35.マリアとエルグラントの過去【後編】
それから三年が経った。
マリアは外交を終え、シャロンの元に報告に向かっていた。
「交渉団団長マリアンヌ・ホークハルトが参りました。女王陛下に謁見の許可を」
マリアは玉間の扉の前にいる衛兵に告げる。衛兵が取り次ぎ、中から「入りなさい」という威厳に満ちた声が聞こえる。
衛兵に開けられた扉を通り顔を上げぬまま玉座の数メートル先で歩みを止め、マリアはそのまま跪いた。
「交渉団団長マリアンヌ・ホークハルトにございます。女王陛下にはご機嫌…」
まだ言葉を続けているうちに、後ろに立つ衛兵、シャロンの側にいる護衛が自分を通り過ぎ、部屋の外に出ていった感覚に気付いたマリアは笑いを堪えきれない。
「…っ!人払い遅いわよ!いつまで続けなきゃなんないのかと思っちゃったわ!!」
「ほんとここまで来ると茶番だわよね!お帰りマリア!任務ご苦労様!」
そう言ってシャロンがマリアに向かって手を広げる。
「ありがとーーー!」
その動作にマリアも即座に立ち上がり、大好きな親友に抱きついた。と、そのとき。
「まりあー!おかえりー!」
ぎゅうっと右足にしがみついてくる感覚に気付き、マリアは顔を綻ばせる。
「ただいま!アース。いい子にしてた?」
「してたよ!あのね、あのね。きょうね、かあさまとおちゃのんでね、クッキーがおいしくてね、それでかあさまがね、いいっていったからね、きょうはデイブにいさ…んむっ!」
「もう、アースは少し黙っていなさい!」
そう言ってシャロンはアースの口を塞いだ。
「デイヴィスは…やはり…?」
マリアの問いかけに、シャロンは静かに首を横に振る。シャロンが不戦の誓いを近隣諸国と交わしたしばらく後、彼女の弟のデイヴィスが突然病の床に伏したのだ。もう回復の見込みはないと言われて実質上の薨去とされてから三年が経とうとしていた。
「そっか…」
「…ごめんね、マリア」
「?なんで謝るのよ!こちらこそごめんね、軽率に聞いてしまって。辛いのはそっちなのに。…奇跡を信じているわ」
うん、とシャロンは言い、ところでと話題を変えた。
「貴方に見合いの話が来てるのだけれども」
「見合い?!」
マリアは素っ頓狂な声を出した。
「ふふふ、カークランドの」
「うげ、まさか」
「そう、そのまさかのリックス王太子からの!」
「やめてよぉぉぉーーーー」
シャロンの持ってきた見合い相手にマリアは肩を落とす。
「あいつマジで私が任務中だってのにしつこくお茶に誘ってくるわデートしましょうだわ貴殿が望むのならあなたを貴族の養女として迎え入れ、私の伴侶となる栄誉を与えましょうとかほんっとうるさいんだけど」
はぁぁぁ、と長い溜息を吐きながらマリアは言った。貴族などの階級や王族の伴侶などに興味など露程もない。
「あら、隣国の王太子と国家最高機関の女性団長の恋だなんて国中が歓喜しそうだけど?」
シャロンがころころと笑う。
「物件としては最高なんだけどな。地位も権力もあっておまけにイケメン」
「やめてよシャロン…私は退団したらのんびり暮らすんだから。なんでわざわざ茨の道を歩かなきゃなんないの」
「それに退団しても一生面倒見てくれる人はいるものねぇ?」
シャロンがニヤニヤしながらマリアを見て言う
「んなっ!!今ここでその話題出す!?」
真っ赤になったマリアが叫ぶ。三年前にエルグラントから言われた言葉はどうしてもマリア一人で抱えきれなくて、シャロンにだけは話していたのだった。
「あれから何も進展はないの?」
「…ないの。でも、たぶん、もし好意を持ってくれているのなら、待ってくれてるんだとはおもう。本当にこの三年間体制を整えるために忙しかったから。でも最近やっと交渉団としても落ち着いてきたし、皆の仕事ぷりも板についてきたわ。…今では少し考える余裕はできたけれど、正直恋愛や結婚なんて考えられなかったから」
「マリアは」
不意にシャロンが言葉を放つ。
「結婚しても交渉団長としてありつづけるの?やっていけるの?」
結婚て!とまた頬を赤らめながらもマリアは頷く。
「か、仮によ?仮に結婚しても続けられる限りは続けるつもりよ。両立したいと思ってる。まだまだ団長の座は譲れないわ。とても誇りを持っているの。結婚や恋愛したからと言って仕事の手を緩めたり腑抜けになることは絶対にないわ」
「…そう…そうね、きっとあなたならできるわ」
含みのあるシャロンの返事にマリアは首を傾げた。
――――――
「マリア、少しいいか?一杯付き合わねえ?」
それはシャロンとマリアが話をした数日後のことだった。どうしても仕上げなければならない仕事の為、夜遅くまでマリアは団長室に残って書類整理をしていた。
入口のほうから聞き慣れた声がして顔を上げると、エールの酒瓶を片手に三本ほど持ってエルグラントがにかっと笑いながら立っていた。それを目が捕らえた途端、マリアは満面の笑みを浮かべ、もちろん!と返した。
「終わりそうか?」
「あとちょいかしらね。準備して待ってて」
「おう」
軽く返事をしながらエルグラントは団長室の備品棚からグラスを取り出し、皿を取り出す。常備してあるマリアのおつまみ棚からシカの干し肉と乾燥豆を取り出し皿の上に並べる。
勝手知ったりのマリアの部屋でこうやって飲むことは一度や二度ではない。どこに何があるか何を置いているか何が足りないか今ではマリアよりエルグラントの方が知っていることがある。
エルグラントがテーブルにそれらを並べだした頃に作業が終わったマリアも、んんーーー!と大きな背伸びをした。
書類仕事を終わらせた執務机から離れてソファにエルグラントと向かい合う形で座る。
途端エルグラントが注いでくれていた酒が目の前にあるのを見て、マリアはそれを手に取って一気にあおった。飲み切ってどんっと音を鳴らせてテーブルの上にジョッキを置き、ぷはーっと女性らしからぬ声を上げる彼女にエルグラントは思わず笑ってしまう。
「お前なあ、いただきますくらい言えよ」
「喉からからだったのよ。はい、エルグラントも」
酒瓶をエルグラントに傾けると彼も今入っている酒を飲み干し、マリアへとグラスを傾けた。とくとくとく、という小気味いい音とともにグラスに酒が注がれていく。
「これとっても美味しいわね!どこのエール?」
「北のクーリニアだ。昨日まで行ってきた。アルプスの山々から下ってくる水がこれだけうまいエールを作り出すんだと」
「あなたエールには目がないものね」
マリアが言うと、おう、とエルグラントは返す。
「お前も蒸留酒とか強いのばっかりじゃなくてエールとかを軽く飲んで終わらせる日を作ったほうがいいぞ」
「余計なお世話だわ」
軽口を言い合ううちに三本あったエールなど一瞬でなくなってしまう。
「うわ、早いな!!さすがマリア、えげつないなぁ」
にかっと笑ってエルグランドが言いながら立ち上がった。次何飲む?と言いながら団長室の備品棚を開ける。マリアの秘蔵酒がたくさん置いてあるところだ。
「一番左上のウイスキー。最近それにはまってるのよ」
「おう」
エルグラントはマリアに言われたそれを取り出す。グラスは変えるか?と聞くと、マリアからそのままでいいという返事が返ってくる。
「ほらよ」
エルグラントがソファに戻り、マリアに向かってウイスキーの瓶を傾ける。とろりとした琥珀色の液体がグラスへと注がれていく。
「…仕事がだいぶ落ち着いてきたな」
自分のグラスにも同様にウイスキーを注ぎながらエルグラントが口を開く。
「そうね…無我夢中の三年間だったけれど、なんとか形になってよかった。団員達も皆すごく頑張ってくれた。おかげで誰一人職を失わずに済んだわ」
「お前のおかげだろ」
「あなたのおかげでもあるわ」
ありがとう、とマリアが言うと少し照れたように笑ってエルグラントがおう、と返す。
「…責任を取るようなことにならなくて本当に良かった。あなたはもうこの国になくてはならない存在よ」
マリアは思い出す。三年前団員の生活を守るためなら辞職も辞さないと言い切ったエルグラントのことを。あれから彼は副団長となり、もはやこの国に必須な人材だ。
「…俺としては責任取ってよかったんだが」
不意にエルグラントの低く重厚な声が部屋に響き、マリアはぴくりと肩を震わせた。エルグラントを見ると、その茶色の目が強い眼光を放ってマリアの目を見ていた。
「三年、死ぬ思いで待った。頃合いかと思ってな」
ゆらり、とエルグラントが立ちあがった。そのままテーブルを迂回し、マリアの横に来ると、彼女の足元に跪いた。
「エル…グラント」
彼の大きな手がマリアの空いているほうの手に重ねられる。鍛錬を怠らない、ごわごわしたひどく温かい手。
その手がそっとマリアの手を持ち上げ、エルグラントの口元に引き寄せられた。
――――そっと、手の甲に口づけが落とされる。
マリアの心臓がどくんと跳ねた。途端に眉は垂れ、頬は赤く紅潮し、目が潤んでしまう。
今の彼女の姿に「団長」の威厳もなにもない。一瞬で一人のただの女性になってしまう。こんな情けなくてかわいらしいマリアの姿を団員の誰が想像できるだろう。
「…愛してる。愛してる、マリア。俺は俺のすべてをお前に捧げる。未来永劫何があってもマリアを愛しぬくと誓う。だから…」
マリアの瞳が潤む。全く望んでいなかったわけでもない。だがこのまま仕事一本で生きていくことも覚悟をしていた。自分の人生には恋愛や結婚など不要だと切り捨てることも簡単だった。
だが、今目の前の男の言葉に確かにマリアは感じていた。
喜びと愛おしさと、
何より密かにずっと想いを寄せていた男からの愛の言葉に嬉しさを。
「お前の心を俺にくれないか?」
―――は、い。と告げた言葉はひどくひどく小さく、でもはっきりと発せられた。