第十二章 「アナザー・パーソン」 1
「リーナ!」
おれは叫ぶことしかできなかった。
穴の奥で大剣に薙ぎ払われる少女を眺めることしかできなかった。
「おい……英雄、おい! 少女を斬りつけて何が英雄だ! ふざけるな!」
片腕のない鬼がどこにいるのか、塔の裏に吊られているおれには見当もつかないが、ただ怒鳴る。怒りを我慢することなどできまい。
「ガクト様!」珍しくユリアが叫んだ。
彼女の顔は必死だった。なにに、それは当然おれを支えることに。彼女は戦闘技術はあっても筋力があるわけではない。十八歳の男を片腕で支えるには限界がある。
かといっておれの意識は朦朧とし、全く自力で戦場に復帰できそうにない。
けれど諦めるということが最悪の選択肢であることは言うまでもない。
この世界の時間をおれは無限だと思っていた。けれどまだユリアとの関係を築けていなかったときに知った。この世界は有限なのだ。もたついていると、何度もズルをしていると、取り返しのつかないことになる。
「ユリア……一ついいか」
おれは彼女につかまっていない方の腕を上げてなんとか屋上の床に手をかけながら問う。
「死の痛みに抗うのはマイナスか?」
おれは臆病なのか?
彼女は首を横に振った。
「抗っているなら、それは最強の瞬間。それに、他人の死にも抗えるならば尚更。その力を活用することがプラス」
途中駆けつけてくれたアーマードさんにも協力してもらっておれは戦場に復帰した。
「リーナ! 大丈夫か!」
一目散に彼女の元へ飛んでいった。
彼女は苦痛こらえてもがいている。今の英雄と同じ状態に陥っている。
見れば彼女の背中から大量の血が流れ出ていた。その血は黒い。
「早く止血しないと」
ユリアがいつも持ち歩いているのか、コンパクトな包帯をポケットから出して治療を始めた。
「あたしがリーナを看ているから、きみたちはサーシャルトスをどうにかして」
「わかった、恩に着る、アンナ」とおれは動揺を隠せないまま、リーナに、なにもできないおまえは怪我をするだけなんだから、安全な場所にいろと言ったのに、と怒鳴りつけたい感情を押し殺して英雄に向き直る。
サーシャルトスは屋上の隅でなにかに足掻いているように見える。
「ガクト様、あれ」と英雄を指差すユリア。「腕が治っていない」
確かに、サーシャルトスの腕が治っていない。影人は損傷した部位を影の力で形成する。すぐに治癒するはずなのだ。
しかし英雄のなくなった腕は一向に再生しない。
というよりも、むしろ。
「あれ、影を弾いているように見えないか」
回復の材料であるはずの影を拒んでいる。損傷部が拒絶している。影が身体にあたっては弾かれている。
それに英雄はもがいている。
「――――」
まるで少年漫画だ。
ゾンビはまだゾンビになっていなかった。
喋るはずのないものが喋ろうとしているのだ。
いや、確かに前振りは、伏線はあった。
おれに〝再戦だ〟と言ったのは彼だ。
彼の思考はかすかに残っていても、心や体を影に支配されているのだ。
「ディ……シ……ラを……」
「おい、なんて言った」おれは剣を握ってしかし英雄に駆け寄った。
「ディシヴァ……ラを……るな」
え? こいつはまさか。
「ディシヴァシーラを……忘れるな」
「あんた、憶えているのか! ディシヴァシーラを!」と叫んだのはおれの方だ。
英雄は奥歯を噛み締めていた。これはもう何に抗っているかなんて瞭然だった。少年漫画ならゾンビになりたくない一心で影に抗うのだろうが、彼は痛みに抗っているのだ。
腕を一本切り落とされているのだ、痛いはずなのだ。
「おれは知っているぞ、ディシヴァシーラという王国の名前を!」
正確には何にも知らない。けれど、他の全員は名前すら知らない。こいつは憶えているのだ。
英雄は少し驚いたように沈黙して、今度は絶叫した。けれど絶叫というよりは、アーリーと同じ雄叫びみたいな声だ。影人の咆哮みたいなものだ。
「ディシヴァシーラ……? 西の都?」とアンナが首を傾げる。
「ああそうだ今は影に飲み込まれて、知っているのはおれとトワイライトだけだと思っていた王国だ」
「あたしは知らない。けど……」アンナは徐々に声を小さくして考え込む。
きっとここでアンナもディシヴァシーラを思い出していたら本当に少年漫画みたいな展開だっただろう。
そんなことはなかった。そうなるはずがなかった。死んだ人間が戻らないように、なくした記憶は戻らないのだ。
おれが努力したことを忘れて、もう思い出すことなんてないように。
はっとアンナが顔を上げた。
「〝影を拒絶する守護〟だ! まさか本当にあったなんて」
「なんだそれは」
「影の影響を受けないクリスタルだってサテライトさんが言っていた気がする。もう昔のことだからあまり憶えていないけれど、それなら説明がつく。サーシャルトスは英雄だからそんな立派なもん持っててもおかしくないでしょ?」
「ああ、確かに」
「サーシャルトスは影が消した王国を覚えているし、このとおり、影を拒絶している。ひょっとしたらそのディシヴァシーラを憶えているきみも持っているかもしれない」
「馬鹿を言うな、おれが普段携帯してるのはこのトワイライトの剣だけだ……ま、まさか忠誠の証みたいにこの剣に!」
確認してみたが、宝玉は埋め込まれていたもののクリスタルはなかった。忠誠の剣にはクリスタルが埋め込まれているのに。ということはこの剣じゃない。
それに、この剣が仮にその〝影を拒絶する守護〟なら、トワイライトがこの剣を手放した後も自分自身の目的を憶えていたことに説明がつかない。
「それなら、そこにあるのかもしれない」
そういってアンナはおれの胸を叩いた。
「忠誠の証を割って王の証のレプリカに光を移しているんだろ? なら効力はクリスタルじゃあなくて光の方にあるんじゃないか?」
「なるほど。ええと、ルミエルテルだっけ、この光の名前。影を拒絶する守護版のそれがおれやサーシャルトスの体の中にあるからおれたちは影を拒絶している」
確かに英雄は腰に下げている忠誠の剣の証以外にクリスタルを持っていない。
でも、なら、だったら。
「なんで守護を持ってるあいつは影人になってるんだ」
影を拒絶するなら影人にはならないはずだ。
「守護の効力が切れ始めているのか、あるいは弱いのか。いずれにしてもきみよりはずっと効力が弱いのは確かだと思うぜ」
断末魔をあげてもがき、おれたちに、怪我をしているリーナにすら攻撃をしない英雄を見る目は既に同情のそれだった。
「おれとトワイライトだけが西都を知っていた謎が解けた。ありがとうアンナ、思い出してくれて」
「お礼はいいよ、あたしは……現状をどうこうしていないんだから」
「そうだな、サーシャルトスから忠誠の証をもらわないとな」
おれは立ち上がろうと床に手を置いた。
その瞬間だった。
少し前でもがいていた英雄の胸を一本の槍が勢いよく貫いた。
それはおれたち五人のものでもなく、上空からまるで天罰のように突き刺さったのだ。
「自分たちの目的は英雄から忠誠の証を手に入れること。しかし英雄は愉快に影人になっていた。いざ戦闘で腕を切り落としてみれば、影が効かない細工をしてあることに気付いた」
声が静寂に流れ込む。
「けれど痛みにもがいている英雄に口頭で忠誠の証を譲り渡して欲しいと頼もうとした。相手がもがいて断末魔を上げているというのに、説得しようとした。それは生き地獄を見せているのと同じじゃない?」
こちら側が口を挟まなければ一生喋っているような女がそこにはいた。
塔の屋上はコロッセオの闘技場のようでその円周上には壁がある。柱が数十本立っており、それを繋いで壁をなしているのだ。
その壁の上に口をひん曲げて慢心の笑みとしか例えようのない不気味な笑みを浮かべている銀色の長髪の女が立っていた。