37.それでもダメなの
どれくらいそうしていただろう。私は彼の腕の中でただひたすらに抱きしめてもらえる幸せを享受していた。
と、同時にどうしようもないほどの後悔と自分への侮蔑の感情に溺れそうになっていた。まさかこんな単純なことに十四年経ってから気付くなんて思わなかった。
『誰が咎めるんだ?誰が咎める!思いつくなら言ってみろ!!!お前の勝手な思い込みで話を進めるな!』
ーーーああなんてこと…落ち着いて考えていれば、そんなこと分かっていたはずなのに。
仮に退団してエルグラントと結婚したときのことを想定したときに、私は祝福されるよりも、おそらく軽蔑されるだろうと信じて疑わなかった。
『私に付いてこい!!!』
そう高らかに宣言しておいて、今更好きな人ができましたから退団します。だなんてムシが良すぎると、本気で思っていたのだ。
今思えば完全に冷静さを失っていたとしか言いようがない。
『誰が咎める!?思いつくなら言ってみろ!!!』
ーーーーごめんなさい、誰も思いつかない。
本当にエルグラントの言った通り勝手に思い込んでただけなんだわ、と思い知らされる。
きっと皆心から祝福してくれた。辞めたとしても団長と副団長が夫婦だなんて最高じゃないですか!と、絶対に大喜びしてくれる人間ばかりだったのに。
それに、エルグラントのことも。
『求めてたんなら俺に言えよ!俺はお前のなんだったんだよ!ふざけるなよ!本当にふざけるな!勝手に話を進めるなよ!』
もう正論過ぎて言葉が出ない。一人で思考の暗い暗い暗闇に迷い込んで出口が見えなくなって、おそらく私は考えることを放棄したのだ。
エルグラントとの未来を望んでしまった。ただ望むだけじゃない。団長としての立場を捨ててさえも、それを望みたいと思ってしまった。そしてそれは当時の私にとってしてはいけないことだった。だって私は団長だったから。責任ある立場だったから。そんなことをエルグラントに言えるわけがないと私は思っていた。『自分のせいでマリアは団長の道を自ら外れた』そんな思いを微塵もさせたくなかった。
―――それすら私の勝手な思い込みだったのだ。
あの頃は常に頭の中で三人の私が囁いていた。
『皆に嫌われてでもいいから、エルグラントと一緒になっちゃえばいいよ』
『団長のくせにここで放り出すの?あれだけ他人を焚き付けておいて?そんなふうに責任を投げ捨ててエルグラントと添い遂げて、あなたは満足?』
『そもそも団長としての立場を捨てても良いとか思う時点で、団長やってる資格あるの?』
無限ループだった。そうして私は逃げたのだ。問題に向き合うことなく。これがきっと全てに最善になると信じて疑わないまま。
「ごめんなさい…エルグラント…私が、本当に、…っ!本当に浅はかだったの」
簡単な話だったのに。団員と、何よりエルグラントとたくさんたくさん話をして頼って相談して、道を作り出せばよかっただけなのに。
勝手にいろいろ思い悩んで周りに迷惑をかけ、すべてを失い途方に暮れた、愚かな二十六歳の女だったのだと思い知らされる。
「頼れよ、バカ」
ぎゅうう、と抱き締めてくれるエルグラントにほっとする。大好き。この腕の中が大好き。
「…二十六歳だ。普通の二十六歳ならともかく、お前は十六で俺と一緒に騎士団に入った。色恋を経験することもなかったはずだ。…俺の力不足だ。きっと、俺にもっと力があればお前は頼ってくれてたはずだから」
「違…っ!」
「違わない。間違いなく、二十六歳のとき、全てにおいて俺はマリアに劣っていた。…頼られなくて当然だよな」
「やめて!あなたは悪くないわエルグラント!!そんな言い方はやめて…」
涙が止まらない。いつだってこの人はこう。私が悪くても、どれだけ喧嘩しても「俺も悪かったから」とにかっと笑って大きな愛情で包み込んでくれる。
「だけどな、今は違う」
そう言ってエルグラントは私からそっと身体を離した。
「今の俺はマリアの前に堂々と立てる。強さも、知識もきっと、この十四年の間にお前が頼れる男になってるという自負がある。今なら、お前の不安全てを取り払って幸せにしてやれる、マリア」
次に来る言葉がわかってしまって、私は身構える。
「愛してる。あの時言っただろう?未来永劫、何があってもマリアを愛しぬくと。あの言葉に嘘偽りはない、だからどうか」
だめ、それ以上言わないで、もうあなたを傷つけることをしたくない。
「…もう一度、俺に心をくれないか?」
そういってエルグラントは私の頬に手を添えてきた。大きな手。優しい茶色の瞳。いつも笑っていて豪快で、ときたま心臓がうるさく高鳴るほどの男性の凛々しい顔を見せる人。嘘がなくて、素晴らしく素直で実直で、とにかく曲がったことが嫌いで。
――――そんなあなたをもう、傷つけたくないのに。
「私は…っ、」
声を絞り出すけど涙でうまくしゃべれない。
「…ダメなの…もうっ、決めたの。一生を、お嬢様に捧げるって」
「…結婚している侍女などいくらでもいるじゃないか」
エルグラントは言ってくる、そう、それももっともだ。でも。
「私は、あなたへの恋に勝手に溺れて、交渉団を、途中で放棄した人間だから。…もう二度と、逃げないって決めたの。もう、お嬢様に仕えているうちは恋に身を焦がすことも、結婚もしないって決めたの」
『あと、私はお嬢様に残りの一生を捧げると決めているので。恋人とか結婚とかもういいです』
―――お嬢様にああ宣言したのはいつのことだったか。軽く言ったように見えていたかもしれないが、心からの本音だった。
「そうか…」
エルグラントが消沈したような声を出す。
ごめんなさい。エルグラント。本当に私はあなたの人生を振り回してばっかで、ほんとーーーー
「マリア、お前何歳まで侍女をやる?」
「へっ??」
素っ頓狂な声が出た。いきなり何を言い出すの?
「ほら答えろ。何歳までだ」
「ええと、…は、働けなくなるまで?」
私の言葉にエルグラントは頷いた。
「働けなくなるまで、だな。わかった」
ーーーなにが?
あまりにも目の前の男性が不可思議な言葉を発するものだから混乱が隠せない。
「なら、それまで待っておく」
「は?」
何も考えず言葉が出る。いきなり何を言うの?
「待ってる、って?」
「言葉通りの意味だ。マリアが職を辞するその日まで、お前が心をくれるのを待ってる」
ーーー待って、この人は本当に何を言っているの?
「だめ。そんなの待ってたらおじいちゃんになっちゃう。まだあなたは若いわ。歳下の伴侶を迎え入れば子どもだってまだまだもうけられる。私のことなんて待ってちゃだめよ!」
「いらねえよ。お前じゃないと意味がない」
「ダメだってば!」
もうこれ以上振り回したくないのに。もう、これ以上つらい思いをさせたくないのに。
「俺が待つ分には別に迷惑掛けねえじゃねえか」
「それでも、ダメなの。あなたのこれからの貴重な人生、そんな無駄なことに使っちゃダメ!」
「無駄なもんか!!!!!」
再びエルグラントの大声が響く。
「やっと、やっとやっとやっとやっと!見つけたんだ!!!わかるか?いきなり最愛の人間がいなくなった人間の気持ちが。わかるか?いつもの団長室に行くと、いたはずのお前が見えない空虚感が。わかるか?意味もわからず置いていかれ、そこから一歩も踏み出せない男の気持ちが。わかるか?どれだけ探しても見つけられず、生死もわからない状態を耐えなきゃいけない気持ちがわかるか?わかってんのかよ!!!!俺が!!!どれだけお前を愛して!どれだけ必要としてるのか!!!!」
エルグラントが泣いている。必死に私に呼びかけて、泣いている。応えたい。それに応えたい。
…でも、できない。決めたから。私は一生を別の人に捧げるって決めちゃったから。今度また責任を放棄して逃げるようなことがあったら、きっと私は私自身を心から憎んでしまうから。
「頼むから…待つのを許すくらいは、勘弁してくれ…」
目の前の大男が、聞き取れぬほどの声で嘆願する。
だけど、返事はできなかった。