第十三章 「幕開け」 3
またリーナのいた部屋に戻って雑談でとにかく時間を潰して、風呂。
そういえばおれはこの世界に来て全く風呂に入ってない。非常に久しぶりだ。
風呂に四日間入らないで学校に通った結果インフルにかかったというある意味黒歴史な懐かしい過去がフラッシュバックしたところで、この館の風呂の広さに驚いた。
ここをおれ一人で使うのか、どんなぼっちゃんだよ。
アーマードさんに風呂場に案内され、まさか一緒に入るとか言われないよなとかヒヤヒヤしていたが、お一人でごゆっくりどうぞとのことで、よかったと安堵した。
「何から何までありがとうございます、アーマードさん」
「いえいえ、これくらいのもてなしをできないようなら新王選挙の選挙権すらないでしょうから」
「ああ、そうか新王の候補者なんだっけ」
完全に忘れていた。
アーマードさんが出て行った直後、さて、と上着――というのかコートというのか――を脱いだ瞬間、ポケットから王の証のレプリカが落ちてきた。
「おおっと」
間一髪、なんとかレプリカを空中でキャッチすることができた。割れていたらどうなっていたことやら。
「どうなされました」とアーマードさんが更衣室に入ってくる。彼が出て行った直後だったので声が彼に聞こえたのだろう。
「いえ、このレプリカが落ちそうになって……あれ、小袋に入れてた気が……あ、小袋の底が破れている、今気が付いた。これはさすがに落ちるよな」
なんとおれの方で一方的に会話が進んでしまった。
「これは大穴ですね。ガクトさんが入浴中、縫っておきましょう。おっと忘れていましたが、客間には金庫があるのですが、そこにレプリカを一時的に避難させていてはどうでしょう」
「ああ、そうだな、風呂上がったらそうするよ」
「はい、それでは」と外に出て行った。
おれはその後何事もなく、風呂に入り、色々な出来事や不安や予感を回想しながら体を休め、上がって客間に戻ってレプリカを金庫に入れた。
元々上着を脱がないで寝ているため――なんといってもこの世界の夜はとても寒いのだ――寝返りした拍子にレプリカが割れては馬鹿馬鹿しい、という理由だった。
夜は少し時間があって、おれは大広間に顔を出した。
そこにはリーナがいた。
「リーナ、そこで何しているんだ」
「なんとなく暇だから」
「そうか。少し聞きたいことがあるんだけど、いいかな」
「うん、いいよ」
「おれは死ぬのが怖くって、ただただ夢中に生きているんだ。自暴自棄にもなった。なんでおれはここにいるのかわからなくて、なんで自分が認められないのか悔しくて奥歯を噛み締めた。これって悪いことなのかな」
「それだけなら良いことではないんじゃないのかな」
そう彼女はまっすぐに答えた。
相変わらず肌身離さず持っている巾着を揺らして。
「わたしも、このクリスタルを手放すのが怖くて、でもなんでだろうってずっと思ってた。今でもわからないんだけど、なんかこれを手放すと死んでしまいそうな気がして、それくらい大事なものだと思ってて、だからそんなわたし自身に嫌になったことがある」
「大切なものなんだな」
「うん。けどね、ずっと思ってるの。全ては結果じゃなくて理由なんだって。もし死ぬことが怖いなら、ただ怖くて怯えているだけじゃなくて、自分の命を守ろうとしているから怖いんだって」
「なんだそりゃ。つまり、怖い理由が、自分の命がなくなるのが嫌なんじゃなくて、自分の命を大事だと思っているということが良いことってことか」
「そう、ごめん、口が下手だから、上手く言えなくて。まあ、わたしって昔から怪我の治りが早かったからというのもあるとは思うんだけど。実は、サーシャルトスさんから受けた傷は完治しているんだ」
完治……すごいな。確かに怪我の治癒が早ければ他人をかばう理由になる。死ねないおれがそう言い訳をしていたように。
「わたしは思うの、大切なものを守りたいから、大切なものを守れなくなるから死ぬことが怖いなら良いことなんだって。大切な人を守りたいから死ねない、そう思えるなら良いことだと」
大切な人を守りたいから死ねない。
それなら良いこと。
ならおれはどうだろう、おれはなんで死ぬことが怖いのだろう。
「ありがとう、色々と決心した気がするよ、それじゃ、おれは寝る。おやすみ」
「おやすみ」
おれたちはわかれた。
ひょっとしたらおれは叱られたかったのかもしれない。
だから、リーナと話すことができてよかった。
おれはリーナやユリアやアンナを守るために戦う。
彼女らを守るためなら何度だって死んでやる。
彼女らを救えるなら何度だって命をくれてやってやる。
ハッピーエンドで終わるなら何度だってバッドエンドを経験してやる。
おれは幸せになるために、幸せにさせるために死を恐れる。
絶対にハッピーエンドで終わらせてやる。
死神なんて嘲笑ってやる。
おれは彼女らと仲良くなった。かつて元の世界でこれほどまで仲の良かった者がいただろうか。
いるにはいた。けれどきっとこんな命の話までできる仲ではなかったと思う。死んでも守ってやるなんて思える仲ではなかったと思う。
学校でだべって、飯を食って、時にはカラオケやゲーセンに行って、最後にはなんでおれたちこんなところいるんだろうなって笑って解散して、翌日全く同じことをするだけの仲だったにすぎない。
非常識を知れば今までの常識は朽ちて非常識が常識となるのだ。
非常識に魅了された者はいつか非常識に慣れて新たな非常識を知ろうとする。
おれは知りすぎたのだろう。
仲間の大切さを。
この世界のことを。
わからないということをわかりすぎたのだろう。
まるで中学生だが、そんなものだ。
おれは客間に戻って、剣を近くの位置に置き直して、ベッドに入った。
この世界でおれは幾多のことを経験した。
自分の死、他人の死、その痛み。
国家と反国家、社会はいつもわかれるのだということ。
突然の悲劇の理不尽さ。
他人に疑われる悲しさ。
他人が自分のために死んでいく虚しさ。
屍を燃やす者、自殺をする者。
勝利すること、敗北すること。
仲間の大切さ。
立ち止まってはいられない。
おれは他人のために生きる。
いちだって考えてきた「損をする人間」になってやる。
例え幾ら損をしようと、美しい人間に。
おれは女性の悲鳴で目を覚ました。
すぐに剣を握って、金庫を開けて証のレプリカを取ろうとした。
しかしそこにはレプリカがなかった。
嫌な予感が全身を襲った。
吐き気が奥底から湧いてくる。
吐きそうだ。気分が悪い。気持ちが悪い。
気持ちが悪い気持ちが悪い気持ちが悪い気持ちが悪い気持ちが悪い気持ちが悪い気持ちが悪い気持ちが悪い気持ちが悪い気持ちが悪い気持ちが悪い気持ちが悪い気持ちが悪い気持ちが悪い気持ちが悪い気持ちが悪い気持ちが悪い。
おれは勢いよく部屋を飛び出し、大広間を見下げた。
暗くて全くわからない、まだ目が慣れていない。
手すりに従って階段を降りる。
大広間を見回す。目が少し慣れた。
奇妙な、吐き気を増幅させる音が聞こえた。
音のする方向に振り返る。
おれは知っちゃいけないこの音を知っている。
液体の噴き出る音、液体の流れる音、液体の滴る音。
何者かが振り返る音、液体の飛び散る音。
そして歪んで静まり返ってただ完全に希望の消えた暗闇という無の空間。
おれはこの状況を知っている。
おれは呼吸を忘れた。
心臓の脈が止まった。
アーマード・ケルビンズがおれの王の証を持って、見覚えのある巾着を持って、血だらけの剣を握って――――
リーナを殺していたからだ。




