第九章 「コーザリティワールド」 3
都立図書館にはもちろん数多の書籍があった。
どうしてここに連れて行きたかったのかリーナに聞けば、どうやらこの図書館は安らぎの場所で、表情の暗いおれを気遣ってくれたのだそうだ。確かにおれは本が嫌いではない。実は書店に行けば何も買わなくてもテンションが上がってしまうタイプの人間なのだ。
リーナはなにやら難しい本をおれへ教えに来たが、残念ながら今は読書に没頭する暇がないので、この図書館の雰囲気を楽しんでいる。
思えばおれは睡眠以外に休みを取っていなかった。ループを数えなければおれがこの世界に来てからさほど時間が経っていないのだ。その短い時間を何度も繰り返し、睡眠も許されなかった。この落ち着く空間は居心地が良い。
それゆえか、おれは楽しそうにはしゃいでいるリーナを見ながら呟いていた。
「本を積めばわかるんだ、いかに自分は無能であるかが――おれにはなにもなくって、ただ他人の才能を楽しむだけなんだって」
周囲に溢れる才能に当てられていかに自分が無能かわかる。世界の天才を知っていかに自分が無個性かわかる。
同時に知識を得るほどいかに世界が汚れているかわかる。
おれなんてのは空虚な存在でしかないのだと。
「それでも良いと思う。なにもなくても、良いと思う。誰しもが天才だったら、天才なんていなくなる。誰にもない才能を持っているからこそその人は天才なのであって、例えあなたに才能がなくとも、それだからあなたが空っぽであることにはならないから」
そのユリアの言葉におれは惹かれていた。
「あなたには心がある。決して空っぽなんかではない」
やはりユリアはただの良い人だ。おれに付き合ってくれる理由はきっとこうだろう。
〝自分に助けを求めてくれる人がいるのだから、その人をしっかりと助けてあげないとならない〟
もう一つ気付く。
やはりおれはユリアに甘えているのだろう。
リーナは人を元気にする方法を知っている。他人を笑顔にしたいのなら自分も笑顔でなけれならない。人類の常識だ。だから彼女は満面の笑みでおれへ話しかける。おれはその笑顔を見て心が安らぐ。
そして何度も考えてしまう。もしこの世界に影がなくて、平穏な生活を送ることができるのなら、おれは彼女たちとずっとつるんでいるのだろうと。
自然と疲労は消え去っていた。情報と才能に当たり、笑顔と優しさに支えられ、おれは今という時を人生で一度としてないほどの幸せを感じ生きている。
「そうだな。ありがとう、忘れていたよ」
そう言っておれは心の中に記した『自分』という題名のノートを開き読み上げた。
「天才であろうと憧れるのは、凡人のみが持つ強みである」
おれの言葉にユリアは静かに頷いた。
久しぶりだ、こうして落ち着いて他人へ本音を言うことができたのは。
ありがとう、ユリア、リーナ。
ある本が目にとまった。
ちなみに書籍の全てが日本語以外の言葉で記されているが、これもおれの奇妙な能力――というか一般的に考えてフェアにするための設定なのだろうが、いわば円からドルへ両替することと同じなのだろうが――の一つとして日本語に見える。この世界の言語を理解できる。
ただこの手紙だけは除いて、とポケットから一枚の手紙を取り出す。他の書籍の文字に目をこらすと元のよくわからない文字が見えてくるが、このビルじいさんから受け取った手紙は目をこらしても元の文字が見えてこない。というより非常に鮮明に見える。
手紙をしまい、目に止まった本を手に取る。やはり元々日本語でも英語でもない文字から強制的に日本語へ変換されていることと本のタイトルを確認した。
『カオティック・レコード』という題名の書籍である。
恐らくこの世界の力学なのだろう、中を開けば「カオティック・レコード理論」という言葉が大々的に記されていた。
〝カオティック・レコード理論
概要――当理論は時間の基本原則を示すものである。
一、世界は唯一無二である。
二、世界の運命は定まっている。
三、世界は変動する。
四、変動は世界を上書きする。
五、変動後の世界の過去は運命に沿って再形成される。特に変動が大きい際には過去改変が行われず空白が生じる。〟
やたら世界世界うるさい本であった。
世界は唯一無二であるということはパラレルワールドは全否定というわけか。
〝運命を一本の糸、世界を球として考える。糸は球を貫通している。球より下の糸を過去、上の糸を未来と捉える。
世界では常に何事か起こる。その都度糸の上側は更新される。つまり、未来とは現在の事象を元に形成されるのであって、形成された未来に沿わない事が起こった場合にのみ未来は再形成される。
特にこの更新をイレギュラー・アップデートと呼ぶ。
大規模なイレギュラー・アップデートが起こると球は糸を外れ、別の空間へ転移する。その先で糸が再形成され、元の糸は消滅する。糸の上側は形成されるが、下側にはよれが生じる。大規模な更新は過去に空白を生じるのだ。過去の空白は以後の更新により埋まる可能性があるが、基本的には世界の記憶から削除されることになる。ただし、記憶から過去が消えるだけであって、空白となった過去に関連する物体が世界から削除されることはない。〟
つまりなんだ、タイムパラドックスは記憶の改変によって起こらないということか。どこでどう手に入れたものかわからないものがある。それを手に入れたという過去は消えるが、結果は消されない。しかし過去は消えても観測者の記憶からも消えているので「どこかで手に入れた」「どこで手に入れたかわからないがそこにある」となる。そう言いたいのだろう。
次に興味深い文が記されていた。
〝形成された運命はその世界にとって最良の道である。〟
謎が解けたような気がする。
なぜおれが一人草原で寝たときに死んだか。原因は簡単だ、この世界の運命に反したからだ。きっとおれにはイレギュラー・アップデートとやらを起こす力がないのだろう。あのときのおれの最良の選択はアーリーから忠誠の証を受け取るというものだった。だから忠誠の証を受け取った昨日の夜は死ななかった。
それにビルじいさんの手紙には〝これから起こる出来事はよい選択しか待っていない〟と書いてある。
「ガクト様」とユリアがおれを呼んだ。
「なんだ?」
これ、と言って彼女はおれに一枚の紙を見せた。
この世界の地図であった。
世界地図を見るのは二回目だが、どうしてかこの地図は全て描かれていた。おれは以前フェルセマフィのビルじいさんの家で世界地図を見た、といっても村の分布図だが、その時西側は白紙であった。
だが今回は西側までしっかり描かれている。
埼玉県あるいは四国あるいはオーストラリアのような形の大陸が大きく描かれている。東に大きな都と湖、周囲に村が点々とし、北に世界樹と塔、中央に山と樹林、南に海浜と監獄、そして西に都があった。
「ユリア、ディシヴァシーラが見えないのか?」
「見えない。わたしの目からはレイゼンヘルド山から西は海」
「おれが指差しているところも海だって言うのか?」
彼女は首肯した。
おれにはしっかりと指の先に「ディシヴァシーラ」の文字が見えているのに彼女からは海でしかないらしい。
おれからは西側が見えているのでもしやとは思ったが、万国共通どの地図もおれ以外は認識できないのだろう。
「ちなみに訊くがサーシャルトスはどこにいるんだ?」
「ここ」と言って示したのは塔であった。
北に位置する、アレクスレイジオという地域のディザムという塔である。樹林の奥にあり、塔へ樹林は避けて通れない。
「この塔よりも先に、このミッシェルという街に向かった方がいいんじゃないか?」
「ミッシェル?」
「ああそうか、既にこの街は消えているのか」
聖地であると記されている、西にあるミッシェルという街に聖職者の証があると考えたが、既に影に飲み込まれているようだ。
「ということは聖職者の証はなくなってしまったのか?」
「それだったらわたしたちは聖職者の証という名前を覚えていない」
そうなると証を持った人間はどこかへ逃げているのか。いやアーリーによると聖職者の代表は死んでしまったのか。ならばどこへ。
聖職者の証は一度置いておいて、まずは英雄の証である。
サーシャルトスはこの世界の英雄だ。証を渡して欲しいと言ったらこの世界のためと渡してくれるだろうか。
リーナと目があった。
おれは驚いて目をそらそうとしたが、その前に彼女が笑顔を見せたのでそうするわけにもいかなかった。
現実世界では引きこもりであったおれよ。
おれは異世界に来て仲間ができたぞ。
それゆえか人生を損していた気分になった。
全く、高校中退して何やっているんだか。
現実世界を思い出しているうち、少し元の世界が愛おしくなった。