54.助けてください
うう…頭が重い。ええと、どうしたんだったかしら昨日。
そうだわ、確かレイとお酒飲んで、それでレイがエルグラントにした抱擁とか口づけが羨ましいとかなんとかかわいいこと言って…だめ、思い出せない。でも終始幸せな気分だったのは覚えてるから、きっといい時間だったわ。
「お嬢様、おはようございます」
いつものマリアの声がする。少しずつ目を開けるとぼんやりとした視界がマリアを捉え、私は挨拶を投げかけた。
「おはよう…エルグラントは?」
「もう大丈夫ですよ。縫合の下の部分が少し開いていただけでしたので。あと二日ほど休んだら、少しずつ動くように医者からも言われています。あとで会いに行かれますか?」
そうね…と言って私はベッドからゆっくり身を起こす。
「今水をお持ちしますね」
マリアの声掛けにお願いするわ、と返し、私は思いっきり伸びをして目を擦る。
身体は重いけど、なんだか気分はすがすがしい朝。マリアの不安も拭えたし、とりあえず私もレイもいまのところ何の問題もない。エルグラントも回復してきているようだし。いいことずくめな一日のスタートだわ。
「昨日はレイとお酒を飲まれたんですか?」
部屋に入ってきたマリアの問いに私は、ええ、と返す。
「二人がうまくいったことが嬉しくて祝杯をあげたわ。私はイチゴの甘いのをグラス一杯ほど。レイもミントのお酒を一杯ほど」
「ああ、じゃあお嬢様が寝た後にあれだけの量を飲んだんでしょうね」
マリアの言葉に私は首を傾げる。
「ゴミを入れる箱に、大量の瓶が捨てられていましたから。レイは底なしなので心配はないと思いますが、ちょっとすごい量だったので」
「そんなに?よっぽど嬉しかったのね。私はすぐに眠っちゃったから、相手がいなくてつまらなかったでしょうね」
そうだったんですね、というマリアの声を聞きながら私は顔を洗う。うん、とても冷たくて気持ちいい。マリアが手渡してくれたタオルで顔を拭いたらちょっとスッキリした。
「では適切な距離感を保たれていたようで安心しました。いい夜だったようですね」
そう言ってマリアは私の背後に周り、髪を整えてくれる。もう長年に渡って続けられている流れだ。
「そう。とても楽しかったわ。あのね、レイってばとってもかわいいの。昨日の、ちょっともやってしてた時に怒ってた理由を教えてくれたんだけど」
私は昨日のことを思い出してくすくす笑ってしまう。すると、後ろで櫛を通すマリアの手がぴたっと止まった。
「マリア?」
「あ、いえ、申し訳ありません。続けてください。レイはなんと?」
「怒るというより羨ましかったんですって。自分より先に、エルグラントが抱擁とか口付けの栄誉を貰えたことが。仕えている人間からそういうのをもらえるのはとても特別なことらしいのね。私にはよく分からないけれど。ね、とってもかわいいでしょ?理由が子どもみたい」
「……」
「マリア?」
返事がないことを不思議に思って振り返ると、マリアが脱力していた。
「ま、マリア?!」
「…どうせそんなこったろうと思ってましたけど…」
はぁあぁ…とマリアの溜め息が止まらない。
「とりあえず年齢的にもそっち方面での異常な鈍さはそろそろ『可愛い』を通り越して『痛い』の領域に入ってきますので、そのうちエルグラントと私でレイに三者面談でも行います」
「は、はい…」
なんだろう、この微妙な空気。しかも歴代団長二人からの面談って、レイ大丈夫かしら…
髪を整えてもらい、化粧を薄くしてもらって、ワンピースを身につける。うん。ドレスより遥かに着やすくて、今はもうこっちの方が身体に馴染んできているわ。
「はい、今日も誰よりも世界一美しいですお嬢様」
お、久々の強火。
「ありがとう。もうレイは起きているかしら?」
「護衛がお嬢様が起きる時間に待機していなかったら大問題です」
もう、マリアってば鬼上司じゃない。そう言って笑いながら寝室を出ると、レイが既に扉のそばに待機していてくれた。
「おはよう、レイ」
「おはようございます」
礼儀正しく礼をしてくれるのだけど…なんだか元気がない。そして頭を上げたレイの顔を見た私は慌ててしまう。
「レイ、どうしたのその顔…!!!」
「へ?」
「目の下!ひどいクマよ!大丈夫?ちょっと飲みすぎたのではなくって?」
私がぐいぐいと近寄ると、レイはいきなり顔を真っ赤にして仰け反った。
「大丈夫です!本当に大丈夫ですから!!!お願いします、それ以上…っ!」
そう言って両手を伸ばして私を遠ざける体勢を取る。…ちょっと、どうしたの?なんかとても壁を感じるのだけど…
「本当にどうしちゃったの?いつものあなたらしくないわよ?」
そう言って目の下のクマに触れ…ようとした途端、さっとレイが体勢を変えて、触れようとした私の手からあからさまに逃げた。
「え…っ」
逃げ…た?
空に投げ出された手が、行き場もなく硬直する。ついでに私の顔も固まってしまう。
「あ…っ」
レイが気付いたように声を出し、「す、すみません今のは避けたとかそういうのではなくて…っ」と言ってくるが、そういうのではなくてなんだというのだろう。
…どうしよう、ものすごく泣きそうだ。
「私…何か嫌われることしちゃったの…かしら」
「いえ、違います!そんなことは!」
レイが言ってくれるけど…
「じゃあ、なんで、避けるの?」
私の言葉にレイが硬直する。答えてくれない。避けてませんと、否定をしてくれない。
ーーーそれは、つまり、レイが意識的に避けているということで。
まるで頭を鈍器で殴られたかのようだった。
さっきまでの、いいことずくめの一日だわ〜だなんて呑気にしてた自分を呪いたい。…最悪のスタートだわ…
あ、泣きそう。
「…ごめんなさい、ちょっと、寝室に行ってくるわ…。レイ、きちんと冷静になって思い出して、謝罪するから…。朝食は、いらないわ…マリアごめんなさい。…しばらく一人にして頂戴」
私と同じく終始驚きの表情を見せていたマリアが慌てたように言葉を返してくれる。
「いえ…っ、おそばに…」
「ごめんなさい、一人にしてちょうだい」
ふらふらする。なんで?私、何をしてしまったの?寝室に向かって歩く足取りも覚束ない。たった二、三歩の距離が果てしなく遠く感じる。
寝室に入る扉の取手を握るとじわりと涙が浮かんだ。
後ろを振り返って笑って二人に「ごめんなさいね、反省してくるわ」くらい言えればいいのに、そんな余裕すらない。
そのまま振り返らず、寝室に入り扉を閉めた。
扉を閉めた途端、じわり、と浮かんでいた涙が膨れ上がり、ぽたぽたと落ちる。
レイの、あからさまな拒絶。私は昨日おそらくお酒のせいでなにか取り返しのつかないことをしてしまったに違いない。ひどく怒らせたのかもしれない。
謝りたい。謝りたいのに何をしたのか思い出せない。
終始幸せな気分だったから、何も悪いことは起きてないと思っていたのに。
明らかに避ける意思を持って避けたレイの顔を思い出す。驚きと戸惑い。未知のものに対する恐怖。
…あんな目、見たくなかった。
普段のレイなら、むしろちょっと屈んで私に触らせてくれて、にっこりと笑ってくれたはずなのに。
ーーーーー悲しい。
ーーーーーーー
「レイ」
呆然としているレイに呼びかける。びくり、と肩を震わせ、ゆっくりと私を見るその目が泣きそうになっている。
「…どうしたの。なにがあったの」
「………だ、さい」
「へ?」
レイが悲痛な声を出した。
「マリア殿、お願いします。…助けてください!俺、もう今混乱してて。全然自分の感情が分からなくて…っ!全然整理がついてなくて…」
これは…
レイの表情に、私は一つの可能性に辿り着く。ちょうどさっきそろそろ話そうと思っていたし、ここら辺が頃合いなのかもしれない。
全く、手のかかる可愛い後輩だわ。
「お嬢様を一人にはできないから、あなたはここにいなさい。エルグラントを呼んでくるわ」
「でも、エルグラントさんは…っ」
「あの人にとっちゃ、可愛い後輩のためなら、また傷が開くくらい安いものよ」
そう言って私は部屋から出るべく扉に向かって歩く。扉を開ける瞬間に、レイに向かって振り返って言った。
「三者面談、してあげる」