140.一番近くにいたのにね
「マリア、マリア。おーい」
エルグラントの呼び掛けにはっと気づいて私は顔を上げた。
「どうした。…寂しいか?」
にかっと笑ってくるのが腹が立つ。きっとこの男は何もかもすべてお見通し。
「当たり前よ。こんな風にお嬢様が落ち込むときに慰めるのはずっとずっと私だったのよ。十五年くらいずっと」
「悔しいだろ」
「とっても!!レイめ、私のお嬢様を取りやがって~~~!って感じ」
「あっはっはっは!」
エルグラントが豪快に笑う。隣に聞こえないくらいの声量で。まあ、エルグラントも二年ほど前までこの部屋を使っていたものね。どのくらいまでの声が聞こえないくらいかは熟知しているでしょう。
「でも遠くない将来に、その役目は全面的にレイが請け負うことになるわ。今のうちから私もいい加減お嬢様離れしなくては」
寂しいけど…とぽつりと漏らすとエルグラントの大きな手が私の頭を撫でてくれた。
「マリアはマリアの。レイはレイの役割があるさ。お前の居場所がなくなるわけじゃない」
「わかってる。…んだけどなぁ…エルグラントー…」
隣に座るエルグラントの腕に頭をぐりぐりと押し付ける。おーよしよし、甘えろ甘えろとエルグラントが言ってくれるのが嬉しい。
「本当にマリアは嬢が好きだなぁ」
「あの時どん底だった私の人生を変えたのはお嬢様だもの。…公爵邸で働きだしてもまだ最初のうちは全然笑えなくて。でも、毎日毎日お嬢様が笑いかけて「おはよう」って言ってくれるの。笑って「大好きよ、マリア」って言ってくれるの。…それがどれだけあの時の私を救ってくれたか」
「…そっか」
押し付けていた腕がするりと抜かれたと思ったら、ぽすっという音と共に私の頭はエルグラントの太腿のあたりに乗せられていた。
「…あなたの膝枕なんて久しぶりだわ」
「そういや久しぶりだな」
エルグラントの柔らかい声が頭上から降ってくるのが心地いい。
「…お嬢様にとってのレイが、こんな風に心から甘えられて信頼できる存在なら、それでいいわ」
「お?心から甘えて信頼してくれてんのか?」
「そうじゃなきゃ結婚しないわよ旦那様」
「そうだな奥様」
「…早く家見つけねえとな。まだ手を出せないままだもんなぁ。公爵邸ではさすがになぁ」
「こんなときに何の話をしてるのよ」
じと、とエルグラントを睨む。
「いやとりあえず手を出すのは一旦置いといて、マジで家を見つけないとだよなぁ。どうするか?買うか?建てるか?」
「どっちでもいいわよ。特に好みはないもの。…そういえば私人生において『自分の家』に住むのって初めてだわ」
「そうか、孤児院出てしばらく路上暮らし、騎士団でも交渉団でも宿舎、宿暮らし、そして公爵家で住みこみながら侍女…ってお前の経歴よくよく考えると凄いな!?」
「我ながら変わった人生だわよ」
「はっはっは!まぁ、お前に比べれば俺は平々凡々だな」
「それでいいじゃない。私ホーネット家の皆大好きよ。…私に家族ができる日が来るなんてね」
「むさくるしい野郎どもばっかりじゃねえか」
エルグラントの生家、ホーネット家の皆はとてもとてもいい人たちばかりだ。
男五人兄弟。エルグラントは長男。他の兄弟は全員結婚している。皆市井で教師をしたり、商売を営んでいたりしてきちんと地に足を付けている人たちばかりだ。
エルグラントのご両親もなかなかに大きい規模の農業を営んでいるけれど、引退後はきれいさっぱり土地を売り払って、そのお金でのんびりと生きていくらしい。家を継ぐ必要もないし、何も相続を残さない代わりに老後の面倒も見なくていい。というこの社会では珍しい考えの持ち主だった。
「…案外寂しいのは、マリアだけじゃないかもな」
エルグラントがぽつっと言った。
「え?」
「…嬢も似たように思ってるかもしれねえぞ?」
「どういうこと?」
「俺に、マリアを取られたって」
まさかの発想に一瞬きょとんとなって、そのうち笑いだしてしまう。
「まさか!それはないわよ」
「聞いてみろよ」
「聞かなくていいわよわざわざそんなの。…でも、そうね。もしそうならちょっと嬉しいかも」
「ちょっと嬉しいならそう思い込んでおけ。そっちのほうがお得だ」
何その理論、私は笑ってしまう。エルグラントが優しく微笑みながら私を見下ろしている。
「何よ」
私の気分はエルグラントと話しているうちにちょっと上向きになっていた。そのことも全部見透かされているのが分かってちょっと拗ねた口調になってしまう。
「…別になんでもない。俺の妻が可愛くて仕方ねえなぁって思ってただけだ」
「ま…った、そういうことを平気で言う!!あなたレイのこと馬鹿にできないわよ?」
「いいじゃねえか別に今は二人きりなんだから。あとな、人前で言うときも俺はそういうのを見せて良い人を選ぶし空気を読むが、あいつは読まない。それが大きな違いだ」
大爆笑。確かに。なんでそんなどや顔で言われてるのかちょっとわからないけど。
「レイは、そんな風に抜けているところもあるけれど、王婿としては最適だわ。シャロンとエドワードのやり取りを耳にすることもあったでしょうし、自分が王婿としてどう立ち振る舞うべきか、ほとんどもう身についているのではないかしら」
「あいつも底知れないんだよなぁ」
エルグラントがくっくっくと笑い、私も頷いた。
「二年の残務処理を数日で終わらせるなんてね…マシューから聞いてびっくりしたわ。駄目、普段のヘタレレイしか見てないから想像がつかない」
「俺なら確実に半月以上はかかるな」
「エルグラントは書類仕事は苦手だったから仕方ないとしても…ま、あの二人は能力的にも、性格的にもお似合いってことよ。アースだったら絶対に無理だわ」
「アースと言えば!!お前あれ!心臓飛び出すかと思ったぞ!!!アース王子を叩いたの!」
エルグラントが急に焦ったように言って私は笑ってしまう。
「エドワードの性格を知ってたからできたのよ。あと、アースも私にとっては可愛い友人の子どもなのよ」
アホだけど、と付け足すとエルグラントが笑った。
「四歳か、五歳か。そのくらいまでしか知らないけどね。それまではたくさん遊んであげたりしてたのよ」
「そうなのか…まぁ、シャロン陛下と仲良かったからな。普通に考えればそうか」
「そんな子が、ちょっと腑抜けになっていたから喝をいれたくなっちゃったの…。まぁ、あの子もこれからでしょう。不本意だとしても公の場に出てきちんとした言葉で謝罪できる素直さは持っているんだから心根は悪くないわ」
「だろうなぁ」
ふう、と私は息を吐く。
「パートナーとしてお嬢様の隣にいて、劣等感を感じるなというほうが無理だわ。それを感じないようにするだけの力と努力する心がレイにはある。それを考えてももう最初からお嬢様にはレイしかいなかったのよ。…ほんっと悔しいけど」
「おいおいまた話戻ってんぞ!せっかくそこの話題から離れてたのに!!」
エルグラントが笑う。
「もういいじゃねえか。…今は二人きりなんだ。そろそろ、嬢の話ばっかりじゃなくて俺も見てくれよ」
そう言うとエルグラントは私の顔をもってぐりんと上を向かせた。
「…そうね。もう後は若い二人に任せましょう」
「年寄みたいなセリフになってんぞ」
「四十だもの。決して若くはないわ」
「…若くなくても、四十でも、マリアは世界一可愛い、俺の愛する妻だ」
「あなたも。…世界一カッコよくて、素敵な、私の愛する夫よ」
エルグラントの瞳に熱がこもり、その整った顔がゆっくりと降りてくる。
いつもの、くすぐったくて甘い口づけがやがて私に贈られ始めた。
この二人は安定しているのでとても書きやすいなぁ~
エルグラントの大らかさは書いていてほっこりします…




