64.遠乗りデート
「もう大丈夫なの?」
レイにぎゅっとしがみつきながら聞くと、まだやや赤い頬をさせたまま大丈夫です、と頷いてくれた。
あれから出発したのだが、最初は私に合わせてゆっくりと馬を走らせてくれた。それくらいなら前にも経験したことがあるし、何より今日はレイにしがみついていられる。正直、全然怖くない。視界がいつもよりはるか高いところにあるのでものすごく気持ちいい。
「とっても気持ちいいわ、レイ」
「それは良かったです。怖くないですか?」
「あなたに抱きついていられるもの。全然怖くないわ」
「よかった」
そう言ってレイが私を優しく見つめてくる。もう一緒に過ごすようになってだいぶ経つけれど、本当にレイは美しい顔をしている。見つめ合いながらふふふとお互いに笑うと、これ以上ない多幸感に包まれる。
不意にコツン、とレイのおでこが私の頭に当てられた。
「どうしたの?」
なんだか、その動作がとても嬉しくて、私はまだくすくす笑ったままレイにすり寄ってしまう。
「くっつきたくなりました」
「なぁにそれ」
「いいですね、馬上だとあなたと堂々とくっついていられる」
「馬上じゃなくたってくっついてくれていいのよ?」
「マリア殿に距離感!って言われちゃいますから」
レイの言葉に私は声を上げて笑ってしまう。確かに。
「もう少しスピード上げても大丈夫そうですか?」
「もちろん!お願いするわ!」
レイとマリアが言っていた疾走感というのを私も味わってみたい。わくわくする、ドキドキする。こんな感情をくれてありがとう、レイ。
「じゃあいきますよ!シオン!」
レイの呼び掛けと手綱の操作でシオンが一度大きく嘶いたのちに、駆けるスピードを上げだした。
「わ…っ!」
思ったよりも速いことにびっくりして私は思わず声を上げてしまう。
「大丈夫ですか?」
レイの手が支えるように私の腰に回される。より安定してほっとする。
「ええ、大丈夫よ。ちょっとびっくりしちゃって」
「どうしようかな…もう少し上げてもいいですか?」
ええ…今でも結構速いのに…しかもレイが私の腰に手を回しているからレイは片手で手綱を持っている状態なのに。これ以上スピード上げて大丈夫なのかしら?
「…大丈夫ですよ。あなたを危険な目に合わせることはしませんから」
レイが私の感情を読んだかのようにしっかりした声で言ってくれて、私は頷く。そうね、レイがそういうなら大丈夫に決まっているわ。
「大丈夫。お願い」
「わかりました。しっかり捕まってください!」
レイの声と共にシオンがさらにスピードを上げた。
わっ…これは…っ!ちょっと怖い。――――ぎゅっと目をつぶってしまう。
「…サラ様」
耳元でレイが囁く。風を切る音がひどく大きい中で、レイの声だけがまるで別物のように私の耳に大きく響いた。
「目を開けて?もったいないです。前を見てください。大丈夫だから」
レイの言葉にそぅっと私は目を開けた。怖いけど、怖いけどゆっくりと顔を上げて視線を前に移動させる…と。
「――――う、わぁ」
恐怖が一瞬で吹っ飛んだ。目の前に青々と広がる草原。どこまで続くのかと思うほどの広大なアルプス山脈。その中をものすごい速さで駆ける爽快感。
微弱ながらも次々と変わる風景が。頬にあたる風が。耳に届く風を切る音が。すべての感覚が初めてのものだった。五感が研ぎ澄まされていく。
――――こんなの初めてだわ。
「すごい爽快でしょう?」
レイの声が上から降ってくる。私は眼前に広がる光景から目を逸らせないまま一回ゆっくりと頷いた。
そのままレイは何も言わずにただひたすら駆けてくれた。
私がこの光景を楽しんでいるのを邪魔しないように配慮してくれたのだろう。本当に、優しい人。
そうして、私がやっと満足してレイに話しかけられるようになるまで、レイはひたすら馬を走らせてくれたのだった。
――――
ジット町中の『屋台村』。町中に一角だけ屋台が立ち並ぶ区画が設けられているここを、町の人たちはそう呼んでいた。
ここの町の人たちはあまり自炊をしないらしい。それよりも屋台で買ったほうが安いそうだ。屋台村に入ってすぐにエール売りのおじさんから声を掛けられ、そんなことを教えてもらった。
「レイはエール飲まないの?せっかくクーリニアのエールなのに」
「それならいつでも飲めますから。馬に乗るのに、しかもサラ様を乗せるのに飲むことはしませんよ」
「レイ酔わないじゃない」
「それでもです、万が一、億が一がありますから」
「真面目ねぇ…」
当たり前のように手を繋いで歩いてくれるのがとても嬉しくてくすぐったい。
「海産物はやっぱり少ないのね。イランニアはたくさんあったけど」
「クーリニアは山地ですからね。新鮮な海産物の大量流通はまだ難しいんです」
そうなのね、と返しながら一軒一軒屋台を見て回る。
「何か食べますか?」
レイが聞いてくれて私はうーんと悩みながら首を傾ける。
「なんか、こってりしたお肉とかではなくてちょっとあっさりしたものが食べたいわ。レイは?」
「こってりした肉…ですかね」
言いにくそうにレイが言って、私は噴出してしまう。
「屋台だもの、めいめい好きなものを食べればいいじゃない。…あっ!私あれがいいわ。ヤギのお乳からできたチーズですって。さっぱりしているらしいわ」
ちょうど目の前に飛び込んできた屋台の看板に書かれた文字に私は食いつく。
「野菜で、ヤギのチーズとトマトと蒸した鶏肉をくるんであるのね。うん、これがいいわ」
「じゃあ、それを買いましょう。すいません、これを二つ」
レイがお店の人に声を掛けてくれる。…あれ?
「ん?二つ?レイも食べるの?お肉は?」
「お肉も食べますけど?」
当たり前のようにレイが言うものだから笑ってしまう。そうよね、私はもうこれ一つでお腹一杯になっちゃうけれど、レイは男性だもの。全然足りないわよね。
その後、レイがこってりとしたお肉をパンで挟んだサンドとジュースを買ってきてくれて、私たちは併設されている休憩所に座り、そこでのんびりと昼食を楽しんだ。
「ほんと、サラ様にこんな食生活させてるって知られたら俺エドワード義兄さんに叱られそうです」
がぶりとサンドにかぶりつきながらレイが言う。貴族のマナーでそんな食べ方はご法度だから、普通の人がしているのを見たら野蛮だとされがちなんだけど…なんでそんな所作すら美しいのか訳が分からないわ。
「気にすることないわ。だいたいが貴族の食事ってマナーばかりで肩が凝るもの。もちろん見目に美しいし、嫌いではないけれど。でもこういう食事も人目を気にしないで食べられる良さがあってとても好き」
それに、と私は言葉を続ける。
「あなたと一緒に食べるとどんな食事だっておいしいわ、レイ」
「俺もですよ。あなたと食べる食事の美味しさを知ってしまいました。…国外追放、終わらなきゃいいのに。そうしたらあなたとずっといられるのに」
ポツリ、とレイが漏らした言葉に私は心の底から驚いてしまう。
「れ、レイ。それはまずいんじゃないの?私の国外追放が終わらなかったら交渉団は団長不在のまま動かなければならないことになるわよ…?」
「それは副団長がいるので大丈夫なんですが…って、すみません。国外追放が終わらないってことはサラ様の冤罪が証明されないってことですよね」
「それは構わないけれど…」
私の漏らした言葉にレイがふはっと笑う。
「それが一番大事じゃないですか!?」
「それは…ヘンリクセン家の名誉のこととかを考えるとそうなんだけど…正直私今人生で一番楽しくって。マリアとエルグラントと…そしてなによりレイ、あなたがいて。このままこうやってのんびりと毎日過ごすのもいいなぁ、なんて思っちゃうの」
「…やっぱり、玉座に座ることは考えられないですか?」
レイの言葉に私はうーん、と唸ってしまう。
「シャロン陛下にも、現在の国王陛下にもとてもお世話になったし、恩を報いたい気持ちは勿論あるわ。…でも、私はアースと婚姻の道が無くなった時点で、女王になるという道をきれいさっぱり頭の中から排除しちゃったから。今更そこに戻るのには力がいるの」
「普通の令嬢なら喉から手が出るほど欲しい権力でしょうに」
「権力や地位には興味がないわ」
私は心の底から思う。
ヘンリクセン家は権力に興味のない貴族だ。公爵というかなり高い立場にありながら、その地位にしがみつくことを望まない。
「お父さまがよく言っていたの。「没落したらそのときはそのとき」って。権力なんか、ひとつ歯車が狂えばまるで面白いように崩れていくものなんだから、それに固執する生き方はしてはいけないって教えられて育ったわ。でもそれと同時に権力の怖さも教えられたの。権力一つで人を殺せる。権力一つで他人の人生を狂わせられる。使い方を誤ってはいけないと」
私の言葉にレイが首を傾げる。
「…そこまで権力に興味がないのに女王になることを受け入れたのはなぜなんです?姉君は確かにあなたを女王にすることを望みました。王族の血が流れていれば、同族の血の名の元に命ずることができます。ですがそうでないあなたにそれを無理強いすることはいくら姉君でもできません。辞退することは可能だったでしょう?」
「…さっきも言ったように権力の怖さを教えられていたから、かしら。この先、私ではない誰かが女王になったとして、その者が権力を濫用するものだったら?民を苦しめる王だったら?そう考えた時に、私ならそうはならないっていう確信があったのよ。あとは…そうね、女王としての責任の大きさ、責務や執務内容をシャロン陛下から聞いた時に単純に『できる』って思ったからかしら」
私の言葉にレイが目を丸くして驚愕の表情をしている。
ん?なにか変なこと言ったかしら?
「…あなたは…」
レイが何かを言おうとして、それをやめて言葉を飲み込んだ。
「どうしたの?」
「いえ…なんでもありません。すみません、せっかくのデートなのにこんな話をすることが野暮でした。なにか楽しい会話をしましょう?」
即座に話題を切り替えて眩しい笑顔を見せてくるレイに、私も笑顔を返す。
「そうね、こんな話はあなたとの貴重なデートの時間にするものじゃないわ。あ!そうだわ。ねえ、レイ、一つお願いがあるのだけれど!」
「なんなりとおっしゃってください」
「ええとね、―――――――――」
私のお願いをレイは快諾してくれた。