73.怒り
「外交官としてある程度の知識や教養があればすぐにわかります。…あれは、脅迫状です」
ヒューゴ様の顔が陰る。
「おそらく、各国の外交官が血眼になってサラ殿とレイを探しているでしょう…期限はあと半月。…もしあなた方がスプリニアに滞在…」
「ちょ、ちょっと待てヒューゴ!」
ヒューゴ様の言葉をレイが止める。どうした?と言わんばかりの顔をヒューゴ様がレイに向けた。
「…各国、てなんだ?」
私も、その言葉にものすごく引っかかった…まさか…
「…脅迫されているのは俺だけじゃない。メリー王女はお前と特に交友のあった各国の外交官の奥方を今宮殿に呼んでいる…数はそんなに多くはないだろうが、おそらく俺と同じように脅迫されているはずだ」
「…なんだと」
レイとエルグラントから凄まじい怒りの感情が放たれるのを受けながらもヒューゴ様はさらに言葉を続けた。
「…期限はあと半月ほど。半月内にあなた方の居場所と情報を売らなければ、私たち各国外交官の家族は……メリー王女の手に掛けられる、ことになる」
「…なんてこと…」
マリアが怒気を隠しもせずにぽつりと言い放つ。私も同感だ…なんて非道なことをするのだろう。
「…腹が立って仕方がないわ…」
思わず低い声が出る。途端に周りの四人の肩がびくりと跳ね上がる。でも怒りを抑えられない。
「人間のすることじゃない。人の命をなんだと思っているのかしら。メリーとやらが軽率で短絡的で傲慢で非常に頭が悪いのが伝わってくるわ。そんな阿呆が権力を持つとここまで愚鈍なことを行えるのね。いいえ、パッショニアの王女の持つ権力など大したことはないわ。王位継承権のない彼女はどうせ国交の為に他国に嫁ぐことしか使い道はないのだから。己の価値も正確に判断せず自分が王にでもなったつもりかしら。…ああ、腑が煮えくり返っているわ…」
ぶわりと、目に見えない何かが心から溢れる。恐ろしさのようなものも感じるそれに私は飲み込まれそうな感覚に陥る。
「…お嬢様、怒気を鎮めてください」
マリアが額に汗を浮かべながら言ってくるけれど、ダメだわ、こんな激しい怒りを抱くのなんてほとんど初めてよ。どうやって鎮めろというの。
「サラ嬢、落ち着け。それ以上はいけない」
エルグラントが言うけど怒りを抱くことの何が良くないの。これは正当な怒りだわ。
「…サラ様」
ふわ、と私の脳内に声が届いた。レイの声だ。
「お気持ちはわかります。ですが今は心を鎮めてください」
そう言って、レイは立ち上がり、私の方へ向かってきて私の前で片膝を付いて腰を落とした。ソファに座る私と目線を合わせてくる。
「…ごめんなさい。鎮め方がわからない」
胸のあたりがまるで沸かされた湯のようにグツグツと激しく燃えている。
「…あなたに怒りは似合いませんよ」
「自分だってひどい怒気を発していたじゃない」
「…あなたの凄まじい怒りに、すっかり吹っ飛びました。…落ち着いて、俺の手を握って」
レイが片手を差し出してくる。私はおずおずと両手でその手を握った。
「…サラ様?俺の目を見てください」
じっとレイがその美しい蒼の目を私に向ける。レイの吸い込まれそうな瞳を見ていると、少しずつ心のグツグツが収まってくるのがわかった。
「…上手です。そう、そのまま。ゆっくり呼吸をして」
そう言いながらレイのもう一つの手が私の頬に触れた。大好きな大好きなごわごわした手。ひんやりしてとても気持ちいい。
「…あなたがまだ十七だということを忘れてました。俺の愛しい人。あなたに怒りは似合いません。怒りに呑み込まれて我を失ってはいけません。怒りを制御して力にするんです。…あなたにはできる。ほら、もう落ち着いてきたでしょう?」
優しい口調と言葉に誘導されるように私は怒りが鎮まっていくのを感じる。
「俺の大切な人。大事な人。…いつも朗らかに笑っていてください。怒りの感情に負けないで」
レイの言葉にふ、と全身から力が抜ける。
たった一瞬なのに、夢の中にいたような感覚に私は驚いてしまう。心がいつも通りになっているのに気付き、私はほっと息をはいた。
「…私、一体…」
「ありがとう…レイ。流石ね」
マリアがレイに感謝を述べている。いいえ、と笑って返してレイは再び私の目を見つめてきた。
「…サラ様。あなたはまだ若い。…その若さに似合わずあなたの持つ威厳は凄まじい。その類い稀ない資質が、他の激しい感情と合わさってしまうと、あなたを飲み込みそうになることがあるんです。姉君も、まだ年若い頃はよくそうなっていました」
「…そう、だったの…」
「ええ、だから大丈夫です。それは制御できるものです」
「こんな激しい怒りを抱いたのは初めてだったわ」
「怖かったでしょう?」
レイの言葉に目をぎゅっと瞑ってこくこくと頷く。優しくレイが笑ってくれるのが気配でわかる。
と、
「……可愛いなぁ」
ぽつりとレイが呟いた。
可愛い?私が?
ーーーー可愛い?
思わず目を開けてレイを見ると、その優しく美しい蒼い瞳に私が映っているのが見えた。
それを脳が意識した途端、頬がじわじわと赤くなっていくのがわかる。可愛い、だなんて今までレイは何度も言ってくれてるのに。
なんか、なんか違う。なんか、ものすごく恥ずかしい。恥ずかしいのに、ものすごく嬉しい。なに、なにこれ。
「あら?」
「お?これはまさか…」
マリアとエルグラントがぽかりと口を開けてる。
「サラ様…?」
レイがキョトンとして私をじっと見ながら声を掛ける。だめ、なんだか居た堪れないわ!私は慌てて目線を逸らす。
「ご!ごめんなさいヒューゴ様…っ!折角信頼してお話しくださったのに、私取り乱してしまって…」
「いえ、それは構いませんが…レイ…色々聞きたいことはあるんだが…いや、あの…私が言うのもなんだが」
そう言って、ヒューゴ様は一度コホンと咳払いをした。そしてきち、と姿勢を正し、表情を真剣なものにさせてから再び口を開いた。
「私は絶対にどんな情報だろうとサラ殿のことを漏らさないと誓う。もうそう心に決めている。信じて欲しい。だから、可能なら教えてほしい」
レイは私から視線を外し、ゆっくりと立ち上がってヒューゴ様に対峙する。
「…サラ殿は一体何者だ。…こんな空気、一介の令嬢が作り出せるものではない。この凄まじい威厳と風格はなんだ。まるで動けなかった。冷や汗が止まらなかった…教えてくれ、レイ。お前が護衛してるのは本当にただの公爵令嬢なのか?」
…。
……。
しばらく沈黙が続く。
やがて、レイがゆっくりとマリアとエルグラントに伺うように視線を合わせる。
「お嬢様がよしとされるのであれば」
「それはサラ嬢が決めることだ」
即座に二人から返答が来て、レイは頷いたのちに、やがて私に視線を送ってきた。
「…どうされますか?」
そうね…と私は考える。他国の外交官にいう情報ではないけれど、レイの友人である彼なら問題はないだろう。それに、…嘘のない目をしてるから。きっと大丈夫。
「まだ私は心を決めていない、ということを前提にであれば、話して構わないわ」
そうレイに伝えると、レイは頷いてヒューゴに向き直った。
「他言無用だ」
「わかってる」
「サラ様が、この先『そうならない』と心を決められた場合、お前は死ぬまでこのことは秘匿していかなければならない。もちろん奥方にもだ」
「誓おう」
わかった。とレイは言い、一度大きく息を吸い込んだ。
「サラ様は、次期女王だ」