、これは私の主観に過ぎず、違う見方をする人は大勢いるだろう。そんな方々にはもしもそのような状態になったら、という仮定のもとに考えてみてほしい。(セルフハンディキャッピングをしておくが、間違いがあればコメントでご教授願いたい。私は教師などではないので知識が正しいとは限らないからだ。)


 ”心で見なければものごとはよく見えないってこと。 大切なことは目に見えないんだよ。”

 サン=テグジュペリの「星の王子様」の有名な一節である。(訳は管啓次郎)

 私はこれを、直接認識できるものだけでなく、そこから考えることで得られる情報を重視せよ、と

 捉える。(この解釈はあの本が伝えたいところとは外れるものかもしれないということは理解している)

 魅せ方の上手い人が得をする世の中だと感じたことはないだろうか。あるいは、真面目な人ほど損をする、と。

 勿論、良く魅せるというのも能力の一つでありそれ自体は非難されることでもないのはご存知の通りだ。

 見栄えの良いものが得をすれば従って見栄えの悪いものは損をするのもまた当然のことではあるが、それに不快感が生じるのは何故だろうか。

 それは、見栄えと評価基準が本来は関係しない場合においてこれが生じていると考えられるからだろう。

 私は特に受験や就活においてこれを想像することが多い。

 見栄えが関与する分野なら評価基準に入れるべきであろう。しかし、学問や経営、事務作業などに良く魅せる技術は必要だろうか。

 むしろ、良く魅せる技術を持った人間は警戒されてしかるべきであるとは考えられないだろうか。

 ものの道理で考えれば飾る技術に時間を割いた人間よりそのことに時間を割いた人間の方が有能であり、なんなら魅せ方を知らない人間の方が低リスクである。良く魅せる必要があるのは魅力的でないものだけなのだから。(普段から笑顔の人間なんて無表情より恐ろしいと思わないだろうか)

 だからこそ、ここで要求されることは評価を下す側に立った時、あるいは何かを判断するときに、輝くべくして輝いているのか、輝くように輝かされているのかを見分けることだろう。


 ではどのように本物と偽物を見分けるか。これは簡単なことで、ナイフなら切ればよく、絵なら見ればよい。求めるものを明確にし、その一点においてのみ考えればよい。大雑把に言うと本質(後述するエイドス)をとらえればよい。

 政治なら、例え無名でも社会について勉強した人に任せるべきであり、

 世界的に未知のことは、有名人や一般人の言うことではなく専門家の集った組織の結論を待つべきであり、

 人を評価するならば、社交性や努力量と他の評価はきっぱりと分けるべきだ。

 何かを得る前に自分が何を欲しているのかを明らかにしなければならない。見栄えか性能か栄光浴か。

(それはそれとして、分からないことを分かろうと考えることは非常に効率よく成長させてくれる。正しそうな知識とは別に例え世論と異なっていても自分の意見を持っておくことは重要である。)


 さて、ではこれが国家滅亡につながるだろうか。論理の飛躍に思えるだろう。

 ここで、時間と位置とが遠く離れた古代ギリシャについて知っていただきたい。言わずもがな、既にご存知の方は読み飛ばしてもらって構わない。


 古代ギリシャは多神教で、多数の都市国家がそれぞれ自治をしていた国であり、現代の間接民主制とは大きく異なるが、民主制を開始したアテネが中心であった。文化的に日本と近い部分があると思わないだろうか。そして、古代ギリシャと言えば原子論のデモクリトスやイデア論のプラトン、万学の祖と呼ばれるアリストテレスなど数々の哲学者が居た地でもある。

 一度、彼らの功績を挙げてみよう。

 ピタゴラスは特に有名だろう。三平方の定理の発見者とされるほど数学を発展させた。

 ソクラテスも有名だろうか。無知の知という姿勢は謙虚さと強欲さを同居させる実に有効な態度である。

 プラトンのイデア論はまさに、大切なものは目に見えない、という理論だと言っても過言ではないだろう。また、教育機関アカデミーの先駆けであるアカデメイアを作ったのもプラトンである。

(イデア論とは現実の事物から世界で普遍的な概念<美、大小など>を考えることで真理を追究する理論であり、複数の物から共通した要素を取り出す手法はお察しの通り学問の基本である。それは、赤子が両親や家族、人々を見聞きして”人間”、”言語”を学習するのと同じではなかろうか)

 アリストテレスの目的論的世界観はイデア論をより現実に近づけた思想である。それぞれのものにそれぞれの目的<これをエイドスと呼ぶ>が存在するとしたのだ。ナイフは切ることがエイドスであり、鉛筆は書くことがエイドスである。(では人のエイドスはなんであろうか。)彼もまたリュケイオンという教育機関を作っている。(それぞれのものからそれぞれ特有の目的を特定するというのは共通した要素を取り除くこと<イデア論と真逆の手法>によってできる。これもまたお察しの通り学問の基本である。それは、幼児が”自分”と”他人”を学習するのと同じではなかろうか)

 デモクリトスの原子論、エンペドクレスの四元素説は化学に通じているし、ゴルギアスの懐疑論、プロタゴラスの人間万物尺度論は今では普遍的なものだろう。

 長々と一部の哲学者の凄さを記したが、当時のギリシャが相当の知識を持っていたとすることに納得いただけるだろうか。

 そんなギリシャも彼らの直接民主制によって衰退してしまう。

 民衆が直接判断を下すこの仕組みはソクラテスを処刑し、戦争を敗北へと導いた。(民主制とは呼ばれるが有権者は成人男性のみであり、その成立は国家総動員で戦争に勝利したことにある。)

 偉人を失うこと、戦争の責任を負わされることの損失の大きさは想像がつくだろうか。

 そして、衰退に続くのは都市国家間の諍いである。余裕がなくなった人間は満員電車の乗客のように他人への思慮を失うのである。

 最終的に、内部分裂を起こしていて資産のある国を前にしていると知った第三者の国は当然漁夫の利を得て、かつての賢人の国は無くなった。

 ではなぜギリシャでは衆愚政治となってしまったのか。それは、「デマ」の語源となるデマゴーグの出現によるものだとされている。

 デマゴーグとは民衆を指導する者のことであったが、その意味は無責任に民衆を扇動し自分たちに都合の良いように民主制を荒らす者へと転じた。直接民主制という仕組みから弁舌だけで国を堕とせてしまったのだ。(声を荒げる者には気を付けなければならない。第二次世界大戦もまた民主制とデマゴーグによって引き起こされている。)


 漸く今、ここでの話に戻る。

 日本は間接民主制であり、そのおかげでデマゴーグが現れても(もしくは現れていても)直接民主制の古代ギリシャよりも悪影響を大きく抑えるだろう。しかし、新型コロナやウクライナなど世界情勢が荒れ、世界と共に日本も疲弊していることは確かである。それでいてコロナ前に近づこうとあがく姿はさながら風邪を引きながらもエナドリを飲んで体育祭に出る高校生のようだ。もう少し休むことを提案する。そんな状態では組体操で骨折の大けがしてもおかしくない。

 そしてそれは私達も例外ではない。近頃はYoutuberなどの魅せる人たちが爆発的に増えている。(娯楽が多様化するのは良いことだと考えている。)政党にしても政治ではなく自己表現のためのような党や候補者、そして何故かそれに賛同する有権者も多いようだ。(何かをただ単に悪だと決めつける人物が善きことの基本である中庸を備えているとは考えられないのではないだろうか。)

 SNSは身近だが、それ故に道理に適応できない人も近づきやすくなっている。道化師に本気になっては興ざめだ。衆愚にはならないように、ただの人としてまともに電子の海を波乗りすることをお勧めする。


 要点を纏めよう。


 各自、笑顔と怒号に備えよ。そして願わくば、心に余裕を持て。


 では最後に、

 この文章は余計に文章を飾り付けていませんか?

 この文章が何かを扇動している可能性はありませんか?

 この文章をポイ捨てされた煙草の吸殻と同じように見なせていますか?

 駄文長文失礼しました。

 それでは。



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― 新着の感想 ―
[一言] 読みでがあった。小説家になろうはいわゆる『なろう系』しかないと思っていたけど間違いだったようだ。
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