8.馬車の中で
馬車はあと一日で国境というところまで来ていた。
大国ブリタニカの土地は広大だ。しかも王都は国の中心部にあるため、例えどこの隣国に行くために直線距離を走ったとしても最低十日間はかかる。
罪人の追放ルートは決まっている。いくら冤罪であろうと表面上は罪人。規定通りの検問所に立ち寄り聴聞を済ませ、そこを通ったという記録を残さなければならない。それゆえ、すでに馬車に揺られ始めてから二週間が過ぎようとしていた。
「サラ様、また寝てしまいましたね」
マリアの膝に頭を預けてすやすやと眠るサラの寝顔を見てレイは言った。
「これだけ馬車の上に揺られてしまったらどんな令嬢だって疲れてしまいます。お嬢様が辛抱強い方だからこそ泣き言も聞かずに済むんだと思います」
「確かに、そうだと思います。しかしマリア殿は強いですね」
レイが感心したように呟く。男性で鍛えられている自分ですらたまにきついと感じるほどのこの長旅で、目の前の侍女であるマリアは平気そうな顔をして馬車に揺られているからだ。
「お嬢様のこれまでの三年間の苦しみや自己犠牲に比べたら、このくらいの旅の苦痛を耐えることは造作もありませんわ」
にっこりと笑う侍女にレイは心の中で称賛を贈る。さすがサラが全幅の信頼を置いてそばに置いている侍女だけある、と。
「…レイモンド様は」
不意にマリアから放たれた言葉に、レイは笑って返す。レイ、と呼び捨てで構わないと。このやり取りも馬車が出発してから何度目だろう。そのたびに、「それは侍女という立場としてあるまじき行為ですので」と一貫して姿勢を崩さなかったマリアが、今日は言葉を変えた。
「本当に、構わないのですか?レイ、とお呼びして」
「もちろんです。そのほうが私はサラ様が信頼しているあなたからも信頼していただけた気がして嬉しい」
にこりと笑って答える。
「できるならば、敬語もやめていただきたい、のですが」
レイモンドが少し遠慮がちに言うと、マリアは一瞬目を丸くさせる。
「…実は、先ほどお嬢様からも同じことを言われたのです」
「サラ様から?」
「レイモンド様が再三言っているのだからレイ、と呼んでくれと。そして敬語もやめてあげて、と。私だけ年上の男性をレイと呼んで尚且つ敬語も使わないなんてとっても傲慢な令嬢みたいじゃない、と」
まさかの返答にレイは目をぱちくりさせた。途端、笑いがこみ上げてしまう。
「サラ様の身分ならそれが当たり前なのですが」
「本当に、謙虚なのか世間知らずなのかいまだに私には掴めません」
マリアのため息交じりの声に、レイはさらに笑ってしまう。
「でも、残念ながら私の君主はレイモンド様、あなたではなくお嬢様なので」
お嬢様のお願いを聞かないわけにはいきません、とレイに向かってマリアは言葉を投げかける。
「レイ、と呼んでもいいかしら?」
「もちろんですとも」
レイは即座に返す。むしろ何度も言う通りそちらのほうが嬉しいとすら思う。
「敬語も不要?」
「当たり前です。サラ様が望むのであれば」
「それならそうさせてもらうわ。あーよかった。堅苦しいだけの男だったらどうしようかと思ったわ」
んーと伸びをするマリアの姿にレイは思わず笑ってしまう。
「多少は柔軟なつもりなんですが。交渉団団長という立場ゆえか、この真面目そうな見た目からか、いつも固い人間とは思われがちです」
「交渉団にはいつから?」
とっくに自分に対して気の抜けたマリアの質問にレイは七年前です、と返した。
「てことは、七年で新兵から団長まで昇進したんだ。すごいわね」
目を丸くするマリアに、レイはいえいえ、と返す。
「私はまだまだ一年目ですから。先代なんか団長を十四年間勤めあげた人です。それよりもすごいのは先々代の団長なんです。初代団長で、自分はお会いしたことはないんですが、確か女性だったという話は聞いたことはあります」
駆けていく姿はまるでライオンのように勇ましく、その頭脳は鷹のように明晰だという伝説にも似た逸話だけは聞いたことがあります、と続けると、へー、と興味なさそうではあるが、そこそこ楽しそうに話を聞いてくれるマリアにレイは嬉しくなる。サラが何より信頼している侍女に、少しだけ心を開いてもらえただろうことが今は嬉しかった。
そうやって一通り今までどう生きてきたか、サラがどういう人物か談笑しあった後、一時の沈黙のあとにマリアが神妙な顔でレイに言葉を投げかけた。
「レイ。あなたに一つだけ言っておかなければならないことがあるわ」
あまりにも今までの談笑のときと違う表情に、レイは肩をびくりと震わせた。
「…はい」
機密事項だろうか。交渉団に所属しているゆえの本能ともいうべき部分が、マリアの言葉に反応した。
「お嬢様は…」
ごくりと喉が鳴る。散々先日の国王との謁見でも驚かされ続けたというのに、まだ驚かされる事実があるというのか。
「…ゼロ距離よ」
「…?????」
マリアの言葉にレイは止まる。予想もしなかった意味の分からない発言に、戸惑いが隠せない。
「…ぜ、ロ距離、とは?」
「信じた相手には、サラお嬢様は距離感がぶっ壊れてるの。信じない相手にはまさに完璧な公爵令嬢と言われる振る舞いのできるお方なんだけど」
はぁ、とマリアがため息をつく。
「覚悟していてね。おそらく、お嬢様はすでにあなたを信じているわ。ただ信じるだけではなく、全幅の全幅の全幅の信頼を寄せている。そして、そこまで信じた相手にあのお嬢様は」
レイは全く意味が分からない。この目の前のマリアという侍女が今、何を自分に言っているのかを。だが、この後の旅で嫌でも知ることになる。
「ゼロ距離よ」
ゼロ距離の、意味を。