1話
突然のことだが、本日この時をもって我がシェパードレア家は貴族の地位を剥奪された。
「なぜだ!」
今まさにお父様は玄関先でその通達にやってきた兵士の胸ぐらを掴んで揺らしている。
その姿を数歩離れた位置で見ている私の心はお父様とは正反対にそんなことしても無駄なのに……と冷めている。
書状にはこの国の最高権利者である国王様の印が押してある。
つまりこの決断は天地がひっくり返りでもしない限りは覆しようのない事実。ゆえにどうしようもないし、足掻くだけ無駄なのだ。
幼い頃よりよくお姉様と比べられては冷めた子だと、人として欠陥があるだの、数々のダメな子どもの烙印を押された私はお父様の背中を見つめることをやめ、そそくさと自室へと帰ることにした。
貴族でなくなるなら幼少期から嫌という程叩き込まれた礼儀を欠いたところで問題はないと判断したのだった。
お父様に掴まれたままの兵士とは他の兵士と目が合ったのだが、彼は私を咎めることはなかった。
ずっと無表情のまま、同僚と思わしき兵士が絡まれているのすらも気にした様子はない。
お父様の隣では意気消沈とばかりに床にへたり込むお母様に至ってはきっと彼の視界にすら入っていないのだろう。
ただ彼はずっと私のことを見ていた。
私も階段から目の端で彼を捉えていたが、やがてその端にすら映らなくなった。それでもきっと彼は未だに私のことを見ているのだろうと確証めいた何かが私の中にあった。
***
なぜ我がシェパードレア家の爵位が剥奪されたのか。
それは主にお父様とお姉様の行動が原因だった。
お父様は国王陛下より西の領地の統括を任されていることを悪用し、物流やカネの流れをいじったのだ。
全ては私欲のために。
そしてお姉様はお忍びで短期留学していた隣国の姫君に危害を加えた。
周りからチヤホヤされている彼女が気に入らないからと100パーセントの悪意を持って、故意に姫君を傷つけた。その結果姫君は全治一ヶ月の怪我を負い、国際問題にまで発展した。
そのことがほぼ同時に発覚し、一家揃って田舎の未開拓の土地に飛ばされるだけでは済まされず、地位の剥奪をされるまでに至ったのだった。
――と私は先ほど兵士の一人が長々と読み上げた罪状によって知りえたのだった。
この国では死罪というものがないため、貴族にとって一番の罰は貴族としての地位の剥奪となる。ようはそれだけのことをやらかしてしまったのだ。
お父様が悪事を働いていたことも、お姉様が姫君に危害を加えたことも、赤の他人の口から初めて聞かされるなんて全く悲しいものだ。
涙も出なければ、表情一つ動かないのだが、これでも『悲しい』という感情までは死んではいない。
それでも私に爵位剥奪を阻止する術がないのもまた事実。
私が出来ることといえば、こんな私の婚約者を12年にも渡り勤めてくれたアレックス様に謝罪の手紙をしたためることだけ。
それも届くかどうかはわからない。どちらかと言えば届かない割合のほうが多いだろう。それでも一応届くことを願って送るというのが筋というものだろう。貴族としての礼節を欠こうとも、人としての義理はあるのだ。
部屋に帰り、適当な便箋で手紙をしたため、封をしたものを今日付けで解雇にせざるを得ない使用人の一人に託すとようやくお父様が階段を上がって、私の自室めがけて歩いてくる。
「お父様」
唯一の用事を済ませた私が事務的にお父様に駆け寄ると産まれて初めてお父様の涙を見せられた。
「すまない。私が不甲斐ないせいでお前にはこれから苦労をかける」
私の前で深々と頭を下げるお父様はもうお父様と呼べるような人物ではなかった。
欲に溺れ、そして散っていく一人の寂しい男に過ぎなかった。
その隣にはもうお母様の姿はない。きっと逃げてしまったのだろう。
「私は悪くないわ」――それがお母様の口癖だったのだから。
今回だってそう残して去って行ったに違いない。
全てから逃げ出したお母様は知らないだろう。お父様とお姉様がどうしてこうなってしまったのかを。
だから私は悪くないと関係ないのだと言い捨てることが出来るのだ。
お父様もお姉様も、そして私ですら知っていることをきっとお母様は知らない。
お父様はお母様の気を引くために己の全てを投げ打った。
それが罪になることを知っていても愛する女を繋ぎ止めておきたかったのだ。
お姉様は私よりもずっとお母様が大好きで。
「私はお母様似だからいずれは社交界の華になるのよ」
そう言ってお母様には全く似ても似つかない、かと言ってお父様と似ているわけでもない私を笑っていた。
お姉様を庇うわけではないけれどそれに悪意などなかったのだ。
ただお姉様はお母様に似ていることが嬉しかっただけだった。それを自慢する相手は妹の私がちょうどよかっただけ。
ただそれだけだった。
けれどそれは綻びに気づくには十分だった。
幼い頃からお父様にもお母様にも似ていない私。
お母様の特徴だけを受け継いだお姉様。
そして内面ですら似ていない私たち姉妹。
お姉様は私が嫌いだったわけではなかった。むしろお姉様は感情の起伏が表には出づらい私を気にかけていた。
「あなたは本当にダメな子ね」
憎まれ口を叩きながらもお姉様は得意のピアノを聞かせてくれたし、幼い頃には表情の乏しい私にお父様に与えてもらった本を熱心に読み聞かせてくれた。
だから違和感を抱いてしまったのだ。
妹の私があまりにも家族の誰とも似ていないことに。
そして偶然にも知ってしまった――私たち姉妹が異父姉妹であることを。
お姉様は深く傷ついた。
純情な人だったから余計に。
そしてお姉様はお母様の気を引くためにお母様のいいなりになった。
そして努力家のお姉様はそれから僅か数か月後に行われた王子様の婚約者選考が目的の夜会で婚約者の座をもぎ取った。
全てはお母様に見てもらうために。
だがそんな中、とある女性が王子の隣にやってきた。お姉様は王子に一切の好意はなかった。それでも、王子の隣に立つのは自分でなければならなかった。
お姉様はずっと間近で見ていたからだ。役に立てない子がどんな扱いを受けるのかを。
お母様に呆れられようとも見捨てられようとも私にとってはなんてことなかったが、お姉様にとってそれは絶対にあってはならないことだった。
だからお姉様はその女を排除しようとした。
今更悔やんだところで遅いのだが、もしもその時のお姉様がほんの一割でも冷静さを持っていたならば、遠目からでも拝見したことのある隣国の姫君を傷つけるはずもなかったのに……。
「ねぇ、お父様」
「なんだ」
「お母様がいない今、私に気を使う意味はないのではないでしょうか?」
お父様の頭に向かって娘がかける言葉としては酷いものだろう。
けれど、私ももう知ってしまっているのだ。
「……気づいていたのか」
「ええ。だって私はお父様ともお母様とも似ていませんから」
目の前のお父様は私の『父親』ではないことを。
「……そうか。ならもう隠さなくていいな」
「隠すも何も全てを知っていますから」
「全て、を……」
「ええ。お父様がお母様を一方的に愛していたことも。繋ぎ止めるために罪を犯したことも。お母様が何人もの男と関係を持っていたことも。……そして私がお父様とは血が繋がっていないことも。それを隠そうとしていたことも」
そのことを知ってしまったのはお姉様のように偶然、というわけではなく、夜会から帰って来たお母様がわざわざ夜遅くに私を呼び出して話して聞かせたのだ。
当時はそれが真実かどうか確証はなかった。その時のお母様は夜会帰りなのに体中にアルコールの匂いを纏っていて、正気を保っているようには思えなかったからだ。
それでもお母様の言葉はずっと頭に残り続けていた。
そして先ほどの出来事が私の記憶に眠っていたそれが事実であることを証明したのだった。
『あなたはいらない子なのよ』
私にそのことを話して聞かせた、顔を赤らめたお母様は私の『父親』を恨んでいるようだった。
そしてその男との間に産まれてしまった私のことも、少なからず憎く思っていたらしい。
そしてお母様は言った。
「私は悪くない。産まれてきたあなたが悪い」――と。
酔ったときですらいつものように責任を他人になすりつけていた。
「そうか。だが一つだけお前の知らないことを教えてあげよう」
「知らないこと、ですか?」
他に何があるというのか。
そう躊躇なく聞けたのはこれ以上情報が増えたところで私が傷つくことはないだろうと思ったからだった。
「お前は逃げなくてはいけない」
「逃げる?」
「ああ、そうだ。お前の本当の父親から返せともう何年も言われ続け、今回実力行使に乗り出したんだ」
「もしかして今回のも……」
「彼が仕組んだことだろう。娘だけ置いて立ち去れと言ってきたよ」
「ではなぜあなたはまだここにいるのですか? 実の娘ではない私を置いて去ればいいじゃないですか。なのに何故……」
「君は私の子だよ。血が繋がっていなくても、ね。そして子を守るのは父の務めだ」
お父様の口からそんな父親らしいことを聞いたのは初めてだった。
お父様の中の優先順位はいつもお母様が一番で、そして私が最下位だったのだから。血が繋がっていない、赤の他人だから仕方のないことかもしれないが、だからこそその言葉は嬉しかった。
義務のように与えられていた誕生日プレゼントよりも、身分のある男の目を引くために仕立てられたドレスよりも、ずっとずっと。
それは私のためだったのだから。
けれど幸せとは儚いものだ。
一年に一夜だけ咲くのだというお母様のお気に入りの華よりも散るのは早い。
「そんなにゆっくりしていて逃げられるとでも思ったのですか」
お父様の背後から出て来た無表情の顔は淡々と、抑揚すらつけずに言い放った。
「この子は渡さない!」
「あなた一人が生涯不自由なく過ごせるだけの金とその子を交換することの何が気に入らないのですか」
「愛する家族を売るくらいなら死んだ方がマシだ!」
「殺しませんよ。あなたが国王から一貴族として見放されたとしても、それでもあなたはこの国の国民であるという事実は変わりませんから」
「ならどうするのだ? 私はこの子を死ぬまで離さないぞ!」
私を抱きしめるお父様の息遣いが頭上で途切れることなく奏でられる。
お父様は私の表情なんて気にしている余裕なんてないだろうけれど、私の頬は珍しく、ほんの少しだけ動いている。
こんなときに、と怒るだろうか。
親戚のように私にやはりお前は欠陥品なのだと吐き捨てるのだろうか。
それでも私は嬉しいのだ。
お姉様はお城の牢屋の中で、お母様に至ってはもうどこに行ってしまったのかすらもわからない。
残っているのは私とお父様だけで、お父様は私を愛していると言ってくれた。
…………もう十分だ。私は十分すぎるほど幸せなのだ。
お父様の固く閉じた腕に優しく手を乗せて解く。
それは思ったよりも簡単で、自然とお父様の一歩前に立つ形となった私は無表情の彼を見据えて尋ねた。
「『わたし』はおいくらかしら?」
まるで城下町の平民が買い物をするように。
私にとって『わたし』は商品なのだ。
市場で並べられるリンゴやショーウィンドウの中で輝くダイヤモンドと変わらない。
「何を言っているんだ?」
けれど私とお父様は価値観が異なるようで、お父様の言葉は信じられないと震えていた。
「一億は用意しました。一人なら一生豪遊できるでしょう」
「あら、私はそれくらいしか価値がないのかしら。せめてその三倍は欲しいものだわ」
「三倍、ですか。わかりました。すぐに用意させましょう。その代わりあなたにはすぐにこちらに来ていただきます」
「ええ、構わないわ。煮るなり焼くなり、生かすなり殺すなり好きにするといいわ」
彼は私に手を差し伸べて、私はその手を取った。
私の一世一代の交渉は思ったよりも簡単に成立したのだ。
「エリエラ、何を言っているんだ! 私は、私はそんなこと認めない!」
「私、お父様のこと大好きよ」
「な、何を……」
私はお母様に疎まれていたし、当然お父様も私を嫌っているのだと思っていた。
だから正直なぜお父様が私を育ててくれるのかわからなかった。
これが体裁ってものかとも思った。
それでも、どんな理由であろうと育ててくれることに感謝していた。
それは私からの一方的な思いで、一生伝わることのないものだと思っていた。
けれどお父様はこんな私を愛する家族と言ってくれた。
「だから幸せになって」
欠陥品の私がお父様に返せるものなんてほとんどなかった。けれど無表情の彼は私に恩返しのチャンスをくれた。
口を開けたまま呆けているお父様に再び背を向けて、無表情の、名前も知らない彼に手を引かれながら私は進む。
高級なソファに腰掛けながら馬車で揺られて、目の前には私と同じような無表情の彼が背筋をピンと張ったまま座っている。
「あなたには私の妻となってもらいます」
何時間も馬車に揺られて、唐突にそう告げた時ですら彼は顔色ひとつ変えなかった。
「わかりました」
そう答えた私の表情も変化はないのだろうが。
「聞き分けがいいんですね」
「煮るなり焼くなり、殺すなり生かすなり好きにしてくれていいと言ったでしょう?」
「どうやら血というものには抗えないらしい。過ごした環境が違えどもあなたはやはり皇帝の娘だ」
「『皇帝』――それが私の本当の父親ですか?」
「はい。あなたはミヒメソ皇国第十五代皇帝の第二皇女なのです」
「そうですか」
本当の父親がお父様でないことは知っていた。けれど本当の父親が果たしてどこの誰なのか、それは決して教えてはくれなかった。
どんなに相手を恨んでいてもその名を口に出すことはなかったのだ。
『ミヒメソ皇国』――その名を耳にしたのは初めてで、当然どこに位置している国なのかも知らない。
けれどそれはとても遠い国で、そして私のいた国を潰せるくらいには力がある国なのだということだけはわかった。
必要事項を告げたらしい彼は自分の名前さえ名乗ることなく再び口を噤み私をじっと見つめた。
それは今から妻になる女に向けるものではないけれど、先ほどまでの値踏みするような目とも違った。
今の会話で私のことを少しでも認めたらしかった。
それからも変わらず馬車で揺られ続け、私が睡魔と格闘していると長時間走り続けていた馬車は唐突に止まった。
「着きました」
彼の言葉に私はすでにミヒメソ皇国に入国したことを知った。
横抱きにされ降ろされた地上で見た風景は見慣れていたものとは大きく異なった。
けれど目の前の、視界全てを覆い尽くすそれが城であることだけはすぐに理解した。見慣れていた城とは形状も色も、そして規模さえも全く違うけれどそれは紛れもなく城だった。
その奥から一人の、帽子を被った男がたくさんの使用人を引き連れてやってくる。
男は身を包む色とりどりの見慣れない服装とは真逆に、やはり表情はなかった。
よく見ると男だけではなく、周りの使用人も一人として表情筋が機能しているものなどいなかった。
ああ、私はここの人間なのだ。彼らを見た私は妙に納得してしまった。
「我が娘よ、18年と6ヶ月26日ぶりだな」
帽子の男は私にそう告げた。
2ヶ月ほど前に19歳になったばかりだから彼と最後に会ったのは生後3ヶ月の頃といったところだろうか。
「お久しぶりです」
会ったのはもう昔のことで、記憶なんて残っていない。ほぼ初対面に等しいのだ。久しぶりも何もないだろう。けれど返せる言葉といえばそれくらいしかない。
「聞いているとは思うが今日からお前はミーランの妻だ。我が娘として、そしてミーランの妻としてよく励め」
男はそれだけ言って背を向けた。
どうやらミーランという名前らしい男といい、私の本当の父親といい、この国の男というのは自分の言いたいことだけ言うとそこで会話を終了してしまうらしい。
それからミーランには荷物のように横抱きに抱えられ、城の中へと入っていった。
そしてしばらく進むとミーランはずらりと等間隔に並んだ真っ白なドアの一つに手をかけた。
開かれた部屋にはベッドと窓、そして天井から吊るされている電球以外の何もなかった。
壁紙も床もベッドも窓枠も全部が真っ白。色と言えば電球の発する黄色がかった光と窓から見える景色だけだった。
「夫婦としてこれからよろしくお願いします」
色も碌にないこの部屋で無表情な夫と表情の乏しい私の新婚生活が始まるのだった。