73.改めまして
「申し訳ありません、ヒューゴ様。こんなところにお呼び立てしてしまって」
レイに連れられたヒューゴ様の姿を目に捉えた時、私は胸が痛んだ。ひどいクマ。憔悴しきっている。おそらく昨晩戻ってからひどく悩んでおられたんだろう。
昨晩のようにきちんとした外交官の服ではなく、白いシャツに黒いズボンというシンプルな格好だけれど、元々の造形が美しい人だからとてもよく似合っている。
私たちは大使館に連絡を入れてブリタニカの要人が内密の会議などで用いる場所の使用許可をもらった。表向きは美術館。だが、秘密の隠し通路を抜けて、幾つもの扉を開けたその先に少人数がくつろげる秘密の空間があった。
レイとエルグラントは慣れているので、次々と扉についた鍵を開錠していくのがなんだか迷宮の冒険者みたいで楽しかった。マリアは知らないみたいだったけど。聞くと、ちょうど五、六年前から使われ出したという。
朝早く、まだ人通りの少ない時間にコソコソと出てきたので、おそらく誰にも見られていない。
んもう!メリー王女のバカ!なんで私がこんなコソコソしなきゃいけないのよ!
でも、もうバカ!とか冗談交じりに言えなくなってきたわ。…脅迫だなんて、していいことと悪いことがある。いくらレイを手に入れたくとも。
「…昨晩は、ありがとうございました。それから…」
ヒューゴ様からすっかり毒気が抜けている。
「ああ!お待ちくださいな。レイ、ヒューゴ様をソファに座らせて差し上げて。マリア、何か温かいものをお願い。私以外の方々には少しブランデーも入れてあげてね」
はい、と二人の声が揃う。
ヒューゴ様は何が起きているのか分からずポカンとしている。レイに促されるままソファに座り、マリアが淹れてくれた紅茶が目の前に出されてもぼうっとなさっていた。
どうしようかしら。
私はどこから話を切り出すか少し悩んでしまう。
うーん、ここは回りくどいことをするより直接聞いたほうが話がとんとんと進むだろう。
「まずお聞きしたいことがあるのですけど。よろしいですか?」
私の問いかけにヒューゴ様は小さく頷いてくれた。よし、それなら。
「ーーーーヒューゴ様は私とレイをお売りになりますか?」
ここを聞かないと進まない。彼が信頼できるかどうかこの質問を聞けばわかる。
こう聞かれて、はい、売りますと馬鹿正直に言う人はいない。でも言葉は大して問題にならない。もし嘘をついてても私にはわかるから。
私の言葉を受けてヒューゴ様の目がみるみる開かれていく。なぜ…と譫言のように呟くヒューゴ様に私は畳み掛ける。
「なぜ、という疑問にはのちほどゆっくりとお答えします。でも、まずは私の問いへのご返答を頂かないと話を進めることはできません。…あなた様は、私とレイを売りますか?売りませんか?」
ヒューゴ様の唇が震える。
肩が震え出し、手が震え出し、その膝が震え出す。
そして…その目から涙が次々に溢れてきた。
あぁ、良かった。
その涙を見た時、私は心から安堵した。良かったわね、レイ。あなたのご友人はやはりこんなに清廉で、美しく、曲がったことができない正直な人だわ。
「…の、かっ、!」
やっとのことで、ヒューゴ様が口を動かす。
「…売れ、る…っ!もの…か!!!私の、大事な…っ!友を!!友が…敬愛する、御方を…っ!!!」
目を見なくたってわかる。本心だわ。
「良かったです。ヒューゴ様が理性的で心の優しい人で本当に良かった。…ヒューゴ様。あなたが今どういう状況にあるのかお話しいただけますか?」
「どういう…っとは…」
未だに涙を流し、体を震わせながらも私の質問に律儀に答えてくれる。
「その前に落ち着け、ヒューゴ。大丈夫だ。サラ様はお前を咎める気などないのだから。…むしろ、打開策を考えようとお前を呼び寄せたんだ。大丈夫、この方は、心から信頼できる方だ」
レイがそっと立ち上がり、ヒューゴ様の側に寄ってその背を優しく撫でながら言った。…ああ、本当にレイ、あなたは素敵な男性だわ。
「まずは紅茶を飲め。マリア殿の淹れた紅茶は絶品だから」
そう言ってティーカップを取り、ヒューゴ様に手渡す。震える手でそれを受け取ると、ヒューゴ様はそっと口をつけた。こんな時でも本当に見惚れるほど所作が美しい。
ほんの少しだけ紅茶を飲み込んだヒューゴ様が、カップから口を離し、ほ、と息を吐いたのを見て安心する。良かった。少し落ち着いたみたい。
「…取り乱してしまい、申し訳ありません」
カップをソーサーにそっと置き、ヒューゴ様は頭を下げてくる。
「いいえ、大丈夫です。こちらも、あなたの心からのお声が聞けて安心しました」
「…はい。それで…あの」
「サラ嬢。こういうときは嬢の方から話を進めていった方がいいぞ」
俯いたままどこから話せばいいのか言い淀むヒューゴ様を見て、エルグラントがそっと助け舟を出してくれる。
私は頷き、ヒューゴ様に言葉をかけた。
「ヒューゴ様。単刀直入にお聞きします。とても困ったことになっていませんか?例えば、奥様が何かの問題に巻き込まれている、とか」
ガバリとヒューゴ様が顔を上げた。その目に明らかに動揺が見て取れる。
「な…ぜ、それを…」
「やはり…そうですか。もしよろしければ奥様が今どういう状況にあるかお聞かせ願えますか」
目を丸くしたまま、それでもヒューゴ様は一度ごくりと喉を鳴らしながら教えてくれる。
「半月少しほど、前のことでした。パッショニアの…王女であるメリー様から我が家宛てに招待状が届きました」
やっぱり…パッショニアのメリー王女だったのね。
溜め息を堪えて私は目の前のヒューゴ様の言葉を待つ。
「外交官を夫に持つ奥方をパッショニアのメリー王女の宮殿へ招待し、諸外国への見聞を深める意見交換会を行いたい、と。滞在中の特別待遇を約束すると共に、望むだけの長期滞在も可能だという内容でした」
膝に置かれたヒューゴ様の手がぐ、と拳を握った。
「それが…特別招待と銘打った…脅迫に用いるための軟禁だと気付いたのは、…妻がパッショニアの王宮に到着してからまるで入れ違いのようにすぐに届いた書状を見た時でした」
私は頭を抱えたくなる。あまりに…ひどい。
「…差し支えなければ内容を教えていただいても?」
「要約すると…レイの居場所とサラ殿、あなたの情報を…一月以内に調べ、教えるようにと。…断っても構わないが、その時は妻と…お腹の子が流れることになると…」
「なんて…こと…」
マリアもエルグラントもレイも私も皆血の気が引く。そんなの、人間の行えることじゃない。
「でも、その書状があれば国際裁判を起こせるんじゃないか?脅迫は明らかに大罪だ。王族といえど…」
「エルグラント、ヒューゴ様は『要約すると』と仰ったわ。…おそらく一見しただけでは脅迫状だと分からないように書かれているのでしょう」
その通りです、とヒューゴはやや驚きながらも頷いてくれた。