48.マリア、駆ける
「二度と、失わないで!!!」
お嬢様の言葉を受けて、気がつけば駆け出していた。本当に、本当にこのお嬢様には敵わない。
いつ、エルグラントの部屋番号なんか知ったのだろう。考えても考えても分かるわけがない。
後で説明する、と仰った。それならそれでいい。後で聞けばいい。
彼女がいなければ私は今こうして最後の希望に縋り付くこともできなかったのだから。今は、こちらの方を優先して考えなければ、お嬢様に失礼だ。
あぁ、もう本当に本当に…
「感謝します」
笑顔が出てしまう。まだ、エルグラントに気持ちを伝えられるかもしれないという希望に、心が躍る。私の言葉にしっかりとお嬢様が頷いてくれた。
私は、駆ける。
「ジョン、と言ったわね。八階までお願いしますね」
「はいっ!」
すぐさま隣をついてきてくれる衛兵にありがとう、と告げる。こんな個人的な理由でホテルの衛兵を使うのは気が引けるけれど、彼がいなければ八階の衛兵は私を通してくれないだろうから、仕方がない。
階段の登り口にあっという間に着き、二段飛びでそこを登っていく。隣のジョンも私に遅れないように付いてきてくれている、
ーーーーん、だけど…
「ごめんなさい、ジョン。もう少し早く走れない?」
…遅い。
階段を登るギアを上げようとしてふと隣を見ると、真っ赤な顔をして必死に付いてきているのが見えて、思わず尋ねてしまう。
「はぃっ?!」
これ以上ですか!?という彼に困ってしまう。
「いえ、いいわ、大丈夫。ならごめんなさい、せめて速度は落とさないようにだけお願いします」
「は…い…」
マジかよ、と顔に出てる衛兵のジョンに心の中でごめんねと謝る。
付き合わせているのはこっちだ。いくら気持ちや身体が急こうとも、彼のペースに合わせないのはただの私のわがままになってしまう。でも、せめて速度を落とさないくらいは頑張ってほしい。
駆ける、駆ける。はやく、はやくエルグラントの元へと。
不意にお嬢様の言葉が脳裏をよぎる。
『人生を一人に捧げなきゃいけないなんて誰が決めたの?いいのよ、人生を捧げる相手が二人いたって構わないわ』
衝撃だった。そんな道があるのかと。そんな道を許してくれるのかと、本気で思った。
お嬢様に人生を捧げておきながら、恋をすること、エルグラントを想うことは裏切りにも近い感覚だった。
でも、二人に人生を捧げるというのなら、意味合いは全く変わってくる。どれだけ二人のことを想っても許される!目から鱗とはこういうことを言うのだと本気で思った。
お嬢様にも、エルグラントにも人生を捧げる。それがどれほど素晴らしくて幸福なことか。
早く、早くエルグラントに伝えたい。あなたにも人生を捧げたいと。私の残りの時間をあなたとも共にいたいと。
駆ける。駆ける。
でも本当はとても怖い。拒絶されたら。もうこの間忘れていいと言ったじゃねえかとあの優しい声で言われたら。
そしてそれと同じくらい伝えたい。あの時の答えを。
ーーーお前の心をくれないか、と言われたときに、本当は声を大にして言いたかったの。
遂に駆けて駆けて八階のフロアに到着した。一緒に来てくれたジョンが八階の担当の衛兵に事情を伝えてくれて、どうぞ、部屋に行ってくださいと言ってくれる。
「ありがとう、ジョン。無理をさせてごめんね」
はあはあと、死にそうになっているジョンに感謝を告げて、私はまた駆け出した。部屋番号。廊下を挟んで二部屋ずつ。
一、二。そして三、四。横目に見ながら駆ける。
十一、十二……二十三、二十四。…あと少し。
二十七…………二十、八。
緊張する。本当に逃げ出してしまいたいくらい緊張する。もう一度思い出す。再会したあの日にエルグラントがくれた言葉。
ーーーもう一度、お前の心をくれないか?
応えたい。あの言葉に。
でも…と私は急に不安になる。もう、エルグラントがこの部屋を出ていっていたらどうしよう。それなら衛兵が言ってくれるだろうから可能性は低い、とは思うんだけど…。
…怖い。
扉の取手に手を掛ける。怖い、…お願い。いますように!
願いながら勢いで私は扉を押した、途端。
「うわっ!」
という声を出しながら驚いてのけぞったエルグラントの姿を目が捉えた。鞄を手に持っている。今、出るところだったんだろう。良かった…間に合ったんだわ!
安堵と嬉しさで、思わず彼の名を読んでその胸に飛び込んでぎゅうとしがみついた。
「エルグラント!!!!!」
脇腹の傷が痛んでしまったのか、私がいきなり飛び込んだことに驚いたのかはわからないけれど、エルグラントの手から鞄がすり抜けて落ちていく。
改めて、今更だけどさらに強い安堵が押し寄せてくる。良かった…まだ行ってなかった…間に合ってよかった…伝えられる…!そう思った瞬間、涙が溢れそうになる。
「間に合…っ、!よかった!よかったエルグラント!!!」
エルグラントが戸惑っているのがわかる。
「なんで、ここに…」
と問われるけれど、私だって今なんでどうしてここにいるのかわからないの。ごめんね、エルグラント。
「お嬢様と、レイのおかげで…後から説明するから」
ーーー今はそれよりも伝えなきゃいけないことがあるの。あなたを傷つけて傷つけて、頼らずにただ身勝手に離れていった女が、それでもあなたに伝えなきゃいけないことがあるの。
「聞いて、今は聞いてお願い!」
「…マリア?」
伝えなきゃ。伝えなきゃ伝えなきゃ伝えなきゃ…!!!
あの、エルグラントの言葉に応えなきゃ。もう手遅れかもしれないけど、それでも…!!
私は大きく息を吸い込む。
「――――愛してるの!!!!エルグラント!!!!!」
ーーー言えた、やっと言えた…!!!
私を胸に置いてくれているエルグラントが息を飲むのがわかる。でも、腕を回し返してはくれないのね。
すっ、とその事実に怖くなる。もう届かないかもしれない。でも、それでも…!
「愛してるのエルグラント!あなたを愛してる!!…だから…お願い…っ」
涙が堪えられなくなる。最後まできちんと言わなきゃいけないのに。隠してた感情が、隠さなきゃいけないと思っていた感情が、隠さなくてもいいとなった途端に馬鹿みたいに溢れてくる。
「身勝手だって…っ、わかってるの…っ、あんな…辛い、思いばかり…っ、させ、勝手…で、今更なのも…っ、わかって…」
我ながら本当に最低だと思う。でも、それでも…っ!
「わ、…すれていい、…っ、なんて、言わないで…っ!!!お願い…っ!!」
忘れていい、と言われた時のつま先まで血の気が引く感覚を思い出す。あんな悲しい別れの言葉、知らない。
別れたくない。もう離れたくないの。お嬢様から、あなたに人生を捧げる、その道を選んでもいいと言われたの。
「そばにいたいの!!!あなたと、これから一緒に…っ!一生ずっと…っ!死ぬまで…っ!だから…、もう一度…」
そう言って顔を上げる。言いたいことは沢山あったはずなのに。涙で濡れすぎて、涙が溢れすぎて、感情のままにめちゃくちゃ言ってるこの言葉が通じてるのかすらわからない。
お願い、何か言ってエルグラント。なんでずっと黙ってるの。
「嘘だろう?」
ーーー世界が、止まる感覚がした。目の前の彼の言葉に。
血の気がみるみる引いていくのがわかる。
瞬時に理解した。もう、遅いんだと。手紙に確かにに愛している。と書いてくれていた。でも、エルグラントは、もう違う方向を向いているのだと。
震えが足から上がってくる。だけど、エルグラントの表情に私は目を丸くしてしまう。
ーーーー彼が、泣いている。
そうして、そっと私は抱き込められた。彼の太くて逞しい腕が背中に回される。
「嘘だろう?マリア…」
嘘?嘘って何…?言いたいのに言葉が出ない。
「こんな幸福があるのか?」
再び目が開くのが自分でわかる。わかるけど、それよりも何よりも、エルグラントの肯定とも取れる言葉に私は心が震えるのを感じる。
そして、彼の腕がさらに力を込めて私を抱きしめてくる。
ーーーーあぁ、なんて安心するの。なんでこんなにいつもいつも温かいの。
涙が止まらない。次から次から溢れてくる。
「これから先、一生…そばにいてくれるのか?一生、そばにいても、いいのか…?」
…伝わってる…。
ほっとしてしまって力が抜けて崩れ落ちそうになるのを必死に堪えて、私はその腕の中で小さく頷く。
「そっか…」
そっか…って、なによ。なんで人の一世一代の告白にそんな反応なの。
文句を言いたいのに声がもう出ない。ひたすらひたすら、嗚咽する。がくん!と落ちる感覚がして、気がつくと私はエルグラントと共に床に膝をつく格好で崩れ落ちていた。
「そっ、かぁ……っ!!!!!」
エルグラントが、激しく泣き出す。涙を肩に感じて、私もつられてまた泣いてしまう。だから、そっかぁ、てなによ、そっかぁって…もっと他に言うことあるでしょう??
でもだめ、もう私も声を出せる気がしない。涙しか出ない。喉からはしゃくりあげる音しか出てこないの。
「愛してる…っ!」
不意にエルグラントが言い放った。
「愛してるマリア!!!絶対にもう離してなんか…!やんねぇからな……っ!!」
うん…うん。ありがとうエル。
ーーーー私も、もう二度と離れない。