16.ヴォルト酒場【4】
マリアは先ほど買った花束を一つ一つ眺めていた。野に咲く花だが、きちんと結わえられ、ろう紙に包まれている。六個くらいあるそれらを手にとっては眺め、手にとっては眺める。その中の一つの花束に不意に違和感を感じる。
このろう紙だけいやに皺が寄っている。マリアは結んである紐を解いた。そうして、ろう紙をそっと広げた。そこに爪でひっかいたような文字が見えマリアは目を見開いた。すぐに立ち上がり、ランプの近くに寄りその光でろう紙を透かしてみる。
今度は、はっきりと読み取れた。
【タスケテ ユウカイ ヴォルト】
「お嬢様…憶測が現実になりましたよ」
本当にあのお嬢様は。マリアはふふっと笑ってしまう。いつもいつも毎回これ以上ないほど驚かされる、と思いながら。
――――――
「いいですか?お嬢様。くれぐれもくれぐれもですよ。無茶だけはやめてくださいね」
もうこの会話も何度目だろう。私は思わず笑ってしまう。
「わかってるわよマリア。すべて計画通りに」
服の中や靴の中にマリアがしゃべりながら次々とあれやこれやを仕込む。私の着替え中なのでレイは隣の部屋で待機だ。
「お嬢様が隣国でもこんなことしているって知ったら公爵様大爆笑しそうですね」
「お父さまなら…そうね、あの人は大爆笑するタイプだわね」
「それでも、それと同じくらい心配もなさっているんです。旦那様は。目を離すなと再三言われましたから」
「一番心配をかけているのは貴方だけどね、マリア」
「慣れています。アースアホ王子のあれやこれやからもうずっと」
「久々に聞いたわその名前。そんなのもいたわね」
忙しさのあまりすっかり忘れていたわ、というとマリアは笑って返事をしてくれる。
「そんなアホ王子でも幸せになってほしいと自分の人生を変えてまで慈悲を掛けてやったというのにもう忘れたんですか?気づいてましたか?お嬢様。国外に出てからまだひと月経っていません」
「濃ゆっ!」
お言葉遣いが乱れてます、と小言を言われ私は首をすくめる。
「とにかく、お嬢様が誰よりも聡明なことも、策士なことも私は存じております。それでも、剣術も格闘術も体力もないただの十六歳の令嬢だということも知っています。お嬢様にこれは愚問ですが、笛を鳴らすタイミングと回数は覚えてらっしゃいますか?」
「わかってるわよ、まず薬を飲まされそうになったら笛を一回。それから連れ込まれた先で二回ね」
「そうです。私もレイも、笛さえ吹いていただければ間違いなくお嬢様がおられる場所へと向かうことができます」
「大丈夫、おそらくそんなに難しいことは生じないと思うわ。相手も私を商品にするつもりなら傷はつけないだろうし」
「何があるかわからないのが事件というものです。さ、準備ができました。レイ、入って」
マリアの呼びかけに、「失礼します」と言ってレイが入ってきた。私の姿を見て開口一番、
「はぁぁぁぁ…」
大きなため息が出た。な、なんでそんな反応!?
「変かしら?一応いろいろ仕込むためにロングスカートにしたのだけれど」
ふんわりとしたシフォンブラウスにストライプのロングスカート。マリアが動きやすいようにとふんわりと頭のトップでお団子が揺れている。どこからどう見てもちょっといいところのお嬢さんだ。
「誘拐してくださいと言っているようなものではないですか…」
「そのための装備ですから」
しれっとした声でマリアが言うものだから笑ってしまう。心配してくれたのね。
「ありがとう、レイ。心配してくれて」
「あなたは、もう少し自分がかわいいということを自覚してください。私ならすぐに攫っています」
おっとでた。強火発言。これは絶対マリアに毒されてきている。
「私も攫いますね。すぐに攫います」
マリアは安定の強火発言。最近もう慣れてきて私は華麗にスルーするようになっている。
「笛はきちんと持ちましたか?」
「ええ、袖口とブラウスの襟の内側にマリアが縫い付けてくれたわ。後ろ手で縛られても、これなら襟の笛が吹けるしね」
そう言って、私は襟に縫い付けられた笛を吹いた。
ピィィッィィィィl!という音が……鳴らない。
「ちょっとお嬢様、近距離で笛はやめてください、耳が痛いです」
「俺も、今のはかなりキました。耳が割れるので近距離ではほんとやめてください」
目の前の二人が同時に耳を押さえているのを見て、私は昨日から何度も繰り返ししている会話をまたぶり返してしまう。
「本当になーんにも聞こえないんだけど…二人には聞こえるのよね」
「俺は訓練で使いますからね、高周波の犬笛。マリア殿が聞き取れるとは知りませんでしたが」
「耳がもともといいのよ」
「でも、これならドミニクさんたちにばれずに二人に様子を伝えることができるわ。ほんと、マリアが各地に送った便利グッズ侮れないわね」
そう、これは国外追放が決まる三年前からマリアが各国に少しずつ送っていてくれたもののうちの一つだ。それぞれの国の国際郵便の金庫にきちんと保管されている。計画を立てだしてからのいずれかの日の昼間のうちに取りに行ってくれたらしい。
「備えあれば憂いなしですから」
そうね、と私は笑う。さて、と気を引き締めた。
「行くわよ、レイ、マリア。子どもたちを助けるわよ」
はいっという声が揃った。
――――――
「おや、嬢ちゃんひさしぶりじゃねえか。あのにいちゃんとねえちゃんはよく見かけてたんだがな」
夕刻より少し前私はヴォルト酒場の前に来ていた。まだ仕事を終えていない人が多く、人通りの少ない、尚且つドミニクさんが店の開店準備を始めるこの時間帯。
おそらく一番罠にかかりやすいでしょう、とここ数日のレイとマリアのリサーチからはじき出したのがこの時間帯というわけだ。漁から戻ってすぐに自分の店の準備をしているらしいドミニクさんは忙しそうにテーブルや椅子を店の前に出しているところだった。
そこへひょっこりと私は現れて挨拶をしたのだ。
「こんにちはドミニクさん。この間はごちそうさまでした。ちょっと旅疲れがでちゃってて私だけ数日宿で休んでたの」
「今日は一人か?」
まぁ、二人とも見えないように近くに隠れてますけどね!口には出さずに頷いてみせる。
「ええ、ナンパされてもドミニクさんたちが助けてくれるなら大丈夫だろうって兄さまと姉さまが」
「おお、そうか。どうだ、一杯飲んでいくか?」
「私お酒は飲めないわ」
「ああ、こん前は無理に勧めちまって悪かったな。ジュースはどうだ?」
「でも、まだ開店前じゃないの?」
「構わねえよ。嬢ちゃん一人くらい。さ、はいったはいった」
面白いくらいに予想通りにあっさりと店の中に入れてくれて笑ってしまう。店の中に入れてもらうために、孤児たちへのプレゼントの相談をしようとか、お手洗いを借りようとかいろいろ言い訳を準備してきたんだけど。
「なんのジュースがいい?」
カウンターに入って、ドミニクさんがジョッキを取り出す。手元は見えないけれど、私が返事を言う前に引き出しを開けて何かを取り出す音を耳が聞き取った。
「そうねぇ…やっぱりオレンジジュースがいいわ?ある?」
「ああ、あるぜ」
そういって、カウンター横の水の張った樽の中からオレンジジュースが入った瓶を取り出した。栓をあけてジョッキに入れてくれて、私の目の前にどん、と出してくれた。
「ありがとう」
ジョッキを手に取り、口をつけるふりをして匂いを確かめる。わずかに香る…これは睡眠剤としびれ薬ね。大方予想通りだわ。女王教育を受けていた間の薬の訓練がこんなところで役立つとは思わなかった。女王となれば基本的に毒見がいるが、毒見だけでは対応しきれない不測の事態が生じたときのために、自衛としてあらゆる種類の薬や毒を覚える訓練があるのだ。
―――しかし随分とどぎついのを使うのね。これなら、たくさん飲むふりをしなくてもいいかもしれない。
飲み込むふりをして、ゴクリ、と喉を鳴らすのをドミニクさんが注視している。そんな視線を投げかけられちゃもう完全クロじゃない。心の中で失笑してしまう。
「ふう」
口を離してため息をつく。
「なんだなんだ、お嬢ちゃんは一口が少ないなぁ!もっと飲め!」
聞きようによっては気前のいいご主人の口調だ。だが違う角度から聞けば、ただの悪人の言葉だ。さて、次の段階へ進めましょうかね。私は意を決して顔を上げた。
「ドミニクさん、ごめんなさい。ちょっとお手洗い貸してもらえる?」
「おうよ、どうした」
「宿でお手洗い済まさずに出てきちゃったの思い出して。店に入る前から我慢しちゃってたの」
「嬢ちゃんは仕方ねーなぁ。ほらよ、店の奥にドアがあるだろ。あれを開けて廊下を歩いた突き当たり左側のドアが女性用だ」
「はーい。ありがとう。あ、帰ってきてからジュース飲むから捨てないでね!」
わかったよ、と笑ってくれるドミニクさん。本当にいい人そうなのに。ほんの少し悲しくなっちゃう。
私は椅子からぴょんと飛び降りて、店の奥まで歩きドアを開けた。六メートルくらい先に二つ扉があるのを確認して後ろ手で扉を閉めた。恐る恐る歩いて行きながらも、背後に気配がないかを注意する。ドミニクさんが追ってきてないことにほっと胸をなでおろしてから、袖に縫い付けてある笛を一回吹いた。これで、とりあえずレイかマリアが憲兵へ連絡を取る手筈になっている。飲み物への薬混入というだけで、十分重罪だ。あとは憲兵が来る前までに私が子どもたちのところに連れて行かれなくてはならない。
ドミニクさんが追ってこないということは、おそらくあれくらい飲んだだけじゃどうにもならないことをわかっているんだろうし、お手洗いから帰ってきて飲むと宣言したので安心しているのだろう。
左側の扉を開けると一般的なお手洗いが目に入る。予想通り、用を足した後に拭くための紙もきちんと備え付けられている。私はそれを掴んで、右側の男性用のトイレに入った。男性側にも同様に用を足した後の紙が備え付けられている。その上に今しがた女性用のお手洗いからとってきた紙をきちんと乗せた。
そっと扉を閉めて、今歩いてきた道を帰る。店に続く扉を開けてひょこっとのぞいてみれば、ドミニクさんがカウンターの中で魚を捌いているところだった。
「ドミニクさん、ごめんなさい」
首を出したまま呼びかけると、ドミニクさんは不思議そうに私を見た。手洗いがあまりに早いから不思議に思ったのだろう。
「お手洗いの女性側に紙がないから用が足せないわ。補充してもらっていい?」
「おー、悪い!ちょっと待っとけ」
そういってドミニクさんはばしゃばしゃと手を洗った。タオルでふき取りながらこっちに向かってくる。
「昨日確認してなかったからな、悪い悪い。地下の倉庫からとってくるからよ。少し我慢できるか?」
「大丈夫。ジュース飲んで待ってるわ」
ドミニクさんが私の横をすり抜ける。私は扉を閉めるふりをして、ほんの少しだけそこを去らずにいた。数歩廊下を歩くとドミニクさんはしゃがみこみ、板の隙間にわずかにあった穴に指を差し込んでぐいっと持ち上げた。かぱり、と床が外れると地下への入口が見える。さっき歩いた時に全然気付かなかったから、よほど念をいれて作ってあるのだろう。
私はそっと扉を閉めた。急いでカウンターへ戻り、ジョッキを掴むと調理場のほうに回り込んで流しに四割ほど捨てた。汲んであった水で洗い流し、何食わぬ顔でカウンターへ座り、そしてそのまま突っ伏した。これで薬で自由が利かなくなった令嬢の完成だ。
やがて背後の扉が開き、足音が私に近づいてきた。と同時に、別方向の扉が開く音がする。入口のほうだ。二人、いや、三人入ってきてるわね。よかった。分散していないのであればやりやすい。
「おい、ドミニク…まさかこれは」
ガロンさんの声。だが、その言葉は驚愕というよりも歓喜の響きのほうが強い。
「あぁ、まさか向こうからくると思ってなかったぜ。久々の上物、いや、超上物が釣れたぜ」
こうなるとあらかた予想していたはずなのに。
舌なめずりが聞こえてきそうな言葉に、ぞわりと全身に鳥肌が立った。