悪魔
悪魔が封印されている地の底へ、ディアナは一歩一歩階段を下っていく。足が痛んだが、ディアナはレーンの皮を被った存在としてしか自分を見ない人々のところへ戻ろうとは思えなかった。全員殺してやる。封印のやぶり方なら、召使から聞いた。悪魔を開放すれば、きっと、きっと全部ひっくり返るはずだ。
どれほど歩いただろうか。永遠に続くかと思われた階段は、不意に平地になった。そして、通路をふさぐように、黒い三つの扇を円く並べたような模様が刻まれた金属の扉が出現した。ディアナが扉をいくつも押し開けていくと、通路の様子が変わっていった。無機質さは変わらないが、灰色の石の代わりに、くすんだうす緑に塗られた無数の金属の管と柱から構成される空間になっていた。
廊下の突き当たり、もう見あきた黒い三つの扇を円く並べたような模様に加えて、黒地に黄色で「CAUTION」と書かれた扉が見えてきたとき、ディアナの胸は高鳴った。もう少しで、悪魔が封印されている場所だ。ディアナは厚い扉を押し開けた。そこには、がらんとした部屋があった。部屋の中央に厚くほこりが積もった大テーブルが置かれ、壁に沿って机と椅子が並べられていた。壁には黒の四角い装飾がランダムにはめ込まれている。ディアナは立ち上るほこりを気にせずずんずん進んだ。一番贅沢そうな椅子の前に、目当てのものはあった。ガラスの箱で覆われた、黒と黄色のしま模様の線で四角く囲まれた、毒々《どくどく》しい赤色に塗られた丸い石。これが悪魔の封印されている座だ。ガラスを破り、丸い石に強く触れれば、悪魔は解放されるのだという。
ディアナはカンテラをガラスの箱めがけて振り下ろした。派手な音とともにガラスが飛び散る。砕けた破片がカンテラの炎を反射して火の粉のようにきらめいた。ガラスの箱は今や無数の鋭いかけらとなり、赤い石とディアナを隔てる物はなくなった。あとは石に強く触れるだけだ。ディアナはカンテラを机に置き、石へと右手をのばした。
『ま、待って! ちょっと待って! あなたは願いを叶えなくてもいいの?』
突然大声がした。ディアナは反射的に右手を引っ込める。あの声は、私の前からした。目の前には、壁しかないはずなのに。ディアナがカンテラを持ち上げると、目を疑う光景がそこにあった。
黒いドレスの少女が宙に浮いていた。
長い髪も目も地の底の闇が凝固したかのように黒い。ドレスにひび割れのように入った白いフリルに比べて彼女の肌が黄色っぽいのは、カンテラのオレンジ色の炎のせいだろうか。背中から生えた禍々《まがまが》しいコウモリのような翼は、日が落ちる寸前の夕焼け空のような、終わりを感じさせるような赤だ。どうしてか、ディアナがカンテラの角度をいくら変えても、彼女の顔の右半面は髪の影に隠れて見えなかった。
「だ、だれ!?」
『こ、こんにちは!! 私悪魔!! この度は封印解いてくれてどうもありがとう! 悪魔を開放するってことは、神を裏切ってでも叶えたい願いがあるんじゃないの?』
「え、なにも押してないけど」
『ガラスを割ってくれただけでオールオッケー!! 問題なし!! そのボタンは押さなくてよろしい!』
「で、でもこの赤い石を強く押して封印とくって」
『押したら速攻で魔界に帰れるだけの魔力が手に入るから、すぐ魔界に帰るわ! 人間界はこりごりなの! まあ、折角封印を解いてくれた人間だし、思い出づくりのために願いをかなえてもいいかなとは思ったけど! とにかく、それを押したら私いなくなるわよ!! なんにも願い叶えたげない!!』
「ちょっ、ちょっと待って!!」
悪魔を引き留めるため、ディアナは悪魔を思い付くままにおだてたり、どれだけ自分が悪魔を必要としているかについて話した。それが功を奏したのか、悪魔はディアナと契約する気になったようだった。彼女との会話から、ディアナは三つの情報を得た。
この悪魔に魂を売れば世界を変えるほどの知識を貰える。悪魔に魂を売るということは死後の安息なし。地獄行き。知識以外は特に何もない。物理的干渉は全くできない、というものだった。ディアナは拍子抜けした。
「世界を壊してくれるんじゃないの?」
『積み上げた積み木を叩き壊すのと、別の方法で組み上げ直すの、どっちが大変?』
「……あとの方」
『飲み込みが早くてよろしい』
「つまり、あなたは世界を壊すんじゃなくて、変える力があるってことなのね」
『そう。私にできる事の説明はこれでおしまい。世界を壊すことにこだわるなら、他をあたってちょうだい』
別の方法で組み上げなおすのならば、別の積み木に変えてしまうこともできるのではないか。ディアナを認めない貴族たちを、すべて消してしまうことだって、できるのかもしれない。それに、ディアナには別の悪魔の心当たりなどなかった。答えは決まった。
「契約するわ。どうしたらいいの?」
『神を裏切る覚悟はした? 神を捨ててまでして私に魂を売るつもりがあるなら、その証拠として私にあなたの名前を教えなさい』
「そんなのでいいの?」
悪魔は契約を望む人間に対して、ミサや洗礼をおぞましくしたような儀式を行うよう求める、と本には書いてあった。悪魔はうなずいた。
『名前ってものは、呪文の基礎にして根幹なの。名前も知らない相手を呪える?』
ディアナは少し考えてみた。
「……難しい気がする」
『でしょ。名前っていうのは大事なものなの。どんな事象も、名前がなければ忘れ去られる。名付けさえあればそれは掴みどころのある、理解できるかもしれないものになる』
悪魔の言葉に、ディアナはなぜか【ディアナ・ファーガス】の名前が刻まれ、レーンがその下に埋葬されることになった墓石のことを思い出した。
あの下に本物のレーンがいることは、どこにも記されなかった。きっと、忘れられるだけなのだ。ディアナが生きていることも。
生きながら名前を奪われるということは、その寄る辺のなさゆえに毎瞬殺され続ける苦しみを味わうようなものなのだ。いままで受けてきた仕打ちが、どっとディアナの脳裏に押し寄せてきた。悲しみとも怒りともつかない感情の渦にディアナが黙っていると、悪魔が口を開いた。
『ま、一応礼儀として私から名乗っときましょうか。私は河原せりか。カワハラが名字でセリカが名前。とおーい昔の極東の島国の人間の名前。あなたの名前は?』
「……レーン」
『それは、あなたが演じてる人間の名前でしょう? 私が聞いてるのは、あなたの、名前』
「わかるの!?」
『そりゃ、男の子のフリしてる女の子ってことくらいはね。で、あなたの名前は?』
「私……私は、私は……ディアナ」
名乗りながら、ディアナはなぜか視界がにじむのを止められなかった。ぼたぼたと金属の台の上に雫が落ちていく。死後の安息が無くなったのが今更怖くなったわけではなかった。どうしてかとても嬉しかった。言葉にできない感情が、とめどなく目からあふれ出していた。まさか悪魔に自分が【ディアナ】として認められただけでこんなにも救われた気分になるのか、ディアナは分からなかったが、ただただ火傷しそうなほど暖かい気持ちをディアナは感じていた。
『よろしい、契約成立! これから私はあなたに取り憑くからね』
「世界を変えるって、どんなふうにするの?」
そうだった。世界を変えるためにここに来たんだった。ディアナは涙をぬぐった。
『そうね……この世界には絹がもう作れなくて、ほんのちょっと残ってる絹も、女人禁制の教会の管理なのよね?』
「そうだけど」
あたりまえのことだ。どうして悪魔はそんなことを聞くのだろうか。ディアナは不思議に思った。悪魔はにやりと笑う。
『そんな絹を、とびっきり身分の低い女の子たちを使って、もう一度作って見せたら、世界がひっくり返ると思わない?』




