93.サラとマリアの出会い
十五年前。ブリタニカ王都。
黒いフードを被り、私はただぼんやりと夕暮れの街を歩いていた。先月交渉団をやめてから、私はすっかり生きる目的を見失っていた。このまま旅に出るか。ただ日々が過ぎ、死ぬのを待つか。
「どうでもいいわ…」
愛する人と、愛する人と作る未来、そして大事な立場を自ら手放した。
それで気付いた。私には何もないことに。
家族はいない。私がまだ幼いうちに命を落としたという。最悪な孤児院でごみのように育てられた。でもそこから死に物狂いで這い上がり、王国の騎士団試験に合格し、あれよあれよと出世街道を登っていった。
エルグラントと、仲間と、交渉団が、私の全てだったのだ。
市井に降りてそれを痛感した。帰る家がない、帰る場所がない、行く宛もない。
「やっぱ、私の人生なんかこんなものよ」
自嘲気味に笑う。自分で飲んだくせに顔の周りをまとわりつくアルコール臭がひどくて吐きそうだ。
馬車や人々が歩く雨の降る大通りをとぼとぼと歩く。今日はどこに泊まろうかしら。お金だけは馬鹿みたいに貯めててよかったわ。飢えで行き倒れることだけはないから。飢えは恐ろしい。私は孤児院での生活を思い出す。パン一つで、二日間過ごさなければなかったあのときを。
はぁ、…と何度目かわからない溜め息を吐いて、私はまたとぼとぼと歩く。もう一件酒場に行こうかしら。それとも…と、思案していたが、ふと足を止めた。
通りの先の方で、馬車に何人かが群がっている。あれは…
「…公爵家の馬車?」
間違いない。この国の三大公爵の一つ、ヘンリクセン家の紋章が入った馬車だ。警備と、複数人の酔っ払いが揉み合っている。
市政ではよくある光景だ。そのうち自警団も到着して事なきを得るだろう。しかし、酔っ払いも何もよりによって公爵家の馬車に絡むなど。もう訳が分からなくなるほど飲んでしまってはこの薄暗がりの中で、公爵家の紋章などわからないのだろう。
「重罪だわね」
自警団に捕まり、なにかしらの処罰が下されることは一目瞭然だ。
踵を返して、関わり合いにならぬように反対方向へと歩こうとした時だった。
ーーー僅かだった。本当に僅かで耳をすまさないと聞こえないほどの声だったが、雨と喧騒の合間を縫って幼い子どもの泣き声が聞こえた。
「…え?」
訓練を受けていたから私はかなり耳がいい。間違いなく声の主はあの馬車の中にいるようだった。
「…ヘンリクセン家には赤子がいたかしら?」
確かもう七歳になるご長男はいたはずだけど…。
いや、そんなことよりも。
魔がさした、としか言いようがなかった。
気がつけば馬車に向かって駆け出していた。僅かばかり残っていた正義感が後押ししたのか、ただの憂さ晴らしか、…自分の元にもいつか来ていたかもしれない赤子を見てみたいという、何もかもを捨てた女の醜い小さな願いか。
酔っ払いたちの急所を狙い、怪我を負わさぬ程度に動けないようにする。自分でも驚くほど身体が動いて笑ってしまう。一ヶ月鍛錬をしていないから、すっかり身体は鈍ったと思っていたのに。積年の訓練というものはいざという時役に立つものね…なんてぼんやり考える。
酔っ払いを鎮静化して、警護の人間からお礼を言われる。私の顔を知っているとは思わないけれど、フードを目深に被り直して、適当に相槌を打ちながら馬車の中をそっと見ようとした、そのとき。
ばんっと、扉が開いて、青年がひょい、と顔を出した。
完全に油断していた。ばっちりと目線が合ってしまったあとに、私は反射的に下を向いた。
ヘンリクセン公爵だわ!勿論交渉団団長として何回かお話ししたことがある。
私は退団後の所在を団員には勿論のこと、シャロンにも教えていなかった。そこからエルグラントへ漏れることを恐れたからだ。…まぁ、所在などなかったから教えようがないのだけれど。公爵経由でバレたらどうしよう。
悪いことをしているわけではないのに、なんだか後ろめたい気持ちになってそのまま視線を逸らし続けた、そのとき。
「おいで」
「…へっ?」
そう言って私はヘンリクセン公爵に腕を捕まれ、馬車の中に引き込まれた。
すとん、と引っ張られるがまま座らされると目の前には息子様のロベルト様。…と。まだ二歳くらいの小さな子どもを抱いたヘンリクセン公爵夫人。私は思わずその子に釘付けになる。小さくて、色素の薄い金髪に近い茶色の髪に白い肌。零れ落ちんばかりのエメラルドグリーンの瞳がこちらをじっとみていた。
…なんて可愛い生き物なの。
私の胸が可愛さと庇護欲でぎゅう、と締め付けられる。
「この度はありがとう。まだ小さい子がいたから下手に馬車から顔を出して叱るのも危険だと思って、手を出せなかった」
「いえ…こちらこそ…馬車を濡らしてしまい、申し訳ございません」
隣から話しかけてくる公爵様と出来るだけ視線が合わないようにそっぽを向くが、まぁ、当然のことながら、
「久しいね、マリアンヌ・ホークハルト殿」
「…お久しゅうございます」
…バレバレだった。
「まさかの拾い物をしてしまったよ。シャロン陛下とエドワード王婿…あとエルグラント団長が必死に君の行方を探している。今までどこにいたんだい?」
「…私には帰る場所も住む場所もございません。ただ毎日目的もなくぶらぶらとしておりました」
ああ、惨めだわ。…かつての国家最高機関の団長だった自分が酒の匂いをプンプンさせてフラフラ目的もなく生きているだなんて。
ぎゅっと握り拳を握る。
「陛下たちにお伝えしてもいいのかい?ここで君に会ったことを」
その言葉に私は驚きのあまりガバリと顔を上げる。そこには優しく優しく微笑むヘンリクセン公爵がいた。
「…私がいくら拒否したところで、公爵様は陛下たちへ報告する義務があるのでは?」
「んー?別に君を見つけても報告しろと命令はされてないからなぁ。義務はないな」
ますます信じられない、でも、この方は界隈でも名高い人格者だ。…それなら。
「…公爵様が不利益を被らないのであれば…私と会ったことは内密にしていただけると…助かります」
「うん、オッケー」
軽っ!軽いわねこの人!
「あなた、私にもご紹介してくださらない?」
目の前からのんびりした声が聞こえる。公爵夫人だ。ニコニコと裏のない笑顔で微笑みながら私を見ている。
「あぁ。君は直接話したことは無かったね。こちらはマリアンヌ・ホークハルト殿。騎士団長から交渉団団長を勤め上げた噂の英雄だ。マリアンヌ殿。これは私の妻でアデレード・ヘンリクセンだ」
「アデレードですわ、よろしくお願いします。こんなご高名な方とお会いできるとは…!私、貴方の武勇伝を幾つも聞いておりましたの!お話しできるだなんて感激ですわ!」
他の公爵家と違い、ヘンリクセン家の悪名を聞くことはほとんどなかったけど、今の挨拶でなんとなく納得してしまった。
いくら交渉団団長とはいえ、私は平民のしかも孤児院育ち。一部の貴族はそのことでせせら笑う者も多かったけれど、この夫妻からはそういう視線は微塵も感じない。私から頭を垂れて跪かなければならないところ、そんなもの不要だとでも言わんばかりの簡単な挨拶だった。
「光栄です…ですが今はご覧のように日々酒に溺れ、ここまで落ちぶれた身。そのように言っていただける資格はありません」
情けないなぁ。
自嘲気味に半笑いしながら言うと、夫人は一瞬キョトンとしてから、再びにっこり笑った。
「…そうは思いませんわ。マリアンヌ様。今がどうであれ、貴方様の功績が消えることはありませんもの。そうですわ!…お願いがありますの。この子を抱いていただけません?稀代の英雄に抱っこして頂けるなんて、この子の一生の自慢になりますわ」
そう言って夫人は半ば無理矢理私にその子を押し付けてきた。
「えっ…!え、ちょ、ちょっとお待ちください」
「あ、人見知りが激しいので泣いたらごめんなさいねー」
「あ…っ、はい…っ」
っていや、そうじゃなくて!!と反論する時間もないまま私の腕の中にはその小さな子がすっぽりと収まった。
「…う、わぁ…」
思わず声が漏れた。少しでも力をいれたら壊れそうな柔らかくてふにゃふにゃした体なのに、それに反するようにその曇りなきエメラルドグリーンの瞳が私を力強く見つめていた。
「かわ…いい」
思わず言葉が漏れた。
「あら…珍しい。泣かないなんて」
公爵夫人が言っている言葉が遠くに聞こえている。そのくらい私はこの目の前の子どもに釘付けになっていた、そのとき、
ーーーぎゅっ、と。
信じられないくらいの力強さで子どもの指が私の服の胸元を握ってきた。まるで信頼するかのように。離さないでねと言わんばかりに。
何故かはわからない。わからないけれど、その瞬間、私の胸の奥から何かの感情がぶわりと湧き上がってくるのがわかった。そして、
ーーーー私は、泣いていた。
慟哭という言葉がぴったりなほど、私はその子どもを胸に抱いたまま号泣した。
得たかった未来、望んでいた未来。それらを自分で捨てたはずなのに、ここまで未練があっただなんて。
エルグラントと共に生きたかった。彼との間に子が欲しかった。こんな風に抱っこしたかった。
もう、絶対に手に入らない幸せを一瞬だけ私はこの手の中の子どもに重ねた。
ーーーーーー
「申し訳ございませんでした、取り乱してしまい」
私が泣いている間、ヘンリクセンご夫妻は何も言わずにただそのまま泣くことを許してくれた。
子どももキョトンとしながら、泣きもせずに抱っこされたままでいてくれた。
さすがに泣き止んでからすぐに夫人に返したけど。
なんだか泣いたら妙にスッキリしてしまい、僅かながら晴れ晴れとした気がする。少なくとも馬車に乗る前まで感じていた暗澹とした気持ちは無くなっていた。
エルグラントが好きだと言っていたエールがあるクーリニアにでも行ってみようかな。そこから一からやり直してみようかしら。
なんだかぼんやりとそんなことも考えてしまう。
「長居してしまい申し訳ございませんでした。これでお暇させていただきます。…もうお会いすることはないと思いますが、ヘンリクセン公爵家のこれからの益々の繁栄と…」
「よし、帰ろうか」
んっ?
私の挨拶を遮ってヘンリクセン公爵が何か妙なことを口走った気がするけど。
「ええ、帰りましょう。ほら、マリアンヌ様もきちんと座り直して」
「えええ?あの…?」
「どうしようかな?サラの侍女とかやってもらってみる?」
「はいっ?!」
「そうよねぇ、サラが人見知りしないのも初めてだったし。それにこんなに可愛いから、すーぐ人攫いとか会いそうだし、腕も立つ侍女がそばにいてくれたら嬉しいわ」
だめ、理解が追いつかない。何を言ってるの?サラ?この子の名?侍女って?私が?え?
「あの…すみません。先ほどから何の話を…」
まさかとは思うけど…
「サラの侍女、やってみない?」
「はいっ?!」
「とりあえず、今日はそのまま帰ろうか、我が家に。詳しいことはそれから話そう」
ごめんねー、待たせちゃって。出していいよー!公爵様が御者に向かってそう言うのを、未だ理解の追いつかない頭で聞きながら、私の体は揺られ始めた。
ーーーーこれが、私の人生を変えたお嬢様との出会いだった。