165.からの、弊害二つ目
緊急事態だ。平素ならエルグラントのような護衛が淑女用の手洗い所に入ってくることはまずないけれど、今回は事が事だ。
「サラ様!どうなさいました…ってその頬!!!」
手洗い場に入ってきて、私の顔を見たエルグラントの顔から血の気が引く。エルグラントの後ろに気の弱そうな男性が一人付いてきている。気が弱そうではあるけれど、体がしっかり鍛えられている。おそらくスカーレット様の護衛だわ。
彼もまた何があったかを瞬時に悟って真っ青になっている。
「大丈夫ですか!?何がありました!!」
「…ちょっと揉めちゃって」
勘のいいエルグラントだ。すぐさまいろいろなことを察したらしい。胸元から犬笛を取り出してそれを吹こうとする――――寸前で私は彼の動きを止めた。
「な…っ、サラ様。これは早くレイに伝えないと…!」
「…わかってる。だけど…」
その犬笛を使えばすぐさまレイもマリアも、おそらくは交渉団の中でも実力者であるマシューやセリナ様も駆けつけてしまうだろう。そんな人間が集まってしまえば嫌でも注目を浴びる。スカーレット様はたちまち糾弾の的になるだろう。
いや、わかってる。それくらいスカーレット様はしてはいけないことをしてしまった。
次期女王候補への暴力。
王弟殿下婚約者への暴力。
――――そう、大罪だわ。でも。
「…ちょっとおいたが過ぎたのよ。エルグラント。もちろん報告はしなければならないけれど、大ごとにしてしまってはこの祝いの席をレイの顔にも陛下の顔にも泥を塗るものにしてしまう。この場は退散しましょう」
「…だが…っ!」
私の言葉にエルグラントは瞠目し、青くなっていたスカーレット様の頬にさっと赤が差した。
「…なっ!!!何よそれ!!そんなので慈悲でも掛けたつもり!?ふざけな…」
「ふざけてるのはあなたよスカーレット様」
ぴしゃり、と私は言い放つ。もう敬語なんか使う必要ないわ。言葉にできるだけ圧を掛けながら。
「私が今レイモンド殿下にこのことを話したとしましょう。彼はすぐさまこの祝いの席を中断させるでしょう」
目に浮かぶようだわ。宴を中断させておそらく目の前のスカーレット様にもスカーレット様のご両親にも絶対零度の怒りを灯したあの物言いで糾弾するレイの姿が。
せっかくレイが寝る間も会う間も惜しんで私のために一生懸命準備してくれた式典なのに。パーティーなのに。こんな姑息な言葉を投げかけてくる令嬢のせいですべてが台無しになるだなんて絶対に許さない。
「この宴はあなたの軽率な行動で中断されていいほど軽いものではないの。王族が主催した式典よ。ご自分の開催なさったお茶会と同列のように考えないで欲しいわ。傍若無人な振る舞いはおよしなさい。ブリタニカ三大公爵家の名に泥をお塗りになるつもり?」
「なによ!!小生意気に!あなただって私と同じ公爵令嬢じゃない!同列なのよ!私たちは!なのになんで…どうしてあなただけがそんな甘い汁を吸ってるのよ!!!」
「…甘い汁を吸っているつもりはないわ」
むしろ今から吸うのは女王としての苦汁がほとんどだというのに。
王族との婚姻でよりよい立場を得ることしか考えていないのね。それに伴う重責や苦悩は考えもしていないのだわ。…カールやヘイリーより少し見目麗しいレイが出て来たからすぐさま乗り換えて。
ああ、だめ、また腹が立ってきた。
「一つお聞きしてもよろしいでしょうか」
「なによ!」
「…スカーレット様はレイモンド殿下のどこをお気に召されて、伴侶になりたいとお望みになられたのでしょうか」
「王族であんなに見目麗しくて、隣に立ちたくない令嬢がいるのかしら?…結婚なんて私たち貴族令嬢にとっては政治的な意味しか持たないのよ。ならばより見目麗しく立場のある男性のほうがいいじゃない」
「…では質問を変えますわ。あなたは以前の交渉団団長として出自の分からぬレイモンド・デイヴィス様だったら、今のように伴侶になりたいとお思いになりましたか?」
「なるわけないじゃない。彼は王族だったからこそ価値があるのよ」
ふん、と鼻を鳴らすスカーレット様の言葉に、ふつふつと怒りがこみ上げてきた。あ…この感覚。一回経験したことある。
ぐわりと視界がゆっくりと暗転するような怒り。何かどろどろとしたものが心をむしばんでいくような気色の悪い感覚。自分が自分じゃないみたいな。頭に血が上るどころじゃない。体中の血が沸騰しているような感覚。
―――これ前に感じたのはだれのときだったっけ。ああ、確かメリーの悪行を聞いた時もこんな感覚に…
「っっっ…!!!!嬢!!!!!」
――――エルグラントの凛とした声ではっと我に返った。
「だめだ。落ち着け。レイの目を思い出して…」
続けての柔らかい物言いに私は少しずつ落ち着いてくる。…あぁ。よかったまた飲み込まれそうになるところだった。はた、とスカーレット嬢を見るとがたがたと震えながら護衛に肩を支えられていた。
エルグラントがそっと背中をさすってくれながら言った。
「…このことは、宴が終わったのちに私から陛下とレイモンド殿下に報告いたします。さぁ、サラ様、行きましょう」
エルグラントの言葉にこくり、と頷いて私は手洗い所を後にした。
背後にも周辺にも誰もいないのを確認して私はエルグラントの腕にぶら下がるように体を預けた。
「なんなの…なんなのあの女…ものすっごい腹立ったわ」
「…大丈夫だったか?嬢。ああ、こんな赤くなって。まぁひ弱な令嬢の平手だ。痕が残ることはないとは思うが」
「私が気に入らないのも、平手されたのだってどうでもいいのよ…痕が残らないのもわかってるわ。…でも許せない」
私の言葉にエルグラントがしっかり頷いてくれるのが分かった。
「レイを、王族じゃなきゃ価値がないみたいな言い方しやがったなあの女」
「レイのことなんだと思っているのかしら。ああ駄目だわ本当に腹が立つ。あんな女に落とせると思われてるのも腹が立つわ」
「嬢が怒らなきゃ俺が怒鳴るところだったかもしれない」
「感情豊かだけど理性的なあなたがそんな失態は犯さないわエルグラント」
私はふふっと笑ってしまう。
「…嬢」
エルグラントが急に声を潜めた。
「ど、どうしたの?」
「離れたほうがいい。…誰かがこっちを伺いだした。接触する気配はない。おそらくただの監視だろう。…今俺に寄りかかっているのを変に誤解されて伝えられるかもしれない」
「…一難去ってまた一難、てわけね」
もう少し寄りかかっていたかったのに。私はエルグラントからそっと距離を置いた。
「どこかの使いの者か。…手練れだな」
「私全然わからなかったわ」
「俺がうっすらとしか感知できないほどの気配だからな。嬢にわかったらさすがに俺がへこむ」
エルグラントの言葉にふふっと笑ってしまう。
「…もうお体の具合はよろしいのですか?眩暈は治りましたか?サラ様」
「…ええ、大丈夫よ。収まったわ。体を貸してくれてありがとう、エルグラント」
「私の腕でよければいつでも手すり代わりにお使いくださいませ」
ちょっと大きな声でわざと言った後に二人でこっそりと笑い合った。
侍女の控室に行ってから、頬を見て慌てふためくマリアやロゼたちに私を託してエルグラントはレイに報告してくると言ってその場を離れていった。
――――そしてその晩、それを最後にエルグラントを見たものは誰もいなかった。




