171.浅知恵たるやかくも愚かなものか
肩をはだけさせたアデライド様がレイのいた部屋から出て来たのと、控えていた衛兵が慌てて彼女に駆け寄るのと、私たちがその階に上がったのは同時だった。
「どうなさいました!?」
「私…ただ、王弟殿下に…っ、ご挨拶をと思っただけなのです…っ!」
慌てる衛兵にアデライド様が目にたくさんの涙を浮かべて必死に訴えている。
だけど、衛兵もどうにも動けない。おろおろとするばかりだ。
―――まぁ、当たり前の反応ね。
この国の王族が右と言えば右になる。公爵家の令嬢を手籠めにしたいと思えば、それは可能になる。悲しいけど、権力というのはそういうものだ。
衛兵にとってより仕えるべき相手は公爵令嬢のアデライド様ではなく、王族であるレイ。こういう場合は、レイから指示がない限り人を呼んだり騒ぎ立てたりしてはいけない。
ただ、厄介なことに、長い廊下の向こう側にちらほらと人影が見える。おそらく晩餐会まで待機していた上位貴族の人間だろう。騒ぎを聞きつけて部屋から出てきたのだろう。私は溜め息を吐きたくなる。これほどまでに大ごとにしてどう収拾をつけるつもりなのかしら。
「…お嬢様。これは一体…」
背後からマリアがこそこそと私に耳打ちをする。
「…まぁ、アデライド様がどう動くか見てなさい。まだ私が動くには早いわ」
そう言ってマリアを制す。
「―――私が何をしたと仰るのです?」
不意に凛、とした声が廊下に響き渡った。レイが、その瞳にこれ以上ない軽蔑と怒りの炎を灯して部屋から出て来た。
「…私の口からはとても…」
アデライド様が口元に手を当ててわざとらしく嘆いて見せる。
「…おいおい、これじゃあまるで。この場面だけ見たらレイがアデライド嬢を襲ったみたいじゃねえか…」
エルグラントが青い顔をして言う。私はそっと頷いた。
「おそらく彼女の狙いは最初からこれよ。この場面を見せてしまえば真偽はどうであれ、貴族社会に噂がぶわっと立つわ。公爵令嬢アデライド・ルーカスはレイモンド殿下の御手付きってね」
「おい…っ…嬢!それは…っ」
エルグラントが慌てるのを笑顔で返す。
「大丈夫よ、エルグラント。まぁ、見てて」
私は不敵に笑って見せる。
「こんな浅い策。私が手を打ってないとでも?」
私の表情を見てきょとんとしていたエルグラントだったが、やがてその固い表情を一気に解いて、くっくっくっと声を殺して笑いだした。
「…久しぶりだな、この感覚。相変わらず、怖ぇなぁ、嬢は」
「ま、私たちはしばらく静観しておきましょう」
私はそう言って再びレイ達の方に視線を戻した。
レイが静かにアデライド様に語り掛けている。うーん、一見穏やかに話しているように見えるけど。あれ相当キテるわね。
「謂れのない罪を王族に掛けるということはそれだけで大罪です。…それとわかっていての無礼ですか?」
「…まさか罪だなんて!私はそんな風に思っておりませんわ。ただ少し驚いただけなのです!」
「もう一度問います。私が何をしたと仰るのです?」
「ご容赦くださいませ…」
しおしおとした演技。でもレイがなにかしたのだと明言することはしない。上手だわ、と思う。明言をしてしまえば、レイに罪を着せることになる。そうすると、実際何もなかったのだから詳しく調べられると証拠不十分でアデライド様が窮地に陥ってしまう。
でも、明言をしなければレイに罪を着せたことにはならない。だけど、この状況だけで人々の想像力を駆り立てることは出来る。レイが、アデライド様に手を出したと。そう思わせることは出来る。…狡猾だわ。
そしていくらレイがきちんとこの場で自分は何もしていない、と言ったところで、表向きは皆その言葉に納得するしかないとしても、実際にその言葉を信じる者はいないだろう。
王族の御手付きになった令嬢に手を出したい男性などいない。いらぬ火の粉は避けたいのが心理だ。嫁ぐ先がなくなったも同然の今、彼女を側妃か妾にでもしない限り、レイの信頼は回復されない。
―――っていうのを全部わかってやってるわねあの令嬢は。
そこまでして地位や立場や、権利やそんなものが欲しいのかしら。
そんなことをぼんやりと考えながら見ていると、アデライド様と目が合った。彼女はその愛らしい顔をふるふると横に振って何かを訴えてきた。
「…さ…っ!!サラ様…!違うんです…!違うんですこれは!私…そんなつもりじゃ…」
ワーシラジラシー
おもわず目がチベットスナギツネ状態。
「うふふ、アデライド様。早く身支度を御整えになったら?いくらなんでも未婚の女性が長いこと肌を晒しておくものではないわ」
きわめて穏やかに話しかける。と、アデライド様はかあっと顔を赤面させて、侍女の名前を呼んだ。えすごいこの人赤面まで操れるの!?
はい、という声と共に部屋の中から黒いベールを被った侍女が出てきて薄手のショールをアデライド様の肩に掛けた、いやそれだけかい。ドレス正そう?そもそもなんで今頃でてくるのよ。とは思うだけで口には出さない。
私がこんな状況に陥ったら、マリアなら一も二もなく私の乱れた衣服を整えに来る。それくらい他の人、特に異性に肌を見せるというのはこの国貴族間の間ではご法度だ。まぁ、たくさん目撃者を作るのが目的だったんでしょうけど。
彼女たちの思惑通り、廊下にはいつの間にかたくさんのギャラリーができていた。皆一様にこの状況をどう考えたらいいものか困惑している。
当然だわ。今日大々的に婚約発表をした王弟殿下の部屋から、肩をはだけた婚約者ではない令嬢が出て来たら、困惑しないほうがおかしいというものよ。
「どうなさいました!なんの騒ぎでしょうか!」
憲兵が廊下の向こうから数名走ってきた。人を掻き分けてきてレイとアデライド様の姿を捉えると彼たちもまたひどく困惑した表情を見せた。
「これは…一体」
レイの部屋から肩をはだけさせたアデライド様が出てきたらしい、というのを憲兵たちの近くにいた誰かがそっと告げたらしい。憲兵たちの顔がみるみる青くなる。かわいそうに…処理しきれる問題じゃないわよね、こんなの。
「殿下、その…それは本当でしょうか?」
憲兵がおそるおそるレイに尋ねる。だけど、レイははー…と溜め息を吐いたまま、私の方に視線を向けた。途端にギャラリーがざわつく。まぁ、婚約者の不貞を見てしまった不憫な次期女王とでも思われちゃってるんでしょう。
視界の中にアデライド様の目を見る。その目が不敵に輝いている。既成事実を作れたと確信に満ちた目。
…バカみたい。
「…もういいんじゃなくて?レイ」
私はほとほと呆れながら言葉を発す。その言葉にレイがほっとした顔を見せた。
「ほんと?あーもう限界だった……ときに、アデライド嬢」
レイが顔つきを即座に切り替え、アデライド様の方を向いた。にっこり笑ってるけど、その笑顔がめちゃくちゃ怖い。私もあんまり見たことない顔だわ。
「…っ!?な、なんでしょう?」
「勝手に私の部屋で一人でドレスを脱いで…一人で騒ぎ立てて、とんでもない恥を私にかかせて…楽しかったですか?」
「…!?殿下!そのような物言い…!いくら人目がなかったとはいえ…!」
アデライド様がわっと泣き出す。彼女公爵令嬢でいるよりどっかの劇団で女優になったほうが人生成功するんじゃないかしら…
「人目ですか。まぁ、そこの侍女に聞いても、ベールでよく見えなかったとかはぐらかされるんでしょうけど」
レイの言葉がどんどん温度を下げていく。
「私には、アデライド嬢が部屋に入ってきて、勝手に一人で服を脱いで、勝手に外に出て、勝手に騒ぎ立てたように見えたんですけど―――――」
そう言ってレイは部屋の中に声を掛けた。
「――――義兄さんはどうだった??」
義兄。
レイモンド、殿下の義兄…?
その場にいる私とレイ以外の全員の顔がそう言っていた。と、次の瞬間、部屋の中から、誰もが聞き慣れたこの国の最高権力者の声が聞こえた。
「―――私にもそう見えたな」
そうして、陛下がゆっくりと部屋の中から姿を現した。廊下中にひと際大きなざわめきが広がる。次々と皆が慌てて頭を垂れていく中、アデライド様だけが真っ青な顔をして震える唇をパクパクとさせていた。




