第十九章 「所詮その程度」 2
なにか引っかかっている。
心の隅で、腹の奥底で、血液の循環を止めるなにかが潜んでいる。
おれの心を巣食っている。
不快だ。
思い出そうとしても思い出せない。
思い出そうとすると余計霧が濃くなる。
けれどそれが大切なことなのは理解している。
絶対に忘れてはいけないなにか、絶対に守らなくてはならない約束。
笑顔が脳裏を過ぎった。
笑顔? 誰の。
ああ駄目だ胸糞悪い。
おれは本当に無能だ、なにかを思い出すこともできない。そんな奴、この社会に必要ない。ただ食って寝て、金を払って生きながらえて、なにもせずに死にゆく。
そんな奴、どこの世界にもいらない。
こんなとき、羽捻学斗ならどうするだろう。
あいつも体力はないが、おれも体力がない。
それゆえに少し外に出ただけで雨だというのにぶっ倒れそうになる。
今持久走の記録を取ったら異常値と勘違いされるほど遅いのだろう。
そういえばそんなおれをなぜ月島さんは憶えていたのだろうか。
昔なにかしたかと記憶を探ってみる。
なにも思い当たる節がない。
同じクラスになったことないし、おれが学級委員会に入ったことはないし、すれ違いざまに挨拶をされたこともないし、ゆえにクソラブコメでよくある展開の、実は片思いの相手でした、ということもない。
「ま、どうせ優等生なんだから学年全員の名前を覚えていてもおかしくはないか」
所詮その程度なのさ。
ついうっかり独り言を街中で呟いてしまった。
周囲からの視線が痛い。
やめろ、おれを見るな。
おれをおまえらのドラマに巻き込むな。
おれはおれでありたいんだ、おまえらなんかに決められてたまるか。
恐怖のあまり視線のない路地裏に駆け込む。
既に息が上がり肩を上下させている。
しかし恐怖は続く。
おれは見てしまった、見つけてしまった、視線を。
「見るなよ……おれを見るなよ……」
おれ自身を見るおれの視線。
窓ガラスに映って、おれを見るおれ。
おれは独りがいいんだ、もう誰も信じたりなんかしないぞ、希望を持たなければ絶望しないように、信じなければ裏切られることもない。
信じるとは裏切られていいと覚悟することなんだ。
信じるとは疑っているから言える言葉なんだ。
いつからかおれは言葉に精神を掌握されていた。
おれは高校生のころに父親と喧嘩した。
母親が病気を患った頃だ。
おれは父親にこう言った。
素晴らしいとは呆れているから言える言葉なんだ。
本当に憎んでいる相手には殺すだの死ぬだの暴言は吐かない。
いいんじゃない、そうすれば。そうやっておまえらはおれのことを見下しているんだ。
人間本当に軽蔑をしているときはなにも言わないんだ。
言葉なんかに契約力はない、だからおまえらはすぐに約束を破るんだ。
どうせ人間の命なんて一言で奪える。
おまえは金がないんだってずっと言ってるよな、どこにも行ってないって嘘ついて。
どこにも行ってないとは常套句だ。じゃあおまえは仕事にも行っていないのかよ。
いつかおまえは人の命を奪ってまで金を手に入れるんだろ、知っているんだよそう計画してるくらいは。
だからもう絶対に信じないぞ。
おまえと縁を切ってやる。
おまえはおれに〝よろしく〟も〝ありがとう〟も教えなかった。
そんな奴に対する感謝の言葉なんてあるはずがない。
もう二度と〝おはよう〟なんて言うな、その後ため息ついているのはわかってるんだ。
だったらするなよ、〝行ってきます〟も言うなよ、勝手に永遠にどこかに行って死んでろ。
おれの生活まで奪ってなにやってんだよ。
おれはおまえとは離れる。
もう二度と近寄るな、おれはおれ独りで生きてやる。
おまえらみたいなクソ邪魔な両親なんかいなくたって生きれるんだ。
だからもう二度とおれに関わってくるな。
おれは間宮三咲なんていう名前じゃない。
おまえらと同じ間宮なんて苗字も、おまえらにつけられた三咲なんて名前も捨ててやる。
高校もやめてやる。
引っ越してやる。
ずっと独りで暮らしてやる。
父親はおれをぶん殴った。
だからといって後遺症が残ったわけではないが。
おれよりも圧倒的に悪い方の父親がおれを殴ったのだ。
あいつは娯楽に、煙草に、酒に走っていた。
入院費も払わずに自分のためだけに金を使っていた。
そしておれの財布を盗んだ。
バイトして貯めた大金を全て娯楽につぎ込みやがった。
結果おれはその分の金を父親から盗み取ってから家を出た。
しかし偽名でアパートを借りることもできず、間宮三咲という名前は捨てられなかった。
高校はなんなくやめることができた。
なにせ元々金を払っていないので退学ギリギリだったのだ。公立校なのだが。
そしてそんな生活が始まってわずか数ヶ月だ。
突然携帯電話が鳴った。
知らない番号だ。
おれは無言で受信する。
通話相手の声が聞こえる。
「間宮三咲さんでしょうか。こちら――」
ああ、やっぱり縁なんて切れないんだ。
血が繋がっている以上、絶対に。
電話相手は病院の看護婦。
内容は、母親の容態が悪化した、というものだった。