27.5.おうちの中でお引越し【レイ目線】
「父さま、母さま、姉さま、おやすみなさい」
「おやすみ…レイ、いい夢を」
ねえ、なんでそんな悲しそうなの?
姉さまからあたらしいお名前をもらったけど、それでももう前みたいにデイブとはよんでくれないの?
ねえ、なんで姉さまは目になみだがあるの?
ねえ、なんでぼくは好きなときにここにきちゃいけないの?
ねえ、なんで、ぼくはまいにち、こそこそかくれながらここのかくしべやにこなきゃならないの?
ねえ、なんでよるの少しのあいだしかここにいられないの?
ねえ、なんで、みんなはおんなじおうちに寝てるのにぼくだけちがうところで眠らなきゃなんないの?
たしかにまえもひとりでねてたけど、父さまのいびきとか、母さまとわらいあってる声が遠くにきこえたりしてたんだ。そのたび、やさしいきもちになってぐっすり眠れてたんだ。
ねえ、なんで?ぼくはこんなに………
――――――――
「あの、どうしようもない寂しさを思い出すんです」
言葉を紡いだ後、胸の奥がちくん、と疼いた。まただ。あの頃のことを思い出すとなんだかどうしようもない気持ちに駆られる。もうあれから十数年経ったというのに。
なんだか、どういう表情をすればいいのか全く分からず、目の前の二人に向かって笑みを浮かべてしまう。
「マリア!」
「はい」
不意に大きな声を出してサラ様がマリア殿に呼びかけた。それに応じたマリア殿の声がなんだかすべてをわかっているような響きを持っていて俺は驚いてしまう。
「ど、どうなさったんですか?」
だが俺の問いかけにサラ様もマリア殿も答えず立ち上がった。
「レイ、ちょっとあなたの部屋にお邪魔するわね」
「!???」
何をいきなり言っているんだこの令嬢は。なぜ今の流れからそうなる。俺の困惑など関係ないといった表情で平然と踵を翻し、サラ様は俺の部屋へ向かって歩き出した。
「えっ、ちょっ、サラ様!?」
慌てて俺も立ち上がり後を付いていく。駄目だ、何を考えているのかがわからない。この令嬢のすることは予測がつかない。エドワード義兄さんに護衛の任を任されたときに「並みの人間じゃあの令嬢には付いていけないだろうよ」と言われたのを思い出す。
―――すいません義兄さん、俺でもときどき無理です。
謎の謝罪を脳内で義兄に向かって投げかける。
部屋に着き、サラ様が扉を乱暴に開ける。バァンという音が響き、俺の部屋の中が見える。
なんだか少し恥ずかしく思う。見られてまずいものなどはないが。
俺の部屋の荷物の少なさを指摘された後に、また目の前の令嬢は理解不能なことを言い出した。
「マリアとレイはベッドを持って!私は鞄を持つわ」
?????????
もう駄目だ、また理解が追い付かない。本当にこの令嬢とともに過ごしてから俺はボケてしまったのではないかと思うくらい脳が働かない。動かない。
そして目の前の二人が何やら言い合って、それで気が付けば俺は自分の鞄を持たされていた。
「部屋はどこになさいますか?」
マリア殿の声に、どこかに飛んでいた俺の意識が急に引き戻される。
「私の隣の部屋にしましょう」
「ちょ、ちょっと待ってください。なんの話をなさっているんですか?」
なんとなくここまで会話が進めばいくら俺でも目の前の二人がしようとしていることがわかってくる。それでも確認をせざるを得なかった。
だが、華麗に無視される。
「サラ様、説明してください、これは一体」
どういうつもりですか。未婚の女性の部屋の隣に男の部屋を置くなど何を考えているんですか。
ゼロ距離令嬢だとはわかっていたが、ここまで来ると浅はかとしか言いようがない。
だが、サラ様は俺の手を取り言った。
「話は荷物を動かしてからよ!行くわよ!」
そのままサラ様に引っ張られて歩く。力なんて全然ない。小さくてその細い手を振りほどいて「行きません、何を考えているんですか」と叱責すればいいだけの話だ。なのに振りほどけない。どうしても振りほどけない。
引っ張られているのか、自分の意志で歩いているのかわからないまま後ろから、その小さな体を見る。まだまだ淑女というには幼い。
なのに、有無を言わせないこの威圧感はなんなのだろう。逆らってはいけないと本能が言う。
すぐにサラ様の隣の部屋に到着する。中に入るともうマリア殿によってベッドが据えられていた。
…なんとなくは判る。おそらく彼女たちがこういう行動に出たのは俺の先ほどの話が原因なのだろう。あの部屋に帰るのは寂しいだろうという判断をしてくださったんだろう。
だが、俺ももう子どもじゃない。とっくに成人した大人だ。寂しいわけがない。きちんと説明しようとしたら、また手をつないだままの令嬢がおかしなことを言い出した。
「ねえ、レイ、ベッドに寝てもいい?」
もう開いた口が塞がらないレベルの話じゃない。
だがそんなセリフはまるで、まるで…!途端に顔が熱くなるのが自分でもわかった。
「なっ…にを」
「レイも、マリアも一緒に寝ましょうっ!」
――――俺もかよ!!!!!?????
途端にカクン、と肩が動き、俺は再びサラ様に引っ張られる。だめだ、抵抗する力も残ってない。もう、どうにかしてほしい。マリア殿も共に寝るとか駄目だ全く意味が分からない。
―――そうだ、マリア殿!
助けを求めようとマリア殿を見ると涼しい顔をして俺たちを見守っている。なんで今日に限ってマリア殿は素知らぬ顔しているんだ!!
そのままボスン、と音を鳴らして、俺はサラ様と共にベッドに倒れ込んだ。
もう訳がわからない。マリア殿になんかシューズを脱がされているが、なんだこの間抜けな構図は。
頭上に気配がして、ふと上を向くと、マリア殿が腰かけたところだった。とりあえず彼女まで共に横にならないことにほっとすると、だんだんと頭が冷えてきた。
ちょっと不用心すぎやしないか。俺をここの部屋に連れてくることも、一つのベッドに共に寝ることも。少し声に怒りが含まれるのが自分でもわかる。
「サラ様、説明してください」
「だって寂しいって言ってたじゃない」
予想通りの答えが返ってくる。聡明な令嬢ではあるが、やはりこういう安直な考え方をするのは十六歳の令嬢だと思う。ここはやはりきちんと修正しておかなければならない。
「寂しさを思い出すと言っただけで、もう寂しくはないですよ…」
ため息が出る。一体何歳だと思われているんだ俺は。それに、この令嬢の不用心さもちょっとこれを機に説かせてもらおう。
「とにかく、未婚の女性の…」
そう説教を始めて、彼女への気遣いの礼で閉じ…る前に言葉を止められた。
「ねえ。レイは私が寂しいと、寂しい?」
いきなりなんですか。俺の話聞いてたんですか?そう言いたいのをぐっとこらえて返事をする。
「それは…勿論です」
「どのくらい寂しい?」
何の話だろうか。よくは判らないが、どのくらい寂しいと言われたら…
「…とても、寂しいです」
彼女にはいつも朗らかに笑っていてほしい。そんな彼女が何らかの寂しさを抱えていたらおそらく俺もとても憂鬱な気分になるんだろう。
そんなことを目の前の令嬢を見ながらぼんやりと考える。美しい令嬢だ。あと二年もすればすっかり大人びてくるんだろう。こんな風に毎晩彼女が横になる姿を見れる伴侶は心から幸せ者だ。
「…そうね、実は黙ってたんだけど、私が家族と離れたことが寂しくて毎晩毎晩泣いて辛くて死にそうになってるってあなた知ってた?」
全く別のことを考えていた俺は頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。
「…そう、だったんですか?」
嘘だろう?あんなに毎日朗らかに笑顔を見せてくれていたのに?もう国を出てからひと月も経っているのに。そのあいだ…ずっと…?寂しい思いを?
そう思ったら、胸を刺されたような痛みが走った。辛い、そんなのは…
気づいたら空だったほうの手が伸びていた。
「…そんなの耐えられません。毎晩あなたが寝付くまでそばにいて抱きしめて髪を撫でて少しでも寂しさを和らげてあげたい。寂しい思いなんかさせたくないのに…そんなあなたを見るのも身を切られるより辛い…」
だめだ、胸が張り裂けそうだ。さっき簡単にとても寂しい、などと答えたことを後悔する。
「なんで早く言ってくれなかったんですか。甘えてくださいといったじゃないですか…!」
自分でも泣きそうな声になっていると思ったが止まらなかった。
だが。
「ご、ごめんね。レイ。その、これはちょっと例えというか、冗談よ。大丈夫。私が寂しい思いをしてる時のレイの感情を聞きたかっただけなの。ごめんなさい、もう寂しいわけではないわ」
その後に返されたサラ様の言葉に俺は心の底から安堵した。
よかった。彼女が寂しさを抱えているのは本当につらい。ふと、なぜいきなりこういう会話をされたのだろう、と考える。
そして着地点を見つけた。
――――おそらく、俺が寂しいのを見ると、サラ様も寂しいのだと伝えたいのだろう。
マリア殿のことも、俺のことも、自惚れでもなく信頼して好いてくださっていることは判っている。そんな俺が寂しさを感じると、サラ様がどういう気分になるか立場を置き換えて教えてくださったのだろう。本当に優しい方だと思う。
でも何回も言うが、俺はあのとき寂しく感じていたことを思い出しただけで、『今』寂しいわけではない。だからそんなに心配してくださらなくても大丈夫なのに。
そのことを伝え、やはり未婚の女性が、ともう一度叱ろうとしたら、サラ様は再び俺の言葉を切ってしまわれた。
「未婚だかみかんだかどうでもいいけれど、寂しさを思い出すとき、レイの心はウキウキしているの?」
ウッ…?!ウキウキ…は、確かにしていないが…
なんとなく面白くない気持ちになって言葉を返す。
「私も違うわ。寂しさを思い出すととっても寂しくなる。嬉しいことを思い出すと、心が嬉しくなる」
ドキリ、とした。なんだか、開けられたくないところを開けられるような。なんだか見ては欲しくないものを見られるようなそんな気分になる。やめてくれ、という気持ちと、その先の言葉をなぜか望んでしまう自分がいる。
「だから、レイが寂しさを思い出すとき、それはあなたが今その瞬間に『寂しい』と感じてるということだわ」
パン!と何か弾けるような衝撃がした。
目がどんどん開かれていくのが自分でもわかる。
そうだったのか?…俺は。本当に「寂しい」と?そんなわけがない。もう大人だろう。馬鹿な。
脳が否定するのに、「寂しい」という言葉がやけに腑に落ちてしまう。
いまだにあの時のことを思い出すときに沸き起こる感情。なぜかちくんと痛む胸の奥。
…寂しさ。
ぶわりと鳥肌が立った。
一度認識してしまうともう駄目だった。次から次からあの頃の記憶と寂しいという感情が溢れてくる。まるで蛇口の栓をひねったように溢れてくる。止まらない。
なぜあの時渡り廊下で立ち止まってしまったのか。ただ単に似ているな、と思い出しただけだと思っていた。でも違った、あの扉を見た瞬間に心の奥底から思っていたのだ。
寂しい、いやだ、あそこに行きたくない、と。
心が確かに叫んだのだ。
でも気づかないふりをした。大人なんだからと体のいい言い訳で。
唐突に理解してしまった。もう寂しいわけではない、と勝手にあの時から消化しきれていない感情にふたをしていただけだと。本当はずっとずっとずっとずっと大人になってもあの時のことが寂しくて寂しくてたまらなかったのだと。
呆然とする俺に、サラ様の優しい声が下りてくる。
「さっき言ってくれたわね。私が寂しいのは身を切られるより辛いと。早く言ってくれと。寂しい思いをさせたくない、と」
確かに言いました。そう言いたいのに言葉が出てこない。
「……私に寂しい思いをさせたくないならあなたが寂しい思いをしちゃだめ。あなたが寂しいと、私がとてつもなく寂しい思いをするのだから」
また、この令嬢は。
予想の言葉の斜めうえをいつもくれる。
俺が寂しいのを見て、サラ様が悲しんでしまうなら俺は絶対に寂しい思いをしちゃだめじゃないか。
俺は絶対にサラ様の寂しい顔なんか見たくないんだから。
「わがままな令嬢でごめんね」
サラ様が言って俺は首を横に振る。これほどまでに人のことしか考えてない優しいわがまま、聞いたことがない。
そしてサラ様は言葉を続けた。
「あなたがあの渡り廊下の離れを見て少しでも寂しさを思い出すなら、あの部屋は二度と使っちゃダメ」
――――ほんとうに?ほんとうにつかわないでいいの?
不意に、五歳の俺の声が聞こえた気がした。
寂しく思うことを甘やかに禁じただけではなく、本当に寂しさを感じないように目の前の令嬢は優しく手を伸ばしてくれる。
――――じゃあぼくは、ぼくはどこにいけばいいの?
また、五歳の俺の声が聞こえる。
「あなたの部屋は、ここ。私の部屋の隣よ」
――――ほんとうに、ここにいていいの?
ぽた、と目から涙が溢れる。自分じゃない誰かが泣いているようなその感覚に俺自身がとても驚いた。
「え…俺…なん…」
いまだ感情が追い付かない俺にサラ様がさらに優しく声を掛け続けてくれる。
―――ずっと辛い思いをしたんでしょう。
―――ほんとうにつらかったんだよ。でもみんなやさしかったし、たのしいこともあったんだよ。
―――楽しい思い出もあったと言い聞かせて。それも本当だわ。でも、五歳の男の子が同じ敷地内でも家族と離れて暮らすだなんて、耐えられるはずがないのよ。
―――そうなの?たえられないっておもうことははずかしいことじゃないの?
―――寂しくて寂しくて死ぬほど辛くて毎晩泣きたかったはずだわ。
―――なきたかったよ。でもないちゃったら、じじょからお姉さまにばれちゃうから。ばれちゃったら、お姉さまほんとうにつらそうになくんだ。
―――いいの。泣いていいの。泣き喚いていいの。あなたはそれをしていいの。
―――いいの?本当に?ぼくないてもいいの?おねえさまこまっちゃうよ?ないてもいいの?
「…我慢しなくていいの」
その夜、俺は体が震えるほど泣いた。サラ様の腕の中で。
五歳の、俺を抱えて。