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昆虫標本

 しばらくの間ディアナはペンダントをぐるぐる回しながら眺めたが、その蛾の細工のモデルとなった蛾はさっぱりわからなかった。形が似ているのは、幼虫がマルベリーの葉を食べるクワコという蛾だが、クワコは茶色だ。このペンダントの蛾は純白なのだ。虫は住む場所によって色が違う。クワコとは全く違う場所に住んでいる虫なのかもしれない。考えれば考えるほど、ディアナは混乱した。


「ディアナでもわからない虫がいるんだ?」


「生きてる蛾だったらわかるもん、交尾して卵が孵化したら同じかすごく近い仲間だもん」


「でも、作り物だから子供を作れそうにはないね」


「むー、だったら昆虫標本の蛾と見比べてみる? 近い種類なら、きっと同じ色と形をしているはずだわ」


ディアナは森で捕まえた虫の昆虫標本を作っていた。箱の中にピンで留められた虫たちは目に美しいのみならず、図鑑で虫の種類と名前をきちんと調べて作ったラベルをきちんと付けた、立体図鑑としても使える完成度が高いものだ。レーンはうなずいた。


「なら、一週間後に見比べてみよう。マッサージの後は、一週間ご祈祷を受けることになってるんだ」


「ママ、また変なことして。レーンとまた森で遊べる日はいつになったら来るのかしら」


「きっと、この祈祷が終わったら大丈夫だよ」


本当に?レーンが今までに飲まされた薬も、聖水も、何一つとしてレーンの体力の回復に役立っていないじゃない、とディアナは言おうとしたが、その時ドアが開いてブレナンが入ってきた。授業の時間だった。レーンに対してブレナンが行う講義を、ディアナも一緒に受ける。授業の内容は、貴族の跡継ぎが身につけておくべき教養や礼儀作法だ。今日は、聖伝についての話だ。ブレナンが静かに口を開く。


「前回、旧世界の人間は悪魔を呼び起こし、様々な災いを招き、その結果として地上が氷に包まれ、氷が解けた後には、わたしたちの国以外の国と、不信心な人間たちは海の底に消えた、というところまで話したのを覚えていますか?」


「はい、先生」


「地上が氷に包まれる前、人間は悪逆の限りを尽くしていました。それでも、神は地上を祝福してくださいました」


「不死の娘たち、ですよね、先生」


ディアナがいうと、満足げにブレナンはうなずく。


「その通りです。前回の授業をよく覚えていましたね。人が人を殺し、欲のままに他人を蔑ろにする時代でしたが、神が敬虔な娘達を選び、奇跡を起こしたのです。その娘達は、決して老いることなく、どんな怪我や病気をしても死ぬことがなかった。人々は驚き、畏れ、彼女たちを敬いました。そして、彼女たちの一人は絹糸を授かりました」


「教会の絹の布は、彼女が授かった絹糸でできてるんだったよね?」


「ええ。よく覚えていますね。ここまでは、よかったのです。しかし、悪い人間によって神の祝福は台無しになります。ある女が、老いないその娘の一人に嫉妬したのです。彼女は絹を授かった不死の娘を見出した男の、恋人だったそうです。神の奇跡を人が慕うのは当然のことですが、彼女にとっては不死の娘に男が心変わりした、と思ったのでしょうね。その女は、絹を授かった娘を亡き者にしようとしました。しかし、相手は不死の娘です。怪我でも病気でも神の奇跡でたちどころに治ってしまいます。その女は『食べて己の血肉にすれば、生き返ることはない』と思い、実行してしまいました」


「なんて、おそろしい……まるで悪魔ね」




「そうですね。そして、その女は罰を受けました。彼女の死体は永遠に腐ることなく、その魂は天国にも地獄にも行くことなく、今も彷徨っているのです」




「どこにも居場所がないのに、体だけがあるのね」




これ以上ない罰だとディアナは思った。世界は人と人の組み合わせでできている。絹の娘を食べたことで人の組み合わせからはじき出されてしまったのに、現世にあり続けなければいけないという中途半端な疎外感。いっそのこと、地獄の業火で焼かれた方が気は楽かもしれない。彼女のようにはなりたくないとディアナは思った。


 はっきりとした報いがある方が、人間はやりやすいのだ。レーンの治療も上手くいっているのかいないのかわからないから、ナオミは薬や祈祷やマッサージなど、あれやこれやと手を出しているのだ。挙げ句の果てには、この屋敷の人間はレーンを回復させるためだけに組み合わされている、と信じ込みつつある。わずかでもいいから、レーンが回復する根拠が欲しいのだ、


 ブレナンの講義はそこからありふれた人生訓になった。人と人とは助け合い、それぞれの役割を果たしながら世の中を回していくもので、それは神様の御心にも叶うことであり、天国に行きたければそのようにせよ、といったつまらない話だった。


 ディアナは彼の話を聞き流しながらふと思う。ママは女の子はいい母親になるための準備期間、というけれど、いい母親になるためにどうしたらいいのかは教えてくれない。ママはレーンを良い跡継ぎにするためにブレナン先生を雇ったのに、わたしには家の外に出るな、と言うばかりなのだ。まるで、わたしの事を見たくないかのように。ママはわたしの事、嫌いなのかな、となんとなくディアナは思ったが、すぐに否定した。

ママはレーンが好きだ。レーンのきょうだいのわたしの事が、嫌いなはずない。なにより、ママはわたしのママだ。絵本の中と同じように、ママは子供の事が好きで、子供はママのことが好きなのだ。今はレーンの体調が悪いから、ちょっと一生懸命になっているだけ。ディアナはそう、自分に言い聞かせた。

一週間後、ディアナは約束通りに虫の標本箱を持ってレーンの部屋に向かった。両手がふさがっているので、ペンダントは首にかけた。廊下を歩いていると、向かい側から歩いてきたナオミと鉢合わせした。


「ディアナ、なに、それ?」


「虫の標本よ。レーンが見たいって言ったから、見せに行くの」


ナオミは虫、と聞いた瞬間表情をゆがめ、ディアナの手から木箱をひったくった。そして、ずかずかと歩き、居間に入った。そして――赤々と燃える暖炉に、ディアナの標本を投げ込んだ。


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