69-70.5【ヒューゴ目線】
69話から70話にかけてのヒューゴ目線です。
正直に言うと、見た瞬間に目を奪われた。
かなりの美貌の持ち主だ。美しいだけじゃなく、その中に可愛らしさも持ち合わせている。だがそれだけじゃない。どこか聡明さも伺わせる。…これは、大多数の男が放っておかないだろう。
そして簡素な挨拶に対して不満そうな顔ひとつ漏らさないのにも驚いた。通常の高位貴族の令嬢なら、こんな挨拶をしようものなら『無礼よ』と言葉が返されると思ったが。
美辞麗句も述べぬ、挨拶の伺いも立てない自分に対し目の前の令嬢はとても嬉しそうに笑った。しかも、私に合わせた挨拶を返してきた。ここで、この令嬢があまりに畏まった挨拶を返してきたらそれはただの嫌味になる。ということは、私の挨拶を無礼どころか好意的に受け取ったと言うことだ。
これは…いや、まだ判断を下すには尚早だ。
私はすぐさまサラ殿の後ろのほうに座っている男性に目線を変える。久しぶりにお会いするが、やはり威風堂々とした御方だ。レイほど親しいわけではなかったが、彼のことも信頼に足る人物だと思っていた。
「ご無沙汰しています、エルグラント殿」
「おう、久しぶりだな」
片手をあげて気さくに返してくれる。
そしてもう一人。エルグラント殿とチェスを打っている…おそらくレイが言っていたサラ殿の侍女だろう。この若い女性は…いや、この人は若く見えるだけだ。その風格や漂う空気は年若い女性が持っているモノではない。
「…そちらのご婦人は」
俺が言葉を発した瞬間、エルグラント殿の顔つきが変わった。優しく、愛おしいものを見つめる顔に。俺が妻を見るときによく周りの人間からからかわれるときと同じ顔をしている。
これは、なるほど、そう言うことか。
エルグラント殿も隅に置けない。こんな美しく利発そうな女性を捕まえるなど。
だが、女性から放たれた名に私は自分の耳を疑った。
「マリアンヌ・ホークハルトと申します。よろしくお願いいたします」
主に倣い簡単な挨拶を返してくる、が、そんなことはどうでもよかった。マリアンヌ・ホークハルト?交渉団の初代団長殿ではないか。外交官の先人たちから幾度となく聞いたことがある名だ。
いや、だがまさか。同姓同名ということもある。試しに聞いてみることにした。
「…マリアンヌ・ホークハルト殿…もしやブリタニカ交渉団初代団長殿でしょうか?」
「はい」
衝撃が走った。…嘘だろう…?国家最高機関のトップが。過去現在において三人しかいなかった精鋭中の精鋭が三人とも『一人の令嬢』の傍にいるだと?
これは公爵家の権力云々でどうにかできるものではない。一体どういうことだ。
疑問がぐるぐると頭の中を駆け巡るが、マリアンヌ殿から言葉を続けられ、俺は現実へと戻る。
「ですが、もうとうの昔に退団した身。殿など敬称は不要です。マリアとお呼びくださいませ」
いや、それは困る。私が別の男から妻にそんなことをされたら許せない。
私はすぐさまエルグラント殿に伺いを立てる。
やはりエルグラント殿も自分のパートナーを呼び捨てにされるのは抵抗があったらしく、マリアさんと呼ぶことで話はまとまった。
さぁ…これからどうやってサラ殿の情報を手に入れるか。その前にこのサラという人物を十分に見極めなくては。
そう思っていた矢先、当の本人から夕食の誘いをいただいた。
「もしよければ、今からご一緒に食事でもいかがですか?」
渡りに船とは、このことだろう。
「喜んで」
私は一も二もなく返事をする。
「素敵!感謝いたしますわ。ねえ、レイ?それならせっかくだし久しぶりにお外に出て食べるのはどう?」
サラ殿がレイに向かっておねだりをしている。はっ、と笑いたくなってしまう。呑気なものだ。今自分がどういう状況に置かれているかわかっていないのか。だが、そんな我儘も聞き入れなければならないのが護衛の辛いと…
「だめです」
――――な、んだと?
今、レイはだめと言ったのか?この令嬢に。信じられない、そんな口ごたえが許されるのか?
「ここの宿の食事も十分美味しいでしょう?あなたの好きな甘いデザートを頼んであげますから。我慢です。いいですね?」
「…わかったわ」
むう、と唇を尖らせているが、サラ殿はそれ以上反発する気はなさそうだ。そんなサラ殿をレイもこの上なく愛おしそうに見つめている、と思ったら。
「そんな可愛いお口は、目に毒なので」
ひどくひどく甘い声で言って、サラ殿の唇に指でそっと触れている。
な、何を見せられているんだ私は。友の見たことのない蕩けそうな顔にこちらまで思わず恥ずかしくなってしまう。
レイが女性にあんな表情を見せているのを初めて見た。スプリニアにレイが任務でいるときも、例えば任務先が同じ外国に行っても、必ずと言っていいほど独身のレイには女性が近寄ってくる。私はもう既婚者なのでその旨を伝えるとさっと女性は離れていくが、レイはそうはいかない。
優しいやつなのであからさまに傷つけることはしないが、断った後に裏ではうんざりした顔をし、心底嫌悪感を見せるレイの姿を見てきた。
そんなレイが、なんだ今のは。
駄目だ。この令嬢のことが本当に分からなくなってきた。
次々と食事が運ばれてきて、テーブルセッティングが終わる。
「ありがとう」
使用人たちに一番先に礼を言ったのは、他でもない。サラ殿だった。
言い方は悪い。悪いが、使用人ごときにいちいち礼を言う公爵令嬢など私の記憶の中には一人もいない。しかも、使用人が「いつもそのようにおっしゃって下さり、こちらこそ感謝します」と返している。
今日は私という来客がいるから自分をよく見せようとしているわけではないということだ。
…一抹の不安がよぎる。
このサラという令嬢が途轍もない我儘で、情けを掛けるほどの人間ではないとしたら、私は何の迷いもなくこの令嬢の情報を売れただろう。
だが、そうではないとしたら?
そうではなく、とてつもない善人で人格者だとしたら?
―――駄目だ。そんな人間を売ることなどできない。私はそこまで非道にはなり切れない。でも、それならどうしたらいいのだ。妻と子どもの命はどうなってしまうのだ。
思考がまとまらないまま、晩餐が始まる。
食事が始まって一番最初に驚いたのが、サラ殿以外のほかの三人が甲斐甲斐しく彼女の世話をしていることだった。
「お嬢様、野菜もきちんと」マリアさんが叱るように言い、
「サラ様、お酒は控えてください。今日はヒューゴがいるんですから」レイが心配そうに言い、
「ん!サラ嬢ほら!この鴨肉うまいぞ。もっと食え」エルグラント殿が嬉しそうに笑いかける。
なんだ…この状況は。こんなのは、我儘令嬢に向ける言動じゃない。これじゃまるで…
「…とても慕われているんですね。あなたは」
思わず言葉が口から出た。そう、どう見てもこの目の前の令嬢はこの三人から慕われている。
私の言葉に目の前の令嬢は一瞬不思議そうな顔をして、自分のことか?と確認してくる。あなた以外に誰がいるんだ。なんだこの令嬢は。天然なのか?鈍いのか?
「私など一人では何もできませんもの。三人が優しいからそんな私でも慕ってくれるのですわ」
…軍配を上げそうになる。こんなの高慢な我儘令嬢が発することのできる言葉じゃない。それに追撃するようにほかの三人が追い打ちをかける。
「一番優しいのはお嬢様ですし、あなたは誰からでも慕われますよ」
マリアさんの言葉に、私は思わずぐ、と喉をつまらせる。いや、まだ。まだ認めたくはない。
「そうです。あなたの護衛をできてこれ以上の誉れはありませんよ」
レイの言葉に心底驚いてしまう。『あの』レイにたかだか護衛の任務をこれ以上の誉れと言わせる、この令嬢は一体…
「ありがとう、レイ。あなたのような素晴らしい方が護衛だなんて正直私にはもったいないくらいなのに」
…サラ殿はきちんとレイの価値を理解している。鈍いのかと思ったがそうではないようだ。これはレイの外見のことを言っているのではない。彼の能力、人柄、そういうものへの賛辞だ。この令嬢は決して鈍くはない、むしろ人の本質を見る令嬢なのだろう。
そしてエルグラント殿が自分達三人がサラ殿の傍にいるのは彼女の人徳だという。偶然にせよ、ということはエルグラント殿は本当にたまたま彼女に同行することになったのだろう。
偶然であろうが何であろうがそれもまた、一つのサラ殿の実力だ。
もういい、わかったよ。彼女は売ることのできない人物なんだろう。
それでも、それでも、最後にもう一度だけ試させてくれ。
私は、彼女を煽ることにする。怒りは本質を見せやすくする。交渉術の基本だ。…レイが怒るかもしれないな。ごめんな。
「…正直、レイがしているのは鼻持ちならない我儘令嬢の護衛かと思っていました」
隣でレイが驚きながらも怒り出したのを感じる。エルグラント殿とマリアさんから尋常ではない怒気が放たれ、そのあまりの迫力に背中に一筋汗が伝った。この三人からこれだけのものを向けられると、大抵の人間は失神してしまうのではないだろうか。そう思うほどの迫力だ。
だが、私は言葉を続けた。
「交渉団はブリタニカ国においての最高機関です。そこの団長であるレイは、よほどのことがないと一令嬢の護衛で国を不在にすることなどできません。…あなたが公爵家という王家も無視できない権力を用いてレイが護衛に付くように我儘を言われ、裏から手を回したのかと」
失礼な物言いだ。わかっている。さぁ、どう出る。サラ殿。怒り散らすか?無礼だとわめくか?つまみ出せとレイに命じるか?それとも泣き出すか?泣き喚いて同情を引くか?
―――さぁ、どう出る。
だが返ってきた言葉は思いもよらないものだった。
「たしかに我がヘンリクセン公爵家はブリタニカにおいて多大な権力を持っているという自負は御座います。でも…私はただそこにたまたま偶然生まれ落ちただけの娘にございます。…何の力や権力がありましょうか」
肩透かしをくらう、とはこういうことを言うのだと身をもって知る。私に返ってきたのは、怒りでも涙でもなんでもなかった。
ただ、完全に思い知ってしまった。この令嬢は途轍もなく聡明であり、善人であり、人徳者であると。己の価値を知り、己のもつ権力を知り、己の在り方を誰よりも知っているのだと。
…どこぞの我儘王女とは大違いだ。
「…本来自分が持つ権力でもないのに、自分が持っていると錯覚してそれを濫用する人間を見てきたもので…サラ殿もその類かと」
あぁ、しまった、今のは完全に失言だ。レイが窘めてくれる。ごめんな、レイ。今のは熱の名残で頭で何も考えずに言ってしまったんだ。
―――もう完全に分かったよ。この令嬢を売ることは私にはできない。
途端に絶望が押し寄せてくる。
怖い。怖い。妻と子どもはどうなる?取引材料がない私に救えるのか?どうしたらいい?
正直、その先の会話はあまりよく覚えていない。サラ殿が、はっきりとレイを権力で動かしたのではないと明言してくれたりしたのはぼんやりと覚えている。
あと、妻のことを聞いてくれたことも覚えている。でも駄目だ、今その話題は耐えられない。動揺を悟られないようにするのが精いっぱいだった。
――――
食事を終えて部屋から出るとき、私は心からレイに謝罪を送る。お前の大事な人を疑うようなことをして悪かった。売ろうとして悪かった。本当に情けない。
サラ殿にも同様に謝罪する。あなたのような素晴らしい人間を一瞬でも売ろうとした自分が許せない。心からの謝罪だった。
「あとどのくらい滞在されるご予定ですか?」
最後に質問してみる。人質を取られた私を含む各国の外交官に残された猶予はあと半月。それが過ぎてしまえば、あの悪名高いメリー王女はおそらく人質を手に掛けるだろう。
せめて半月の間だけでも外国に行かずここスプリニアに滞在してくれれば、仮に同じように人質を取られている外交官に見つかり情報を売られるようなことだけは避けられる。
せめて、そのくらいは償いをしなくては。
―――残りの半月、ここスプリニアに滞在してくれさえすれば、この人たちは守られる。
私はこの人たちの情報を売らないのだから。