55.三者面談
「どうしたんだ、レイ」
エルグラントさんが俺に向かって聞いてくれる。交渉団に俺が入団してから、エルグラントさんが退団するまでの七年間、何度も彼はこんな風に優しく俺の悩みや相談を聞いてくれた。まだエルグラントさんが退団してから数ヵ月しかたっていないのに、ひどく懐かしく感じる。
あれからマリア殿が俺のためにエルグラントさんをニ十分ほどかけて連れてきてくれた。確かにサラ様を一人にできないからだとは言え、本当に申し訳ないと思う。
それから紅茶をマリア殿が淹れてくれた。すこしブランデーを入れてくれたらしい。酔わせるための目的じゃないそれを口に含んだらほっとした。
テーブルを挟んでこちら側に俺一人。向こう側にマリア殿とエルグラントさんが座っている。寝室にいるサラ様に聞こえないように、皆小声で話している。
「…あの、ですね…」
こういうことを本人の許可なく話してもいいのかと思ったけれど、当の本人は覚えていないようだし、なにより俺が一人で抱えきれなかった。
「昨日の夜、サラ様と飲んでたんです。酔わないように、少しずつ飲んでくださいと僭越ですが釘を刺させていただきながら」
俺の話に目の前の二人がうんうん、と頷いてくれる。
「それで、途中から、なんで俺が昨日…今日からしたら一昨日ですね。怒っていた風だったのか、とサラ様に聞かれたんです」
「なんて答えたんだ?」
エルグラントさんが言い、俺はう、と言葉に詰まる。本人を目の前にして言うのはすごく失礼なことだからだ。
「エルグラントさん、本当に先に謝っておきます。大変に失礼なことを俺は言いました」
「お、どうした?なんて言った」
「…エルグラントさんが俺より先にあんな親愛の抱擁や、口づけの栄誉を受けたことが羨ましかった…って」
気分を害するよな…と思っていたのに、俺の言葉を聞いたエルグラントさんは肩をがくっと落とした。そのまま、頭を抱え大きな溜め息を吐いている。
「んっ?え、エルグラントさん?」
「まぁ、そんなこったろうとは思っていたが…」
隣でマリア殿がブッと噴き出している。いや別にそんなおかしいことは言っていないはずだ。
「まぁ、当たらずとも遠からずだな。…羨ましいという感覚を認めただけでも今のレイからしたら及第点だろ」
「そうね。斜めをいってることには変わりはないけどね。…続けて、レイ」
マリア殿の催促にはい、と言って俺は言葉を続ける。
「それで、その答えを出すときに俺は一人で思考を巡らせてしまって、おそらくサラ様はその隙に一気にお酒を飲まれたと思うんです。…で、それから、俺に抱擁をくださって…」
「いきなり!?」
エルグラントさんが少し大きな声を出し、マリア殿が慌ててエルグラントさんの口を押さえる。すまんすまん、と仕草だけでエルグラントさんが謝った。
「お嬢様はお酒を飲むとそんなものよ。行動に脈絡がないわ。…おそらくレイが羨ましいと言ったのを聞いて、レイにも抱擁をしなければと思われたとかそんなあたりでしょう?」
さすがマリア殿。寸分の狂いもない。
「その通りです。で、そこまでは良かったんですが…」
「良いのか?」
「まぁこの二人に限ってそこに他意はないわ」
マリア殿が言う通りそこに疚しいものはなかったので俺はそのまま話を続ける。
…だが、その先を話そうとした途端、俺の顔は火が付いたように火照りだした。
「そ…こからっ」
駄目だ、思い出すと頭が爆発しそうだ。
「お、なんかこれは面白い展開が待ってるな」
「わくわくするわね」
爆発しそう、爆発しそうだけどもう俺一人じゃ感情の着地点が判んないから。
「~~~~~っ!!!レイとの口づけは…こっちがいい…っと。頬に…っ口づけをされ…っまして」
駄目だ、思い出してあまりの恥ずかしさに俺は頭を抱えて俯いた。
でも、恥ずかしいけど、どうか、最後まで聞いてほしい。
「で…本当に、それからしばらく、パニックになってしまって…サラ様はそのまま眠られて、ベッドに運んだんですが、どうしても口づけを思い出すと眠れる気がしなくて…っ」
目の前の二人が纏う空気が柔らかい。顔を上げられないけどそれだけはわかる。
「で、本当に飲みながらいろいろぐるぐる考えたんですけど…っ、考えれば考えるほど…一つの感情しか出てこなくて…っ」
恥ずかしい。本当にめちゃくちゃ恥ずかしいけど。
「ものすっっっっっっごい、嬉しかったんです………!!!」
言い切って、ほうっと息を吐いた。
そう、俺は死ぬほど嬉しかった。それから…
「なんで、嬉しいかって考えたんです。例えばほかの女性からそうされたらそこまで嬉しいかどうかって…」
「とりあえず私からされたらどうだった?」
マリア殿が聞いてきて、俺は慌ててエルグラントさんを見る。誰だって自分の恋人でそういうことを考えられた、なんて聞いたら嫌だろうと思ったら、エルグラントさんは鷹揚に頷いてくれた。
「気にすんな、お前の感情を整理するのに大事なことだ。どうだった?」
この寛容さ。本当にこの二人が物凄く大人なんだと思い知らされる。
「…嬉しいというか…想像がつかなさ過ぎてびっくりしました。それでも、無理矢理想像したんですけど…」
「無理矢理かい」
マリア殿の突っ込みが入って俺は慌てて胸の前で手をぶんぶんと振る。
「あ、いえ、そうじゃなくて、本当に俺にとってマリア殿はもう憧れすぎてそんなことを想像すること自体が難しくて…でも、それでも考えてみて。そりゃたしかに光栄ですけど、嬉しいっていうよりは…なんていうか」
「なんていうか?」
エルグラントさんが笑いをかみ殺しながら続きを促してきた。
「…怖いです」
「「ぶっ!!!!」」
目の前の二人が同時に噴出した。
「ちょ、っとあんまり笑わせんでくれ…っ!傷が開くっ…!お前失礼だなぁ!人のモンに向かって」
「エルグラン…っ!声がっ…!大きいわよ…あぁ、おかしい。久しぶりに言われたわ。怖いなんて」
「団長のころは散々言われてたのにな」
結構失礼なことを言ったのに、笑いで流す二人は本当におおらかな人たちだ。少し安心して、俺は続けた。
「それでですね、他の令嬢たちのことも考えたんです。今まで言い寄ってきた」
「どうだった?」
目尻の涙を押さえながらエルグラントさんが聞いてくる。
「…鳥肌が立つほど気持ち悪かったです」
俺の言葉にそうかそうか、と頷いてくれる。
「それで、なんでサラ様だけ平気…いえ、平気どころじゃなくて、こんなに嬉しいんだろうって。特別なんだろう?って考えた時に…」
ああ、くそ。ものすごい恥ずかしい。恥ずかしいけど、本当にこの感情が『それ』なのであれば目の前の二人にはっきりと肯定して欲しい。
「俺、今までいろんな感情経験してきたんですけど…まだ一つだけ経験したことないのがあって。で、サラ様に抱いてるのが、もしかしたら『それ』なのかもしれないって考えたら、ものすごいしっくり来てしまって…」
血がどんどん顔に上がってくるのがわかる。おそらくカンカンに茹で上がって真っ赤になっているんだろうとわかる。でも、聞いて欲しい。教えて欲しい。…肯定して欲しい。
「違ったら、教えて欲しいんです。サラ様のこと考えると、いつも優しい気持ちになってもの凄く愛おしくなって守りたくなって、口づけを送られたら嬉しいのと同時に口づけを送りたくなるんです。この感情は…」
俺は意を決して二人を見る。二人が微笑みながらも決して茶化している表情じゃないことがとても嬉しい。
「…『恋』ですか?」
口に出してまたとてつもない恥ずかしさに襲われる。だけど同時に、やっぱりとてつもなくしっくりくる、とも思う。
早く、早く答えが欲しい。どうか、答えて欲しい。俺なんかよりもずっと人生経験が長くて、その感情も知っている二人からの答えが欲しい。
二人に真摯な眼差しを向ける、と、最初に口を開いてくれたのはマリア殿だった。
「ええ、…そうよ。レイ。よくできました」
そう言って、本当に優しく笑ってくれた。瞬間、まるで頭の中の霧が晴れたような感覚に襲われる。そうか、これが。やっぱりそうだったのか。
恥ずかしさ以上に嬉しい気持ちが沸き起こる。
「いや~、一生気付かないかとも思ったけどな。よかったな、レイ」
エルグラントさんもそう言ってくれる。
うわ、なんだこれ。なんだかよくわかんないけどすごく嬉しい。泣きそうだ。
「サラ嬢という素晴らしい女性を慕うだなんて、お前やるなあ。すごい見る目があるぞ。…誇りを持て。自信を持て。人を愛する感情を知った人間はさらに強くなることができる」
「ま、私は弱くなっちゃったけどね」
水を差すなよ、今は違うだろ、とエルグラントさんが笑う。
「ああ、あと。一つ訂正してやる」
そう言うとエルグラントさんは俺に向かってちょっと意地悪く笑った。
「お前のアレ、俺がサラ嬢からの抱擁とか口づけの誉れとか羨ましいって言ったやつ。アレな、『嫉妬』だから」
「嫉…妬?」
「そう、嫉妬。誉れを貰えなかっただの云々な、難しく考えすぎ。お前はただ単に嫉妬したんだよ。サラ嬢がほかの男と触れてんのが嫌だっただけだ」
…。
……。
………。
「~~~~~~~~~~~っっっっっっっ!!!!!!」
かあああああっと頭に血が上るのが分かる。駄目だなんだもう意味が分からない。意味が分からないのに妙に納得してしまうのはなんなんだ。というか…っ!
「お…れ…っ!めちゃくちゃ、心、狭くないですか??!!!」
あの抱擁も他意がないとわかっているのに、口づけだって、別に変な意味を持ったものではなく本当に敬愛と感謝の意味でエルグラントさんがしていたのもわかってるのに、それすら『嫌』と感じるだなんて!!どんだけ狭量なんだ俺は…!
「そりゃぁ、自分以外の男の前で酒を飲むなとか言っちゃうくらいだしなぁ…俺はマリアにそんなこと言ったことないもんなぁ」
「手の甲に口づけなんかこの社会じゃ当たり前のことだし…まぁ、普通はあまり気にしないわよね」
「俺、ダメダメじゃないですか…!?」
なんだこれ、めちゃくちゃ恥ずかしい。
「構わねえよ。まだ若いんだ。そのくらいの熱量がないと、サラ嬢は落とせないぞ。競争率めちゃくちゃ高いからな。頑張れよ」
「…やっぱそうですよね」
俺は肩を落としてしまう。これが恋だと実感してしまったら、やっぱり次に願うのは『彼女の心』だ。でも、あれだけの美貌に才能、公爵令嬢という肩書どれをとっても、隣に立つ男は相当の器でなければならないというのはわかる。そしてその座を狙う男はきっと少なくない。
「ま、そこは心配しなくても大丈夫でしょう、それよりもレイ。少しあなたを叱ってもいいかしら?」
突然のマリア殿の言葉に俺はびっくりする。
「気持ちの整理がついたところで…今朝のあなたのお嬢様への態度は何なの?」
「ああ、そうだったな。それで俺は呼ばれたんだったもんな、まぁ、だいたい察しは付くが…」
「察しは私も付くし、あなたの気持ちもわかるわ。レイ」
なんだか二人に叱られている気分になり、俺は小さくなってしまう。
そう、単純に恥ずかしくなったのだ。自分が彼女に好意を抱いているのかもしれないと自覚した途端、今まで何も考えずに触れ合っていたのが嘘ではないかと思うほど、彼女に触れられるのが恥ずかしくて堪らなくなった。
「逆の立場で考えなさいな、レイ。もし、あなたが触れようとしてお嬢様がいきなり逃げたなら、あなたはどんな気分になる?」
マリア殿の言葉に俺ははっと目を見開いた。
…そんなの、耐えられない。悲しくて仕方がないはずだ。
「俺は…そんな感情をサラ様に抱かせてしまっ…?」
「ええそうよ。最初だけ少し厳しいことを言わせてもらうけど。あなたがこれから先お嬢様と心を捧げ合って共に生きていこうとするのであれば、自分がされて悲しいことは相手には絶対しちゃだめ。これは基本中の基本よ」
私はそれで大失敗したから、というマリア殿の顔に少し影が差す。
「距離感は勿論保たなければならない。あなた方はまだ恋仲でもない。…でも、今のところお嬢様が心を開いている近い年頃の男性はレイ、あなただけよ。だから、過度なスキンシップなどでなければ私は許容してきたわ」
俺は頷く。確かに、マリア殿はそうしてくれていた。
「…それをいまさら自分が恋心を自覚したくらいでいきなり拒絶するなんて。あなたはその程度の器なの?自分の恋心を持て余して相手に不快な感情を抱かせる程度の器しかないの?あなたはお嬢様より七歳も上なのよ。もっとしっかりなさい。余裕を持ちなさい。レイモンド・デイヴィス」
マリア殿の真摯な目に、俺はごくりと唾を飲んで喉を鳴らした。
「…はい」
情けない。二十三歳にもなって。年下の令嬢を落ち込ませるなど。
…サラ様に謝りたい。今朝のひどい態度を。彼女は何も悪くないのだから。悪いのは俺の幼稚さだったのだから。
「あー、なんか腹減ったな。飯食いにいかねえか?マリア」
「その傷でうろうろするつもり?救護室になにか買って持っていくわ。先に戻ってて」
おおらかなエルグラントさんの声と、ため息交じりのマリア殿の言葉に二人の気遣いを感じ取り、俺は泣きそうになった。
「…レイ、きちんとなさいな。あと、ちゃんと朝食は摂らせて差し上げて。さ、行くわよエルグラント」
「おう」
マリア殿とエルグラントさんが立ち上がる。俺も慌てて立ち上がり、二人に向かって深々と頭を下げた。
「―――本当に、ありがとうございました。俺…っ!」
だが、言葉が続く前にわしゃわしゃわしゃと頭を撫でられた。驚いて顔を上げるとエルグラントさんが本当に嬉しそうな笑顔を俺に向けていた。
「…でっかくなったなぁ。レイ」
―――あ、やばい。その言葉。泣きそうになる。
俺は慌ててまた頭を下げた。そのままぽんぽんと二回ほど頭をたたくと、エルグラントさんとマリア殿は部屋から出て行った。
「…ほんっと…二人みたいに、なりたいです」
頭を下げたまま、俺は呟いた。