69.おそらく私のため【挿絵あり】
最近皆がおかしい。
今日は朝から土砂降りの雨だ。こんな日はとても気怠い。
私は宿の部屋でソファに座りクッションを抱えてぼんやりとしていた。マリアはエルグラントとチェスを打ち、レイは本を読んでいる。
もう一回言うけれど、最近皆がおかしい。
今までは各国に入ったなら借家を借りたり、エルグラントの家に泊まったりして、腰を落ち着ける場所を確保していた。それから存分に観光に出ていた、のに。
スプリニアにきてから一ヶ月。この国の中でも特に貴賓が泊まるような宿にずっと連泊中だ。ここの宿はとにかく警備がすごい。建物を囲むようにして衛兵が並び、尚且つ各部屋の前に衛兵が一人ずつ立っているような状態だ。騎士団も常駐しているとの話も聞いた。
一日何十万ペルリもする宿にずっと滞在だなんて非経済的だわ。借家を借りましょう?とか、小さな家を建てちゃう?とか何度も打診したけど、三人とも今回は全然首を縦に振ってくれない。
基本的に皆私の言うことには頷いてくれる。あまり大きな我儘を言うことはないと自負してはいるけれど、これまでの旅の経緯から少なくとも借家を借りたりすることに首を横に振ったりはしないはずなのに。
あと、外出も必要最小限になってしまった。
必要なものは外商を呼び寄せる。食事は基本的に部屋に運んでもらう。散歩なども許してくれるが、前みたいにシオンに遠乗りしたり屋台で気軽に何かを頬張るということはなくなった。
そのかわり、レイが一人で頻繁に出ていくようになった。お願いですから絶対に宿から出ないでください、と毎回毎回念入りに釘を刺して出ていく。
…正直、ものすごくつまらない。
でも、それ以上に。
皆を取り巻く空気がこの上なくピリピリしている。
表面上は普通に振る舞ってくれているけれど。
きっと…何かあったんだと思う。
思い当たるのは一ヶ月前のマシューとレイの会話。何を言っているまでかは全然わからなかった。でも、あれ以来明らかにおかしい。
…わかってる。きっと私のため。何かから私を護るため。皆がこの窮屈な生活をしてくれている。何かの不穏分子が私の周りを取り巻いているんだろう。…レイが一人でよく出て行くのもきっとそれを早く取り除くため。…『それ』が何なのか検討もつかないけれど。
「爵位も持たない、次期女王でもない、婚約者にもフラれ、国外追放されてる令嬢になんの価値があると言うのかしら…」
ぽそり、と呟いた言葉に部屋の中にいた他の三人がぴり、と空気を震わせた。
「…お嬢様、それはどういう意味でしょうか」
「…いいえ、なんでもないわ」
私は笑ってみせる。しまった。うっかり声に出てしまっていたわ。
不穏なことに巻き込まれていることに私が気付いてる、…ってことも、この三人なら気付いてる。それでも私に何も言ってこないということは、内容を聞いて欲しくないということ。
でもねぇ…このプチ軟禁生活、いつまで続くのかしら。せっかく(?)国外追放になったのに、存分に見聞できないだなんて。
わかってる。皆私のためにやってくれていることだから、我慢しなきゃ。レイがなにか働きかけているってことはそのうち事態は好転するでしょう。
―――でも、ふう、つまらない。
――――コン、コン。
不意に誰かが入口の扉をノックする。
ノックののちに扉の向こうから衛兵の「お客様が取次ぎをお願いしたいとのことでいらっしゃっています」という声が聞こえた。。
衛兵の声に私以外の三人の空気ががらりと変わった。ものすごい威圧感。鳥肌さえ立ってしまうほどの殺気。な、なんなの。ただの来客じゃないの…。
レイが本を降ろして立ち上がり、かつかつと扉に向かって歩いていく。マリアとエルグラントもまた立ち上がり、私を前と後ろで挟むように立ち位置を改める。ほ、ほんとどうしたの…
「来客とは」
レイが扉越しに衛兵に呼びかける。
「はい、ヒューゴ・アレン様という方です」
「…わかった。この部屋への取次ぎはするな。私が向かう」
「かしこまりました」
レイが私に振り向き、
「すみません、スプリニアの外交官のヒューゴです。俺の友人の。…念のため、確認してきます。マリア殿、エルグラントさん。サラ様をよろしくお願いします」
と言って頭を下げたのちに出て行った。
ふ、っと部屋内の緊張が和らぐのが分かる。
「…二人ともそんな殺気放ってたら、なにか問題が起きていますって言っているようなものよ」
私は思わず笑ってぽろっと言ってしまう。
「…追及してくださらないことに感謝しています」
「まぁ、サラ嬢なら気付くよな」
マリアとエルグラントもまた笑いながら私から離れてチェスを打っていた席に座りなおした。
「何が起きているか追及しちゃ、駄目よね?」
私はダメ元で聞いてみる。マリアがゆっくりと首を横に振った。
「それを話すも話さないも権限はレイに預けていますので。彼が必要だと判断した時にはお嬢様に話すでしょうから。私たちからは言えません」
「レイが今問題解決のためにいろいろ動いてくれてる。…待っててもらえないだろうか。あいつにも大事な女性を守りたいというプライドがあるんだ」
「…大事な女性って私のこと?」
「レイは今お嬢様のことしか見ていませんよ。あなた以外に誰がいますか」
マリアがはっきりと言ってくれて、私は心がほこほこしてしまう。
「ふふっ、とても嬉しいわ。それなら我慢しなくてはね」
たとえレイがいつか心を捧げたい令嬢がいるとしても、今私のことで心がいっぱいになってくれているなら、それはそれで幸せだわ。
…レイがいつか心を捧げたい女性。
ちく、という痛みがまた心に走る。…嫌だなぁ。寂しいなぁ。
こればかりは仕方がないけれど。
あの大きくてごわごわした手にいつでも触れられて、口づけを送られて、愛の言葉を囁かれる女性が、着痩せしているけど逞しいあの腕に抱きしめられる女性が、いずれレイにも現れる。その事実。
「…嫌だなぁ」
ため息が出てしまう。レイの口からはっきりといずれ想いを伝えたい女性がいると言われたときから何度も何度も同じことを考えてしまう。
―――その相手が私だったらいいのに、なんて。
「お嬢様?」
マリアの呼び掛けに表情を曇らせてしまっていたことに気付いて私は慌てて顔を上げて笑って見せる。
「ごめんなさい、ちょっとだけ考え事。何でもないわ。ねえ、マリア、温かい紅茶淹れてもらえる?」
かしこまりました、と言ってマリアが立ち上がった時だった。
―――コン、コン。
再び扉をノックする音が聞こえ、マリアとエルグラントが空気を震わせた。だから、そんないちいち殺気を放たないで頂戴。私の心臓が持たないって。
「レイです。入ります」
だが扉の向こうからレイの声が聞こえ、私たちはほっと息を吐いた。
「入って」
私が言うと、入ります、という声と共にレイが入ってきた。と、もう一人レイの後ろに影が見える。
「わ…」
失礼だとは思ったけれど、その姿を目が捉えた途端思わず声が出てしまう。
「紹介します。ヒューゴ・アレン。スプリニアの外交官、そして俺の友人です」
レイが微笑みながら私に彼を紹介した。
真っ黒な髪に、真っ黒な瞳。漆黒というイメージがぴったりだわ。腰まである髪は細く一つに束ねられている。銀縁の眼鏡の奥から覗く目は一つの隙もない。明らかに「陽」か「陰」かと聞かれたら「陰」だわ。華やかなレイと並ぶと、明らかにその異質さは際立っていた。年齢はおそらくレイと同じくらいね。でもちっとも性格が合うように見えないんだけど…
これが…レイの、友人?
「…ヒューゴ・アレンと申します。以後、お見知りおきを」
ヒューゴが胸に手を置きながら頭を垂れて挨拶をしてくる。淡々と喋るのね。思ったよりも低く渋い声に私はちょっとだけびっくりした。
それでもだいぶ簡素な挨拶に私はほっとしてしまう。仰々しく挨拶されるより、こういう挨拶のほうがよっぽど好きだ。ソファから立ち上がり、スカートの裾を摘まんで軽く会釈する。
「サラ・ヘンリクセンと申します。こちらこそ、以後お見知りおきを」
私の言葉に再び綺麗なお辞儀をすると、今度はエルグラントに向かって彼は礼をする。
「ご無沙汰しています、エルグラント殿」
「おう、久しぶりだな」
そうか、外交官ならエルグラントともそりゃ顔見知りだものね。
「…そちらのご婦人は」
おおお!と私は驚いてしまう。だいたいマリアのことを聞かれるとき、「そちらのご令嬢は」とかって言われるのに。ご婦人だと一目で見破るなんて。…さすが外交官。人を見る目に長けているのね。
「マリアンヌ・ホークハルトと申します。よろしくお願いいたします」
マリアも挨拶を簡単に済ませる。
「…マリアンヌ・ホークハルト殿…もしやブリタニカ交渉団初代団長殿でしょうか?」
す…すごい。ブリタニカの歴史にも通じているの…?なんなのこの人。
「はい。ですがもうとうの昔に退団した身。殿など敬称は不要です。マリアとお呼びくださいませ」
「…エルグラント殿。いいのですか?」
「んっ!?」
急に話を振られ、エルグラントが驚いた顔をしている。
「あなたの恋人か奥方か…いや、奥方なら私の耳に入っているはずだからな。しかし恋人というには空気が落ち着いている。…いいのですか?彼女と婚約者かなにか親密な関係ではないのですか?本人がいいと仰っていますが、私だったら妻をほかの男に呼び捨てにされたらいい気分はしないので」
顔色一つ変えず淡々と事実を述べている。
「超、愛妻家なんですあいつ」
レイがいつの間にか隣に来て、私にこそっと耳打ちしてくるけどいや、そこもおいしい設定だとは思うし、結婚してたんかい!とか突っ込みたいけどそこじゃないでしょうレイ!!んもうこのド天然!キュンとするから耳打ちもやめて!
「はー、相変わらずの観察眼と推理力だな。久しぶりに見ても怖いなお前」
そう!そこよ。その異様な観察眼とかは何なの。でもエルグラントは心得ていたようにガハハと笑っている。
「そうだな。確かにマリアは俺の婚約者だ。それならマリアのことはマリアさんでもマリア殿でも。呼び捨てはやめてくれ。こいつをマリアと呼んでいいのは俺とそこのサラ嬢だけだ」
「承知しました。それならばマリアさんと呼ばせてもらいます」
淡々と無表情で話すのね。本当にレイと友人というのが信じられない。
でも、少し知ってみたいかも。この人のこと。
「もしよければ、今からご一緒に食事でもいかがですか?」
私はヒューゴ様に声を掛けてみる。返事はすぐに帰ってきた。
「喜んで」
…うん、見事に無表情。言葉と顔が一致してなーい。