第八章 「回り始める歯車」 1
アーヴァシーラから逃亡して一日が過ぎた。まだブルーノからの追っ手は見えない。ひょっとするとユリアの勝手な推測なだけで、おれは影の世界の一員ではないのかもしれない。そうであって欲しいが、彼女は博識であり、それゆえにおれのような「よくわからない」奴、要するに危険な因子は排除すべきであることは理解している。
まさか影に飲み込まれているスークロックには近づけないので、そこから見て東南の位置にある鐘守りの街に向かった。夜はその道中で過ごした。魔物がいないなんて何に怖がればいいんだ、ブルーノ以外の何に。
鐘守りの街も近く感じた。それほどこの世界がどうでもいいのだろう。あるいはこの世界は狭いのか。見晴らしの丘から見渡した感じ、香川県よりはるかに狭い。まあこの程度か。
今、目の前に佇む、いや日本語が間違っているようだが本当にそんな比喩しかできない、霧がかかる廃れた木造の村は、ホラーゲームにはうってつけの場所だ。
人気はない、しかし生活感が微妙にある。
迷わず村というよりは集落に近い、しかしスークロックよかはずっと広いこの空間は、この世界には存在しないようだがゾンビが出てきそうである。ついトワイライトの剣の柄を握って歩く。
人がいそうだ。確かに廃れているが荒れ果てているわけではない。ただ、それどころではない危機感をかもし出しているのだ。
とりあえずおれは近くの家を訪問してみることにした。ちなみに、何故鐘守りの街に来たかというと、今しがた説明した理由に加えて、次のループがあった時役に立つかもしれない、という浅はかな考えがあるからだ。
何に役立つかは全くわからない。そもそも忠誠の証を集める気がないのだから。
家の表札には「アーリアディ」と記されている。ドアを数回ノックし、誰かいないか尋ねる。
返事はない。少し周りを見てみたが、この家からは生活感を覚えない。だがどこか臭った。死臭かもとぞっとしたが、焦げた臭いであるため疑問によっておぞましさはかき消された。
次に「ウィリアム」なる家をたずねる。
驚くべきことにドアが開いた。顔を出したのは白いひげを生やした老人。何やら向こうが驚いているようだった。
「まさか、本当に来るとは」
と老人はおれを見て言う。なんだ、この村には占い師でもいるのか。ならおれの糞みたいな運命を占って欲しいところだ。
「……しかし……まあ這入っておくれ、汚い場所だが」
「あ、ありがとうございます」
「わたしの名前はウィリアム。ビルと呼んでくれ」
家の中心にある高さがうんと高い机の周りに配置された椅子に座るなり自己紹介が始まった。
「おれはハズネ・ガクト。ガクトでいい」
「そうか。やれガクトや、この村に長く留まってはならぬ。気が滅入るうちに出て行け。人間として自我を持てる最後は、ここにいればそう遠くはない」
「あんたは」一度区切り「あんたはここを離れないのか」
「ここには住み慣れておるし、もう老いている。いつ死のうが大差ねえ」
「この村は何と言う」
「フェルセマフィ。昔はマフィナなんと呼ばれていたが、栄華ははかない、今では廃村同然だ」
なんとなくだが、マフィの後にエヌの発音が聞こえる。
「本当に来るとは、と言っていたが、この村には預言者でもいるのか?」
「いや、そうではない」席を立って近くにある引き出しから手紙を取り再び席に着くビルじいさん。「これだ」
「手紙?」渡されて素直にもらう。
「あるやつから、今日若い男が家にやってくる、そいつに渡してやってくれ、と言われてな」
まさかブルーノかとどきっとしたが、手紙がやけに古ぼけていてそうには思えなかった。
とりあえずあとで読むことにしてビルじいさんから情報を得ることにした。
「ビルじいさん、この村には鐘守りがいるそうだが、今どこか知っているかね」
「教会の屋根の上だ。彼は『悪魔』と呼ばれている」
「悪魔なのに教会か。それとも捕まっているのか?」
「拘束されておる。元々彼も人間だった。それも〝堅実者〟であった」
「ということは忠誠の証を持っているのか」
「愚問、アーリー・パトシオットは王に認められた五人のうちの一人。堅実さゆえ王国ではなくこの村の発展に努めていた」
そういえばおれはこの世界で王がいなくなったのがいつだったか聞いていない。ご老人は賢者のようなものなのでなるべく多く情報を手に入れよう。
「王座が空席になったのはいつだ」
「一年前だ。その頃からわたしたちの村にも変化が訪れた。不況が続いたさ」
「変化?」
「ああ、おかしなことだ、この村ではまず生まれていない文化的な品、つまり他の村の物がここにあるにも関わらず、それがどこから頂戴してきたものなのか、わからないんだ」
影か。一年前から影は世界を侵食し始めた。
「これを見てくれ」と言ってご老人が持ち出したものは世界地図と器だった。
「この品に刻まれた印を持つ村が存在しないんだ」
これを地図と呼んでいいのだろうか。
東側以外は全くの白紙である。
「じいさん、何かおかしいとは思わないのか?」
眉を潜めるウィリアム。
「西側が空白だ。そんなことがあるのか」
「元々こうだった。ここはこれでいいんだ」
まさか影の効力は地図にすら働くのか。物理法則無視もはなはだしいところだ。まあさすがに今は亡き村からの頂き物がなくなるなら、おれのこの剣も途端に消滅するだろう。
ちなみに地図の村の上には村の印が示されており、ここフェルセマフィは盾と燃えた木組みである。
「じいさんは影について何か知っているか?」
「聞いたことがある。いつの話だったか――そうかまだわたしが『追放者』に参加していた頃――」
「あんた『追放者』なのか!」驚いてつい大声を出してしまった。
「元、だがね。影は……そう、何か超越した存在。『悪魔』や影人などの屍者の原動力。それと……根本的に順序が、いや、全てが逆。そんなところだ」
意外と知ってるな。だが自分が影の影響を受けている自覚はないか。
「忠誠の証は誰が持っている」
「わたしも詳しく知らんがね。堅実者のアーリー、英雄のサーシャルトス、聖職者の……申し訳ない思い出せるのはこの二人くらいだ」
「それなら、あと、貴族のウォルシンガムと……」
努力家のヴァラウヘクセか、と声には出なかった。出したくなかった。おれはおれの持っていた王の証のレプリカと、リーナの持つ巾着のせいでこのような運命を辿り、ユリアに嫌われ、そのユリアが死に、ついでにシュンイェルも死に、もはやトラウマだからだ。
「ありがとう。本当は聞きたいことだらけだが、ここにい続けてもどうしようもないと思う」
といっても鐘守りの悪魔に挑む気もない。というか勝手な推測になってしまうが、悪魔、アーリーとやらは既に死んで影人になっているようだ。
忠誠の証は影人しか持てないのかといえばそうではないので、生者との対面を望む。まあどうせ集めないしどうでもいい。
「この村は屍者の街とも呼ばれている。ここ数ヶ月前からな。見ていくか?」
別れぎわビルじいさんは呼び止めた。
「何を」
「屍の山さ」そう言われておれは再びどきっとする。
「……いや、もう屍の山は見飽きたよ」
手を振って村を出た。フェルセマフィというこの村が数ヶ月前はまるで昔の中国のように栄えていたとは思えない。
しかしこの村では寝たくはないという個人的な好みからおれは村を去ることになったのだ。
そういえば手紙を渡されていた、とポケットから取り出し封を切った。
文字は日本語だった。しかし不思議なことにこの文字をいくら見つめても、元の文字が浮かんでこない。例えば忠誠の証という言葉を耳を澄まして聞くと、サーアグナティスと発音していることがわかる。それに、恐らくおれがサーアグナティスと言っても通用する。これはサーが忠誠を意味し、アグナティスは証に相当するからである。
しかしどうだ、この手紙からはこの世界での文字が浮かび上がってこない。文字は注意して見たことがないので元々この世界では日本語が使われているのかもしれないが、そうとも思えない。少なくともおれは何度も文章を読んできたが、これほど流暢な日本語は初めてだ。
手紙には奇妙な、いや意図が理解できない文章が羅列している。
〝この手紙を読んでいる君は、恐らく全てを諦めて今この瞬間も逃げているのだろう。運命というのは考えてしまえば単純だ。パラレルワールドについて語ったとんでも人間が誰かは知らないが、人間誰しも一度は考えたことがあるはずだ。例えばもし自分が過去を書き換えることができたなら何に利用するだろうか。実験者ならば原理を解き明かすだろう。犯罪者ならば犯罪が成功したことにするだろう。悪人なら、善人なら、どう使うだろう。しかしその時点で、運命の歯車に関与した時点で、君は流される者ではなくなる。君はいずれ知ることになる。それまでは浮かれているがいい。ただし過去に戻ることができない限り、時は一定に進んでいく。数時間前でも過去は過去だが、所詮書き換えることができるのは数時間後起こる事件だけだ。事件を防ぐ、より良い方向に書き換えるために過去に戻ったようなものだ。さて、ならば考えて欲しい。半年前の過去を書き換えることができたのなら、半年後のタイムトラベラーはその書き換えられた運命通りにことを進めなければならない。それが、運命の歯車に関与した者の義務だ。
そこでよく考えていただきたい。これから起こる出来事はよい選択しか待っていない。慎重に歩んでくれ。君が本当に心に思う人は誰だ。論理的にも理論的にも倫理的にも判断するな。直感でものを捉えろ。君が本当に好きな人間は誰だ。〟
隠す必要もあるまい。
こいつはイニシャルすら書かずに何を言っているのだ。不快でしかたがない。しかしどこか的を射ているようで、何か目的があるようにも感じる。
だいぶ荒れた場所で書かれたと思しき手紙を投げ捨て、行くあてもなく、今度は英雄にでも会いに行ってやろうかと北上した。
影がまだ追いつかない場所、スークロックのやや東側で夜を過ごすことにした。
目が覚めるともはや見慣れた廊下が広がっていた。
ああ、死んだのか。
そう感じるだけだった。




