琴の音色は昔日を連れて
「エリエラ、あなたにプレゼントがあります」
いつものように食事を終え、後は寝るだけだと皺になったシーツを直していると、ミーランはその食器を下げるのと入れ替えたように何本もの弦のついた物体を運んできた。
その物の幅はドアよりも広く、そのままでは入りきらないからと一度縦にするとそれはゆうにミーランの頭を越した。
そのよくわからない何かを、床と同系色のカーペットが引かれた場所へと降ろすと次に私をベッドからその場へと運んだ。
「これは……何ですか?」
手の触れられる距離に近寄ったそれに視線だけ向けて、先ほどから抱き続けている疑問をぶつけた。
少なくとも今の私にはこの物体の名称や用途はわからない。ミヒメソ皇国に来る前はおろか、この国に来てから与えられた多くの書物にも書かれていなかったのだ。
「琴です」
「琴……」
反芻してみたものの、やはり私の頭の中に該当する物はない。
つまり正真正銘、知識も何もない、私にとっての未知のものであるといえる。
「そちらは皇帝陛下より贈られたもので、1ヶ月後の陛下のお誕生日に弾いてみせろとのお言葉も賜っております」
「弾く、ということは楽器か何かですか?」
「はい。指に爪を装着して、弦を弾くことで音を奏でることが出来ます」
「そう、ですか」
最近、ミーランの持ってきてくれる本の数も減り、その割には娯楽がそれくらいしかないせいで読むスピードが速くなってきていた。要するに時間が有り余っている状態なのだ。
そんな中でのこの贈り物。
よりによって私の苦手分野である楽器の演奏ではあるものの、ミーランの居ない時間に暇を潰せるというのはありがたい。
「簡単な説明は明日、記載された本をお持ちいたしますのでそちらを参考にしてください」
「わかりました」
その後、再びベッドへと戻された私は布団を首までかけられ、そしていつものようにミーランに抱かれながら眠った。
翌日、ミーランは宣言通りいくつかの本を持ってきてくれた。
明らかに子ども用であるそれらは、音の並びはもちろんのこと、座り方や爪の装着の仕方、弦の弾き方まで細かく記載されており、つい昨日琴と初対面を果たしたばかりの私にはちょうど良かった。
だが元々音楽センスというものが備わっていない私は、その日中に本に書かれているような綺麗な音を出すことは出来なかった。
あまりにも出来なさすぎて本の記載事項を疑ったくらいである。だがその考えは昼食を食べさせに来たミーランによって砕かれた。
「上手くはありませんが……」
そう一言前置きをしてから奏でられた音は、私の下手な音よりもずっと綺麗で、これが琴の音色かと頭に染み付いたほどだった。
それから何度かの夜を迎えた私ではあるが、一向に改善する兆しは見えてこない。
最近ではミーランと、度々訪れて来る皇子にも聞いてもらってどこか悪いのか指摘をしてもらうようにはしているのだが、私が上達するよりも早くミーランが根を上げた。
「私がエリエラの代わりに演奏します」――と。
この部屋から出ることがほとんどない私には琴が与えられてからどれほどの時間が経過したのかはわからないが、おそらくはタイムリミットまで残りわずかといったところなのだろう。
与えてくれた陛下には申し訳ないものの、後どれくらいあるのかわからないがまともに音すら出せない私に楽曲を演奏してみるなど遠い話である。
「ミーラン、気持ちはわからないでもないが父上の楽しみを取ってやるな」
「……」
「俺を睨んでもムダだ」
無表情での視線の交わし合いもとい睨み合いが終わると皇子ははぁとため息を零した。
「俺が教えてやろう」
「ダメです。あなたが教えるくらいなら私が」
「仕事が立て込んでいるだろ。それにお前より俺の方が上手い。頭は敵わないが琴なら自信はある」
「まぁ、そうですが……」
渋々といった様子のミーランを皇子は丸め込むと早速部屋から出て、もう一つ琴を部屋へと持ち込んで来た。
「こういうのははっきりいって感覚だ。俺の指先を見て真似してみろ」
「はい」
皇子の指先に視線を注ぎ、そして目に焼き付いたその行動を実行してみる。だがやはり中々上手くはいかない。
すると傍観を決め込んでいたミーランは私の背中へと回って、私の手に自分の手を重ねた。
「こう、ですよ」
そして手の離れた指で、今度は自分だけで奏でてみる。
「こう?」
「そうです」
「次は指の移動だな。出来るだけ自然な動きが出来るようになれ」
それからミーランと皇子を指導者として迎えた猛特訓が始まった。
2人ともスイッチが入るとトコトンまでやる性格のようで、皇子の迎えが来るまで毎夜特訓は続いた。
その甲斐あって、皇子が初めに用意した5枚の楽譜を全て弾けるようになるまでそう時間はかからなかった。あくまで体感ではあるが、1人でひたすらに弦を弾いていた頃よりも短かったようにも思える。
そして今日、いよいよ皇子は新たな楽譜を手に部屋へとやって来た。
今までとは違い、ひどく色の焼けた楽譜である。端々は破けたり、クシャクシャになってしまっているそれを私の前へと差し出した。
「父上の前で演奏するならそれがいい。父上が一番気に入っている曲で、それほど難しくはないからな」
そう前置きをしてから自分の手元へと戻すと、皇子はその曲を演奏してみせた。
皇子の指先が奏でる優しいけれどどこか寂しいその音色は懐かしのメロディーだった。
昔、母が機嫌のいい時に聞かせてくれたその曲はこの国のものだったのかと、鼻の奥がつんとするのを感じた。
それから私は母との思い出を貪るようにその音を奏で続けた。
全ては気乗りしなかったはずの演奏会に向けて。
2度目の対面を果たした皇帝陛下の前で、そこそこ上手くなったのではないかと自負しているその曲を、弦を弾きながら母の歌だと自らの耳にも入れる。
懐かしいそのメロディーを奏で終わると、玉座から零された言葉は「下手だ」のただ一つだった。
上手いと褒めて欲しかった訳ではないが、頭に降らされたその言葉が無性に胸を刺激するものだった。
「失礼いたしました」
だが私は見てしまった。
一礼し、ミーランの背中に腕を回したその直前、チラリと見えた皇帝陛下の瞳がどこか温かみを帯びていることを。
「また、聞かせにくるといい」
部屋を去る直前にそう聞こえたような気がして、私はそれから何度でもミーランに頼んであの部屋へと連れて行ってもらうのだ。
「下手だ」
皇子からお墨付きをもらった今でも、やはり陛下は褒めてはくれない。
だがそれでいいのだ。
これは不器用な私と陛下が、19年近くの空白の時間が存在する私達がコミュニケーションをとるためのものなのだから。