138.アースの劣等感
「な…!レイモンドにい…団長!今は黙っていてくれるか?!」
「アース、サラ様は知ってるよ。俺がお前の伯父だってことも」
「!?」
「それから、彼女が心を渡し合った相手は、俺だ。俺の愛する人にこれ以上暴言を吐かないでくれるか?」
「…なっ…!」
信じられないとでも言いたげにアースが目をこれ以上ないほど大きく見開いている。
「…今お前が言ったことはすべて、お前自身に能力があれば防げたことだ」
「レイモンド、兄さん…」
レイの静かな怒りがこっちにまで伝わってくる。
「自分の能力の低さを他人のせいにするな。彼女がそう立ち回らざるを得ない状況を作ったのは誰だ。…考えてみろ」
レイの言葉にぐっとアースが押し黙る。
しばらくそうしていたが、レイが不意に手を伸ばし、アースの頭をぽんぽんと叩いた。あ、空気が優しくなったわ。
「俺にとってはお前はとっても可愛い甥っ子だよ。…可愛い甥っ子が、女性に対して声を荒げてる姿は見たくないな。お前の気持ちも分かる。俺も正直サラ様の隣に立つと自分の能力の低さにがっかりすることがある。…一歩間違えればお前のように劣等感に苛まれているかもしれない」
え…そうなの?まさかの告白に私がびっくりしちゃうんだけど…。
「でも、それをバネに強くなることだってできる。俺は、彼女に釣り合う為にめちゃくちゃ努力してる。お前はどうだったんだ?アース」
「…最初のうちは、それなりに努力した。でも、どうしたって追い付けなかった。そしてそのうちサラに対して強い劣等感を抱くようになった」
「いつから…そんなふうにお感じになっていたんですか?」
私の問いに、アースが辛そうな目で答える。この人…こんな顔もするのね。そんなことをぼんやりと考える。
「実際に強い劣等感を感じだしたのは五年前だ。だが、最初から…そうだ。お前が婚約者だと知らされて、共に勉強を始めた辺りからいつもいつも私は比べられていた。『サラ様はすぐ理解されましたよ』『サラ様だったらこんな問題秒で解かれます』…そのうち、勉強することも嫌になった。何も聞いていなかった。でも、別にいいと思っていた。どうせ結婚するのだからどちらかがわかっていればいいだろう、と」
あああ…そこらへんが本当に浅はか。努力、してないじゃない。
アースは言葉を続ける。
「…サラは別に私に向かって上から目線でものを言うこともなかったし、偉そうにすることもなかったから、最初のうちは別に劣等感は感じていなかったんだ」
「五年前になにがあったんだ?」
レイが優しく尋ねる。兄の顔になっているわ。
「五年前…サラが十三で私と同じ学年になった時だ。職員たちが話しているのを聞いた。『ヘンリクセン公爵令嬢は、余裕で卒業できるだけの学力があるのに、婚約者であるアース王子の面子を保つためにわざと点数を取らないようにしてこれ以上学年を上げないようにしている』と」
「それは…」
私は言葉に詰まる。実際に身に覚えがあるからだ。
「…ショックだった。言葉では確かに私を敬ってくれているが、思いっきり見下された気分だったよ」
「そんな風に見えたこと一度もありませんでした。いつでも朗らかに笑って堂々とされてたじゃないですか」
「そうか?…サラにはそう見えていたのか」
私も首を傾げる。…なんで?アースが劣等感感じてるって私なら目を見れば…
…あ。
そうだ。私。
全くアースの目を読もうとしなかった。いいえ、問題はそうじゃないわ。もっと根本のところ。いつかレイに言ったことがある。互いに歩み寄りが足りなかったと。歩み寄りが足りない以前の問題よ。
…そもそも、彼が何を感じているのか、どう思っているのか知ろうともしなかったんだわ。…興味がなかったのだもの。
「その頃ちょうどベアトリスが私の前に現れた。素直で、サラのように抜きんでて賢いわけではない。…でもそれが物凄く心地が良かったんだ」
「そう、だったのですね」
「でも、それとお前がサラ様のことを皆の前で糾弾したのは別問題だ。婚約者がいながらほかの女性に心奪われることも、紳士という以前に、人としてあり得ない」
ど正論のレイの言葉に、アースがぷい、とそっぽを向く。
私はそっと目を伏せた。
私がもう少し、アースのことを見ていれば、アースのことを考えていれば。もしかしたら…今回のことは起こらなかったのかもしれない。…仮定の話をしても意味はないけれど。
「…アース様」
私の呼び掛けにアースがびくりと肩を震わせて私を見る。
「…私がしたことでどれだけあなたを傷つけたのか、考えたこともありませんでした。たくさんたくさん傷つけてしまったのでしょう。…本当に、申し訳ありませんでした」
深々と頭を下げる。私以外の全員が息を呑むのが分かった。
「…もっと、きちんとあなたを愛せたらよかったのに、それができなくて…ごめんなさい。アース」
二人きりの時だけ。回数は片手で数えるしかないけど、アース、と呼ぶことと敬語を使わないことを許されていた。そう、悪い思い出ばかりじゃないの。いい思い出もたくさんあったのだから。
でも、愛せなかった。それがすべてのボタンを掛け違えた根本の原因。
愛していなかったから、自分の行動でアースがどう思うか考えられなかった。
愛していなかったから、アースの感情を知ろうともしなかった。
「…ベアトリスさんのことは良く存じ上げないけれど、今度こそ、幸せになって。アース」
私の言葉にも、アースはぷい、と顔を逸らし俯いた。…ええ、別に届かなくていい。もう、人生が交わることはないのだから。
ちょっと…疲れちゃったな。
「…退出の許可をいただいてもよろしいですか。陛下」
力なく陛下に笑って見せる。ずっと静観してくださっていた。おそらく口は出さまいと心に決めてらっしゃったのでしょう。
「…もう、気は済んだか?アース」
陛下の言葉にアースは俯いたまま頷いた。
「…退出を」
「…失礼いたします」
そう言って退場しようとした、途端。
かつかつかつ、と今まで成り行きを見守っていたマリアが私の横を通り過ぎ、項垂れるアースに向かって手刀を振り下ろした。
―――――ええええええええええええええええええええええ!!!????
マリアを除く五人の目が点になる。
「え?ちょ、ちょっとなにをしてるのマリア!」
「き!!!貴様!!!王族に対して何をっ!」
アースが涙目になりながらマリアに向かって怒る。いやそりゃ当たり前…っていうか、これは立派な不敬罪…私は血の気が引く。下手したら処刑案件よ!?
「しっかりなさい!!!アース!!!お嬢様にあれだけ言われたのなら胸を張って堂々と『幸せになってみせる』くらい言い放ちなさい!!!」
「なんだ!?貴様は!!!偉そうに何者だ」
「覚えてないの!?」
「だから何者だと聞いているだろう!」
「マリアよ!!!いっとくけど、あんたのおむつ替えたこともあるんだから!!!」
「…マリ…ア?」
アースがきょとんとしている。が、徐々にその目が開かれていった。
「マリア…ってまさか…!」
「そのまさかよ。はー。あんたがこんなヘタレ王子になったって知ったらシャロン大泣きするわ」
「本当に!?本当にあのマリアなのか!!??」
「だから本物だって言ってるでしょう」
ちょ、ちょっと待って状況が飲み込めない。飲み込めないけど、そ、そうよね。シャロン陛下と仲が良かったのだからもちろんアースのことも知っているはずだわ。
「…もう過去のことは忘れて、きちんと幸せになりなさい。アース。シャロンもそれを望んでいるわ」
そう言って今度はマリアはポンポンとアースの頭を優しく叩いた。
再びアースが俯く。俯くけど、さっきとは違う俯き方だわ。…何かを堪えるような。
そんなアースを見てマリアが優しく微笑む。と、陛下に向き直って言い放った。
「どんな罰でも受けるわ、エドワード。王族に手を上げたのだもの」
「ちょっと待てマリア!…陛下、それなら伴侶である私にも罰を」
エルグラントがすぐさま声を上げる。続くようにレイも声を上げた。
「義兄さん。…ここは公の場じゃない。見ぬふりをすることもできるはずだ」
私ははらはらしてしまう。たしかに王族に手をあげたのは間違いないのだから。
でも陛下は鷹揚に笑って見せてくれた。
「いいいい、マリア。お前が叩いてくれなかったら私が叩くところだった。…私の代理で叩いてくれたんだ。罪に問えるものか」
多分大丈夫だとは思ったけど、実際に陛下の言葉を聞いて私は胸を撫で下ろす。
そうして、私たちはその場を後にした。
…最後までアースは俯いたままだった。




