48.5.マリア、駆ける【エルグラント目線】
「…っくそっ、」
俺は思い通りにならない身体を持て余していた。右脇腹の痛みが自由に動くことを許さない。
階段を一つ上がるだけでも息切れする。一階の救護室から八階の自室に行くのにも三十分ほどかかってしまった。
着替えをやっとのことで済ませて、そうして今ベッドに寝転がり、三十分ほど横になっているところだ。寝返りひとつ満足にできない。
「はー…ほんっと、情けねぇ」
不戦の誓いがあってからは戦うこともなかった。怪我なんか本当に二十年ぶりくらいじゃねえか…?
でも…この怪我と引き換えにマリアの命を守れたのなら、安いもんだ。
「…マリア」
あいつが手紙を読むのはいつだろう。そろそろ身体を拭きにくる頃だろうから、もう読んでるんじゃねえかな。…あれ読んでどう思ったかな。
こんな風に別れるのは申し訳ないとは思う。
でも、もう彼女の顔を見る勇気はなかった。
「手を伸ばせば届くのに…なぁ」
届くのに、届かない。気持ちはもう二度と届くことはない。
「…つっれーーー…」
笑ってしまう。もう四十のいいおっさんが、思春期の若者のように失恋で落ち込むだなんて。
忘れていいだなんて言いたくなかった。
本当は忘れて欲しくなんてない。マリアの心の中に俺の存在がいつまでもあればいいのにと思うけれど、それを望むと彼女は苦しむから。
俺の存在が彼女の中になくても、笑って生きててくれたらそれでいいと思えたから。
好きだった、愛していた。
マリアと恋仲として過ごした一年足らずのひとときは、人生の中で一番素晴らしい時間だった。
隣で笑って、たまには口付けをして。いっぱい抱きしめた。たくさん愛の言葉を囁いた。満たして、満たされて。
「俺だって…望んださ」
マリアとの未来を。結婚し家庭を作り、自分たちの子どもが目の前を駆け回る未来を。
団長であるマリアに、それを言うことはなかったけど。彼女が誰よりも責任感が強いということを知っていたから。彼女が望むときに、自分が受け入れればそれでいいと思っていたのに。
彼女は一人でそれを望み、それに一人で罪悪を抱いて一人で消えていった。
「ほんと…不器用なやつ。…頼れよバーカ」
ベッドの上で悪態を吐く自分に笑ってしまう。
ーーーでももう、終わりだ。俺たちの人生が重なることは、この先一生ない。
「さて、と。荷物をまとめて、出るか」
おそらくマリアは今ホッとしているだろう。もう俺のことを思い出す必要もない。存分にサラ嬢に仕える人生で、お前の過去の後悔が晴らせるなら、それに越したことはないさ。……ま、本音を言うと今度こそ頼って欲しかったけど。
「…終わったことだ」
力を入れてゆっくりと立ち上がる。それすら痛くて顔が歪むのがわかる。
まとめる荷物などほとんどない。ソファの上に投げ散らかしていた服と、帽子。そんなもんだ。それらを雑に鞄に入れ、俺は部屋を出るべく扉へと向かう。
律儀なレイあたりが正面で待ちましょうなんて言ってるといけないから裏口を使わせてもらおう。
そんなことを思いながら、扉の取手を捻り内側へと引く。ん?いやに軽いな。
途端、突然に加速をつけて扉が開いてきた。
「うわっ!!」
勢いよく自分に向かってくる扉をすんでのところで避ける。
ーーーだから、気付くのが少し遅れた。
「エルグラント!!!!!」
ーーーーそう叫んで俺の胸に飛び込んでくる、マリアに。
「…っ!!!」
なんだ?意味がわからない。とりあえず衝撃で脇腹に痛みが走るが、倒れそうになるのを歯を食いしばって耐える。鞄が手をすり抜けて音を立てて床に落ちた。
「間に合…っ、!よかった!よかったエルグラント!!!」
待て、どういうことだ?理解が追いつかない。
なぜここにマリアがいる。
ファボリは顧客の情報を徹底して開示しない。交渉団としての任務で開示を求めるときは王の書状を持参する。それくらいでないと絶対に俺の部屋なんか知りえないのに。
レイが何かの権限を使って開示要求をしたか?いや、それにしても部屋を見つけるのが速すぎる。三百程ある部屋を一から順に探して、俺の名前を見つけたとしてもこんなに早くは辿り着かないはずだ。
―――いや、違うな。経緯の話じゃない。
俺が知りたいのは、「どんな方法で」ここにマリアがいるかよりも、「どんな意志を持って」ここにマリアがいるかだ。
「なんで、ここに…」
あまりにも驚きすぎて舌がうまく回らない。
「お嬢様と、レイのおかげで…後から説明するから聞いて!今は聞いてお願い!」
「…マリア??」
俺にしがみついているマリアが必死な声を出している。どうしたんだ。
「――――愛してるの!!!!エルグラント!!!!!」
息が止まるかと、思った。
待ってくれ、ちょっと待ってくれ。頭が付いていかない。
…マリアは、今なんと?
言葉が出ない俺の思考に答えてくれるかのように、マリアがもう一度叫ぶように声を出した。
「愛してるのエルグラント!あなたを愛してる!!…だから…お願い…っ」
マリアの肩が震えている。泣いているのか?いや、そうじゃなくて…マリアは今確かに俺のことを…
「身勝手だって…っ、わかってるの…っ、あんな…辛い、思いばかり…っ、させ、勝手…で、今更なのも…っ、わかって…」
涙声が、心に深く刺さる。
と同時に淡い期待が、心の奥底でちらりと顔を見せたのが分かる。
まさか、まさか…
「わ、…すれていい、…っ、なんて、言わないで…っ!!!お願い…っ!!」
そこまで言って、マリアは俺に向かって顔を上げた。
涙でひどく濡れた顔。髪の毛も振り乱して、化粧も落ちて。
―――でも、ああ、なんて美しくて愛おしいんだ。
「そばにいたいの!!!あなたと、これから一緒に…っ!一生ずっと…っ!死ぬまで…っ!だから…、もう一度…」
「嘘だろう?」
俺の言葉に、マリアが固まった。違う、そうだよな、お前からしたら、変な意味にとっちゃうよな、違う、違う。そういう意味じゃない。ごめんな、学がないから、語彙力がないんだ。陳腐な言葉しか出てこない。
気が付けば、空を彷徨っていた両手がマリアに回されていた。もう、怪我の痛さなんて微塵も感じなかった。涙が溢れてくる。声が震える。
「嘘だろう?マリア…こんな幸福があるのか?」
信じられない。こんな幸せなことがあっていいのか?もう絶対に二度と手に入らないと、もう無理なんだと諦めた、人生で一番欲しかったものが、今腕の中にあるなんて。そして死ぬまでそばにいたいと夢みたいなことを言ってくるだなんて。
駄目だ。止まらない。愛おしい気持ちと喜びと嬉しさと。腕に自然と力が入ってしまう。
「これから先、一生…そばにいてくれるのか?一生、そばにいても、いいのか…?」
確かめる。マリアの言葉を、間違って理解していないのかを。自分の都合のいいように解釈していないのかを。
腕の中で、マリアが小さくうなずいてくれた。
――――だめだ、こんな幸せ、経験したことねえよ。
「そっか…」
マリアを抱きしめたまま膝の力が抜けてしまい、彼女もろとも、床に膝立ちになる形で崩れ落ちてしまった。…くっそ、かっこ悪いなぁ、俺。
「そっ、かぁ……っ!!!!!」
マリアの小さな肩に顔を埋めると、涙が次から次から溢れてくる。ひどく情けない顔をしていると、自分でもわかる。歯を食いしばって耐えようとしたけれど、無理だった。大の男が、四十過ぎたいい年した男がこんな風に泣くなんて思ってもいなかった。
「愛してる…っ!愛してるマリア!!!絶対にもう離してなんか…!やんねぇからな……っ!!」
彼女がかつて離れていった時のことを思い出す。あのあとの虚無感や喪失はもう二度と味わいたくない。
今度こそ、そう、今度こそ、なにがあっても彼女を離さないと心に誓う。
ーーーーー
不意に、扉の向こうに二つの気配を感じた。サラ嬢と、レイだろうか。
いろいろ、教えてもらわねえとな。二人にも、マリアにも。
―――…そうか。もう、マリアと過ごせる時間はたくさんあるのか。
そのことが何よりうれしかった。