80.ヒューゴ、嬢を叱る
「それじゃあ、俺は本の手配が終わったらその足でシオンの元に向かい、ブリタニカに戻る」
私が書いた書状を受け取ったエルグラントが言い、私は頷いた。
「頼りになるわ、エルグラント。どうか道中くれぐれも気をつけて。…レイ、ヒューゴ、別室に行きましょうか」
隣のマリアの顔をそっと覗き見た後に、私は二人に向けて声を掛けた。
「お嬢様、そんな気を遣っていただかなくても大丈夫ですよ」
マリアが慌てて言うが、私は頭を振ってこっそり彼女に耳打ちする。
「嘘ばっかり。寂しいってあなたの目は言ってるわよ」
「…っ!ずるいですよ!お嬢様!!!」
ばっ!と私から距離を取り、顔を真っ赤にさせるマリア。ふふ、本当に可愛いんだから。
「愛し合う二人を一時的とは言え離してしまうのだもの。お願い。これは私のわがままだと思って聞いて頂戴。二人でゆっくり話をして」
「…お嬢様」
マリアはしばらくの間むむ、と考え込んでいたけれど、やがて顔を上げると少し照れたように笑って、感謝します、と言ってくれた。
ええ、と言うとすぐさまレイが私の手を取ってくれる。そのまま私たちは別室へと入っていった。
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サラ嬢たちが気を利かせて別室に入ってくれて行ったのを見届けてから俺はマリアに向き直った。
「…サラ嬢がくれた時間だからな。大切に使わせてもらう」
俺はそう言って、目の前にいるのに目を合わせようとしてくれない最愛の人を抱き寄せた。小さな小さな身体。俺の腕の中にすっぽりと収まるこの身体も心も早く何もかもすべて自分のものにしたいと思う。
「…くれぐれも気をつけて。あなたもう四十なのよ。無理がいつまでも通ると思わないで。夜通し走るのは今回が最後にして頂戴」
「きっびしーなぁ、マリア」
腕の中から聞こえるくぐもった声が恋人というよりはやはり上司から言われているようで、俺は思わず笑ってしまう。
「もっとこう、甘い空気出してくれよ。俺が後ろ髪引かれそうになるくらい」
そう言って力任せにぎゅうぎゅう抱きしめる。苦しい、というマリアの声に肯定の声音が入っているから力を弱めたりはしない。
「約束するよ。絶対に無茶はしない。でもマリアもだぞ?ヒューゴと奥方を送る帰りの道中はくれぐれも気をつけてくれ」
「わかってる」
…。
……。
「…寂しいなぁ」
「…寂しいわ」
全く同じ台詞が口から出てきて、俺たちは思わず笑ってしまった。そうだよな、やっぱ寂しいよな。
「再会してから数ヶ月だもんな。まだまだ片時も離れたくない時期だよ俺は」
「私だって、一緒だわ」
そう言ってマリアがぎゅっ、と俺の服を掴んでくる。いきなり抱き込めたから、彼女の腕は俺とマリアの間に綺麗に収まっている。
…もう少し、近づきたい。
「マリア、俺も抱き締めてくれ」
そう言って少し力を緩めると、するり、と俺たちの間からその細くて白い腕が抜けていき、やがてゆっくりと俺の背中に回ってきた。
ぎゅう、と怪力のマリアが俺を抱き締めてくる。女性にしては強いその腕の力になぜかひどく安心する。
腕があった隙間の分だけまた身体が密着する。本当に細くて細くて、この細い身体のどこにあんなしなやかな筋肉がついているのか全くわからないほどだ。なのに、女性らしい柔らかさも持ってるからもうこの生き物は不思議だという他ない。
「エルグラント、…口付けが欲しいわ」
マリアが腕の中から言ってくる。自分から言ってくるのは珍しい。
「…今しようと思ってた」
そう言って俺は片腕を彼女の腰に回したまま、空いた片方の手をマリアの頬に伸ばす。そのまま、そうっと上を向くように誘導すると、その愛らしい顔が素直に俺の方を向いてくれた。
少し潤んだ目、どこか悲しそうな瞳。わずかに震える唇全てが言っていた。
『寂しい』と。
…あぁ、愛おしさが爆発しそうだ。
そっと、その柔らかな唇に口付けを落とす。最初は軽く。それから、角度を変えて何度も何度も、深く深く。
大丈夫。きっとまた三週間後には笑い合えているから。
俺はこの愛しい人にただただ口付けを落とし続けた。後ろ髪、お前を抱き締めた時点でもうとっくに引かれてる、なんて思いながら。
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「存分にいちゃいちゃしてくれてるといいんだけど」
私の言葉に目の前の二人が咽せ込んだ。
「ど、どうしたの二人とも」
「なにを…っ!仰ってるんですか!」
「…いや、まさか令嬢の口からいちゃいちゃなどという単語が聞けるとは思っていなくて。失礼した」
まぁそうね。私も多分気を許した相手じゃないとこんな言葉遣いはしないもの。たしかに令嬢の使う言葉ではないわ。
「…せっかくそばにいれるようになったのにまた引き離してしまうのが申し訳なくて」
私がそう溜め息を吐くと、ヒューゴの顔が強ばってしまった。あ…っ、そうよね。ヒューゴからしたら奥方を取り戻すために私たちが動いているわけだから、責任感じちゃうわよね。
「ご、ごめんなさいヒューゴ。あなたを責めるつもりとか、そういう意図は絶対にないの。むしろ、奥方を取り返すついでに私が色々仕掛けようとしたからこうなっちゃってるだけで。あの二人が離れることになっちゃったのは私のせいだわ」
「それを言ってしまえば、全ての原因は俺にあります」
レイが妙に硬い声を出して、私はびっくりしてしまう。
「…な、なんでレイのせい?」
「元はと言えば俺がメリーに気に入られてしまったことが原因です。同盟国の王女だというだけで、機嫌を取るために不必要な争いを避け続けた結果が今のこれです。こうなるとわかっていたなら、もう少し毅然とした態度を保つべきでした。俺の失態です」
レイの言葉に私は首を傾げる。
「…無理じゃない?」
私は言葉を続けた。
「…だって素敵でカッコよくて強くて頭も良くて立場もあって顔も美しくて、なにより心がとてもとても美しいあなたに、惹かれるなという方が無理なのではなくて?どれだけ毅然とした態度を取られても無理なものは無理よ。惹かれるもの。私、メリーのことは許したくもないし軽蔑しかしていないけど、あなたを見染めたというただ一つの点に関してだけは認めているのよ」
…。
……。
ん?ど、どうしたのかしら?
レイは顔を真っ赤にしているし、ヒューゴに至っては呆れた顔を見せている。
「ほんっと…俺を殺す気ですか!!!ああもう!その言葉だけで浮かれちまう俺が単純すぎてやんなる!!」
「レイ、言葉遣い」
コホン、とヒューゴが咳払いをしたのちに私に向かっていう。
「サラ殿は、そこまで言語化しているのに未だご自分の感情には無自覚なのか?」
「無自覚…?というと?」
私が疑問に疑問で返すと、ヒューゴははぁぁ…という溜め息を漏らした。
「よろしいか?サラ殿。レイははっきり言って引く手数多だ。彼に群がる女性は数知れない。彼を口説こうとしてきた女性の中には言わば絶世の美女と呼ばれる人間もいたし、かなりの人格者と呼ばれる女性もいた。…考えてみるがいい、サラ殿。それらのうちの誰か一人でもレイから選ばれる様子を。口付けを貰い抱擁を受け、甘い言葉を注がれる様子を」
きゅ、急にそんなことを言われても。ヒューゴの言葉の流れ、脈絡がなさすぎではなくて??
私の戸惑いを察知したヒューゴはその眼光を一際鋭くして私に向かって言った。
「実際にそうなったとき、サラ殿。あなたは今の『無自覚』を呪うだろう。いいか?無自覚は美徳でもなんでもない。それはただ単に成長が遅いということだ。サラ殿。あなたがこれから淑女としてレイの隣にありたいと思うのであれば、無理にでもそこは成長しなくてはならない。もう一度いう。無理にでも成長しないと、己の『無自覚』を呪うことになるぞ」
「お、おい、ヒューゴ」
レイが慌てているが、私はヒューゴの言葉、どうしても要領を得ない。
「とても難しい言い回しだわヒューゴ。もう少しわかりやすく教えて頂戴」
「さっさと自覚しないと、レイを誰かに取られるということだ」
ーーーだめだわ、ヒューゴが何を言っているのかさっぱりわからない。何を自覚しろというの?
やはり何を言わんとしているのかを汲み取れない私に、ヒューゴはまた呆れた溜め息を吐くのだった。