72.ヒューゴの焦燥
ヒューゴは自宅でゆっくりと目を覚ました。朝日が眩しい。床には昨晩煽った酒瓶が散らばっている。
基本清潔好きで、物が散乱することが許せない彼の家は今めちゃくちゃなことになっていた。酒瓶が床中に転がり、部屋は換気を行っていないためむさくるしい匂いが漂っている。
何日掃除をしていないだろうか、と考える。もう半月ほどになるだろうか、と考えてヒューゴはその腕をベッドに打ち付ける。
「…くそっ!」
つまり、妻がパッショニアに呼ばれてから半月経ったということだ。最初招待状を受け取った時は隣国の悪名高い王女がいきなりなぜ?と不信感も抱いたが、外交官を夫に持つ女性を集めて諸国の知識を広める交換会をしたいとの王族からの誘いを断ることもできなかった。今となればあのとき身重を理由に断らせばよかった。
…だが、何度後悔してももう遅い。
妻は表向きは王女の客として城に招かれ、とても贅沢な暮らしをさせてもらっているらしい。大事に扱われていることだけが救いだ。
―――だが、実際は。
ヒューゴはベッドサイドにあるテーブルの上に置いてあった書状を掴む。何度も何度も読み返し、何度も何度も握りつぶしたそれはもうぐしゃぐしゃだった。
「…くそ…」
力なく呟く。
書状にはこうあった。
『ブリタニカ国交渉団レイモンド・デイヴィスと、それが護衛する令嬢の情報収集と捜索を依頼いたします。貴殿とレイモンド殿はご友人と聞き及んでおります。ご交遊もあるでしょう。ご所在が分かり次第速やかにこちらにご連絡をいただきたく存じます。我が主、メリー・ダグラン・パッション王女がその二名をご所望です。期限は一月といたします。お忙しい身でしょうし、お断りになるというのでしたら構いません。奥方はしばらく身重の体の安全のため、こちらにて療養させていただきます。腕のいい医師が御座いますので、流れるようなことはないでしょう。ご安心くださいませ。ですが少々高齢ゆえ、不測の事態が生じた際には約束はできませぬことご了承くださいませ。 ハリス・シーボルト』
この書状を受け取った時、ヒューゴは全身から血の気が引いた。一見何の変哲もない書状だが、紛れもない脅迫だ。やられた、と思った。
メリー王女がレイに異質とも思える執着を見せていることは、レイ本人から聞いて知っていた。おそらく、一緒にいるのが令嬢というだけで嫉妬に狂い、このような暴挙に出ているのだろう。ヒューゴもこの書状を受け取るまで、レイの護衛が一令嬢だなんて想像もしていなかった。
暗にレイとその護衛している令嬢とやらの情報を探し出さなければ、妻もお腹の中の子の命もないと言われている。
だから死に物狂いでここ数日各国に早馬を出し、ブリタニカ大使館にレイたちの所在を開示してもらうように手配した。だが、正式な手続きを行って開示要求を申請したにもかかわらずどの国のブリタニカ大使館もその要求に応じなかった。
おそらくすでにメリー王女はレイ達を見つけるべく、各国の大使館に開示要求をしたのだろう。それを不穏に思ったブリタニカ側が各国に開示要求に応じないように先手を打った後だったのだ、とヒューゴは結論に行きつく。
それではいくらヒューゴが開示要求をしたところで応じられるわけがない。
そして…とヒューゴは考える。
メリー王女が次にとった手が、レイと接触する機会が多い各国の外交官の妻たちを人質にして情報を集めることだったのだろう。こんなことが公になれば本来は国際問題だ。だが、絶対に問題になりえない。妻たちは実際にいい暮らしをさせてもらっているだろうし、この手紙にだって脅すとは一言も書いていない。脅されているという証拠が何一つない。各国との問題解決や交渉に長けた外交官だからこそ気付ける、この手紙の真意。
作戦自体は短絡的で浅はかで低俗だ、とヒューゴは思う。だがそんな短絡的で浅はかでも権力があれば押し通るのが世界の原理だ。
ーーーーーー
―――手詰まりだ。世界のどこかにいるかもわからない二人を見つけろと?不可能だ。
ほかの国の外交官が彼らを見つけてくれるのを望むしかない。ヒューゴは昨日まで本気でそう考えていた。
だから昨日、外務館でレイを見つけた時は幻かと思った。今まで半月、死に物狂いで探していた彼を見つけた時、ヒューゴは本当に奇跡だと思った。
だが同時にはた、と気づいた。
――――自分はこの大事な友を売るのかと。
不愛想な自分の、妻くらいしか気づかない表情の変化を即座に読み取って、いつも明るく接してくれる大事な大事な友を。
無理だ。できない。ヒューゴは即座にそう思った。レイを売ることは出来ない。だが…レイが護衛しているという令嬢なら。
情報収集も依頼すると書いてあった。もしかしたら令嬢の情報だけでもどうにか手に入れれば、妻と引き換えることは出来るのではないか、と。
宿の場所を聞いてもレイはにこにこと笑ってはぐらかすだけだった。彼が警戒していることをヒューゴは即座に読み取った。友であるヒューゴすらも警戒するということは、不穏な空気がレイの周りを取り巻いていることを知っているのだ、と気づく。
ならば、令嬢の情報だけでも。そう思ってヒューゴは聞き出そうとしたが、それも軽くかわされた。公爵令嬢だという、何の益にもならない情報を引き出せただけだった。当たり前だ。こういう交渉術や会話術においてはレイのほうがはるかに優れているのだったとヒューゴは諦めた。
だったら、こちらから出向いていこうとヒューゴは考えた。
どこに滞在しているか尾行するかと思ったが、ブリタニカにおいて特殊な訓練を受けているレイが、そういう方面では素人のヒューゴの尾行に気付かないわけがない。尾行はダメだ。
いや、冷静になれ、とヒューゴは自分を落ち着かせる。
―――レイがこれほどの警戒態勢をとっている、並みの宿に泊まるわけがない。個人宅に滞在するのも警備が薄すぎる。ならば、この王都にある警備が厳重でなおかつ要人が泊まるような宿は四件。それを一つずつ潰していけばいい。
レイと別れたのちに一旦家に戻ると、ヒューゴは小切手を片手に、見当をつけていた宿に出向く。
二件目の宿でレイたちが滞在していることが分かった。受付でレイの特徴を伝えるとわずかだが反応があったからだ。それでも、お客様の情報はお伝え出来ません、と言われ、素直に引き下がる。それから、宿の下働きの人間を探す。ただの下働きの人間ではなく、その中でも顧客の情報を引き換えそうな人物を見定める。そういう人間を見つけるのはヒューゴはレイよりも得意だった。
やがて捕まえた一人にレイたちの部屋番号を尋ねた。最初はなかなか口を割らなかったが、膨大な金額を提示すると情報を提供してくれた。一生ここで下働きをして得られる賃金よりもはるかに多い。すぐに辞めれば責任を取る必要もない。こっちは、必死なんだ。そう自分に言い聞かせながら。
そう、ヒューゴは必死だった。本来ならばこんなことをする人間ではない。真面目で実直。自他共に認める評価だった。でも、もう今回ばかりは手段を選んでいられない。愛する妻が、子どもが殺されるかもしれない。そんなことを考えただけで毎日息をするのもつらかったのだ。
ヒューゴは再び受付に戻り、レイへと取り次いでもらった。
「ヒューゴ!…お前、どうしてここが」
部屋から出て来たらしいレイがヒューゴを目に捉え、驚いた顔を見せる。
「すまない、レイ。…久しぶりに会えたからな。もう少し話がしたいと思って」
ヒューゴの核心を捉えも遠ざかりもしない返答にレイは一瞬訝し気な顔をした。だが、すぐに表情を取り繕い直し、笑顔でヒューゴに言った。
「そうか、それなら近くのカフェにでも行くか」
「いや、それには及ばない。ここに宿を取っているんだろう?そこで構わない」
レイの表情がわずかに陰る。
―――さあ、どう出る?
とヒューゴは心の内で問いかけた。もし、ここでレイが断ったのであれば申し訳ないが、どうにかして令嬢に直接接触させてもらう、とそこまで考える。
だが、ヒューゴのそれは杞憂に終わった。レイが考えを巡らせたのち、こう言ったからだ。
「…わかった。じゃあ上に行こう。お前も知っての通り、令嬢が一人、侍女が一人いる。紹介する。あとエルグラント元団長も一緒だ。挨拶してってくれ」
思いもよらない人物にヒューゴはその内心で驚いた。
「エルグラント殿も?」
「ああ、偶然に偶然が重なってな」
信じられない思いでヒューゴはレイの後ろを付いていった。令嬢一人に、元団長と現団長が一緒だと?どんな手を使ったのだ、とすら思う。
メリー王女のことを思い出す。我儘で傲慢で、すべてが自分の思い通りになると思っている。気に入らないことがあれば喚き散らし当たり散らし、欲しいものを手に入れるためならどんな非人道的なことでも平気で行う。
ヒューゴは思いを巡らせる。
…件の令嬢も一緒ではないのか?
公爵令嬢といった。公爵はかなりの権力がある。王族に匹敵するほどだ。その権力を最大限に振りかざしてレイを警護に付けたのではないのか?
ふざけるな。…もしそうだとしたら、その我儘のせいで、レイはメリー王女の機嫌を損ね、結果俺の妻が人質となる事態に陥っている。
…ああ、こうしている間にも、時間は過ぎる。怖い。怖い怖い怖い。時間が経てば経つほど、焦る。もし、彼女の身に何かあったら、お腹の子に何かあったら…
もし、令嬢がどうしようもない人間ならばすぐに差し出してやる。すぐに。
「レイです、入ります」
入って、という声が扉の向こうから聞こえる。
――――さぁ、見定めさせてもらおう。
―――――
「入るぞ」
思考の海から突然引き上げる突然の声に驚いて、ヒューゴはベッドから跳ねるように飛び起きた。
声の主を目で捉え、その目を丸くさせる。
「…レイ…」
まさかの人物が目の前にいる。あまりにも驚いて声が出ない。気配なんか一つも感じなかった。そうか、そういやこいつはそういう訓練もうけてたんだな、なんてぼんやりと考える。
「ちょっと、付いてこい」
どこにだ、と聞くと、言えないという返答が返ってきた。
「行く理由がない」
「あるだろ」
そう言うと、レイはしゃがみこんでヒューゴと目を合わせた。蒼い目は優しく弧を描いているのに、瞳の奥から発せられる強い威圧に、ヒューゴは逃げられないと肌で感じる。
そして、次の友人の言葉にいよいよヒューゴは心を決めることになる。
「困ったことに、なってんだろ?」