17.5ヴォルト酒場【5】レイ目線
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サラ様がヴォルト酒場に単身で入っていったのを隠れた位置から確認した俺は、どうしようもない焦燥に駆られる。
「マリア殿、自分は忍耐強いほうだと思っていたんです。だけど、今ほど自制が利かなさそうな感覚に陥るのは初めてです」
「お嬢様と行動を共にすればこんな局面まるで朝飯…違いますね。朝の排泄のように出てきます。覚悟しなさい」
ぐ、と喉を詰まらせる。侍女だというのに、この威厳はなんだ。と俺は考える。思えば最初からそうだった。国外へと移動する馬車に吐き気がするほど揺られても平然と顔色すら変えない。サラ様が危機に面しような状況でも、まるで大丈夫だといわんばかりの自信。基本的に人に伝える気など無い自分の弱音を、視線ひとつで吐き出させる。交渉団の人間すら、数人しか識別できない高度な犬笛の周波数を聞き取る。とてつもない人間だということは感覚で分かる。だが、大抵才に秀でる人間はその力や能力を誇示したがる。それなのに彼女はどうだ。サラ様の侍女だということにこれ以上ないほどの誇りを持っている。
侍女は決して低い立場ではない。場合によっては貴族の令嬢がその職を果たすことだってある。だが、それほどの才がある人間が侍女という立場に満足するかと言われれば、そうではないことのほうが多い。
「聞こえた?」
「はい」
思考を打ち破るかのごとく犬笛の音が耳に届いた。薬を盛られている合図だ。
「真っ黒ね。私が憲兵のところへ行ってくるわ」
その言葉に俺が頷いた途端にマリア殿は走り出す。ここまでは手筈通りだ。店の中を窓越しに見ると、そそくさと流しの中にジョッキの中身を注いで、カウンターの椅子へ戻り突っ伏すサラ様が見えた。
よかった、とりあえずはここまでは予想の範囲内だ。と不意に三人の男が酒場へと入っていくのが見えた。ガロンと、サラ様がその仲間と言っていた男二人だ。ギリ…と歯噛みしたい気分に襲われる。ドミニクも戻ってきて下卑た笑いを四人で浮かべながらサラ様を担いでいるのを見たら、このまま走っていきたい衝動に駆られた。
やがて姿が見えなくなって、今か今かと笛の音を待っているが、なかなか音が聞こえない。刻々と時間が過ぎていく。
「…遅いわね」
いつの間にか背後に憲兵たちを連れてきたマリア殿が戻ってきていた。憲兵に酒場に入ってカウンターにあるジュースを調べるように言っている。
「私たちも入るわよ」
「はい」
マリア殿の呼びかけでヴォルト酒場へ入る。すぐさま憲兵がジュースを調べ始めた。古典的だが、調べるのには実践しかない。一人が軽く口に含んで、途端に吐き出した。薬が入ってますね、しかもかなり強いやつです、というのを聞いて、今更だが恐ろしくなる。こんなのを本当に体内に入れてしまったら十六の少女などひとたまりもない。
「合図はまだでしょうか」
そんなに広い酒場ではないし、裏口と言えどここは大通りに面している酒場なので、男四人がなにか荷物を抱えて出ていけばさすがに目立つ。全員が逃走するというのも考えにくい。だとしたら、サラ様の身になにかあったのだろうか。血の気が引く。やはりこんな危険なことをするべきではなかったのだ。ギリ、と今度は本当に歯噛みしてしまう。
「…レイ、落ち着いて」
焦りの思考に陥っていた俺はマリア殿の声にぴり、と背筋が伸びた。
「こういうときの焦りが一番適切な判断を鈍らせるの。仮にも交渉団団長を名乗るのであればそこをもっと鍛錬なさい」
ぐうの音もでない。ことさらサラ様のこととなると冷静な判断をできない。『いつでも冷静で寡黙な交渉団団長』などといわれていたのがまるで嘘のようだ。
「…きた」
「え?」
マリア殿の声に俺が反応したのと、その笛の音が聞こえたのは同時だった。
――――ピッ、ピィィィィィィ!
「地下だわ」
「はい!」
そういって俺とマリア殿は同時に走り出す。店の奥の扉の向こう数メートル、そこの地下から確実に笛の音が鳴った。正確な位置を導き出すように血反吐を吐くような訓練を何度もしてきてよかった、と心から思う。
「ここです!」
扉を開けて、数メートル歩いたところに地下への入口を見つける。一見わからないように作ってあるが、こんなのを探すことなど造作もない。扉を開けると地下へと続く階段が見えた。地面まで見えるが、そんなに深さはない。この距離なら飛べる。俺がたんっと階段に足を掛けて一飛びで飛ぶとほとんど同時に後ろでマリア殿も一足飛びで階段を飛び降りた。
―――マジか。
正直、驚愕以外の感情が出てこない。とてつもない人間だとは思っていたが、身体能力までずば抜けているなどと。自分のように数メートルの高さから飛び降りる訓練を受けているような人間ならまだしも、一介の侍女がなぜ?
だが、そんな疑問は地面に着地して目の前に広がった光景を見たら吹っ飛んでしまった。後ろ手を縄で縛られ、ドミニクに触れられながら恐怖に満ちた顔をしているサラ様の姿が視界に入ったからだ。
「サラ様!!」
「お嬢様!!」
俺の声とマリア殿の声が重なった。気が付けば駆け出していた。誰かが向かってきているが、そんなのは正直どうでもよかった。一秒でも、一秒でも早く彼女の元へと。やがて立ち止まりサラ様の前に立って彼女の顔を見た俺は息を呑んだ。
…血。
口の両端に血が滲んでいる。ブラウスの襟が赤く染まっている。彼女の陶器のような美しい肌が傷ついている。その事実だけが胸を掻きむしる。
あぁ、もうなぜ…
この少女はこれほどまでに無鉄砲で、考えなしで、人に迷惑をかけて、無茶をして、自分がどれだけ大事な存在かわかっていなく、可愛くて、愛おしくて、守ってやりたくなるんだ。
早く宿に連れて帰りたい。マリア殿に湯あみをお願いして、温かい服を着て。温かい飲み物を飲んで美味しいものを食べて、温かなベッドで寝てほしい。どんな不安も不穏も彼女に降りかからないでほしい。
自然と言葉が出た。こんな寒いところじゃなくて、あなたには温かな場所が似合う。
「帰りましょう」
「…そうね」
彼女からの返事に心が温かくなる。
途端、彼女の隣にいたドミニクがサラ様を締め上げ、ナイフをかざしてきた。その手を打ち叩いてナイフを落とすことも、一発で無力化することだってできる。
―――でもそれは『あの人』との約束を破ることになるから。
俺はナイフを掴んだ。相手が怯むのが分かる。不意に『あの人』の声が脳裏をよぎった。
『いいこと?レイ。腕を望まれたら腕を差し上げなさい。足を望まれたら足を差し上げなさい』
いいさ。サラ様を返してもらえるのであれば、左手の切り傷一つや二つ、惜しいものなんかあるか。
怯んだドミニクがナイフを引いた。
―――本当に、このド素人が。
素の口の悪さが出てしまいそうになる。その時だった。俺の左耳を何かが横切り、ナイフを持つドミニクの手、すれすれを通った。ナイフを離したドミニクがのけぞり、その隙を見た憲兵たちが即座に取り押さえる。
―――マリア殿だな。
なぜかほぼ確信する。彼女ならこんなの余裕だろう。本当に計り知れない。目の前の令嬢も、それに仕える侍女も。
とそこまで考えて、大事なことを思い出したのと、その大事なことをサラ様が明かしたのは全く同時だった。目の前の令嬢が叫ぶ。
「この店を出て北に六十八メートル走れば角にカールおじさんのパン屋さんがあるわ!そこを左に曲がり、おおよそ三十二メートル走ると、十字路にぶつかるから、そこを右折!三メートル走って右にローズウェル宝飾店が見えていたらその道で正解よ!!!そのまま八十メートル直進!左手にアーク眼鏡店と、カインズ酒場!そこの間の狭い路地を入って南に四百メートル!道が開けたらそこが第七ふ頭よ!右端から数えて三つ目、そこから奥に三つ目!!!!!それが三十五番倉庫!そこに子どもがいるわ!!!!!!急いで!ここに憲兵が来ているの見て早馬を出した人間がいるかもしれないから!!!そこの道なら最短よ!!早馬よりわずかに早く着くわ!見張りが三人いる!気を付けて!傷つけちゃだめよ!!」
「了解しました!」
正直意味が分からなかった。確信に満ちた言い方からあてずっぽうで倉庫の場所を言ったのではないことは判る。しかしその異様なまでの詳細さはなんだ。まるで地図を見ているかのような。
呆気に取られて、身を翻して駆けていくマリア殿の後姿を見る。
数秒ぼんやりとしてしまったが、慌てて追いかけようとすると、サラ様が俺を止める。なぜ。マリア殿がとてつもない人物だということは判る。だが、単身で見張り三人いる中に突入するなど自殺行為だ。そんな俺の思考を見透かしたかのようにサラ様は落ち着いた声で言い放った。
「大丈夫よ、だってマリアはレイより強いもの」
本来ならば、十六の令嬢にそんなことを言われたら気分を害すところだ。交渉団団長である自分が公爵令嬢の侍女より弱いなど、そんな戯言があるものか、と。困惑しながらも、だが、なぜかその時脳内であの馬車の中でマリア殿に言った言葉と今しがた目で見た光景が浮かんでいた。
――――駆けていく姿はライオンのように勇ましく、
サラ様の言葉に身を翻し迷うことなく駆けて行き、
――――その頭脳は鷹のように明晰だと
サラ様の言葉を復唱することもなく一度で覚え、「了解しました!」と言い放ったマリア殿の姿が。
その言葉と映像が浮かんだ理由を、俺が理解するより早く目の前の令嬢は朗らかに明かしてくれた。
「マリアは、王国交渉団初代団長だもの」