第六章 「王なき帝国の影」 2
ユリアのことを一言で表すなら「博識」である。
この世界の住民もこの世界を知り尽くしているとは限らない。おれが元の世界の日本をそこまで知っていないのと同じように。
しかしユリアは違った。決して彼女の部屋に大量の書物があって、毎日四六時中読み漁っているとかそういうことでもなく、ただ彼女は得た知識を記憶できる能力に長けるだけだという。
彼女に言わせれば、人間というのは興味がないことや何かと関連づけることが不可能なもの、インパクトが弱いものをすぐ忘れてしまう嫌いがある。
ただそれがないだけだという。例えば初めて訪れた屋敷の部屋の数や窓の数を覚えても、それが持続されるのは復唱していない限り十数分のことだろう。
しかし彼女は永遠とまでは言わないが、話題を変えて他のことに集中させても当然のようにどうでもいいものの数を憶えているのだ。特別興味があったり他の屋敷の部屋数窓数を知っていて関連付けたり衝撃を受けたり復唱していたりするわけでもないのに、である。
だからこそ、それ故に、彼女はこの世界の闇を知っている。
知識を積んで見渡す世界は善き場所ではないのだ。
「王の証のレプリカ? 本物ではないのか?」
おれは客間のドアの柱に寄りかかるユリアに問う。
「ええ。それは誰から」
「バルサネ・ブルーノと言っていたな。王城の席に最も近かった老人だ」
「…………、経緯は」
「西の国の遣いだといって剣を見せたら偽りと刀剣類違反で捕まって、色々と話した結果王の証を半年以内に集めれば罪を帳消しにしてやると言われた」
納得がいったのかより真剣な表情に変わった。
「バルサネ・ブルーノは現在最高権力者。セウリュトス家が途絶える前はもちろん王セウリュトスが最高権力者」
彼女の喋り方は何か特徴的だった。
「ブルーノはあなたの他数名に同じく王の証を集めるよう命令している。経緯はどうあれ。けれど王の証は世界に一つしかない。だからあなた達にはレプリカが渡される」
「そもそも王の証ってなんだ? 王の権力の象徴とアンナから聞いたけど、そんなもの新しく作ってしまえばいい話じゃないのか?」
「王の権力の象徴であってる。けど、新しく作っていいようなものではない。王の証とはいわば火のようなもの。古来絶やさずに継いできた火は次の世代に伝わる。それが王の証」
「いや、クリスタルに火継ぎとかはいらないと思うが」
「その通り、ただ守っていればいい。けど王の証は民衆の魂と言ってもいい。故に新しく作ることはできない。そもそも王の証の力の子である忠誠の証には主に貴族、英雄、堅実者、聖職者、努力家の五つがある。それぞれの証を所持している人間が代表者」
忠誠の証であっているのか、名前。
「例えば既にあなたに吸収されたウォルシンガムの忠誠の証は貴族のもの。全貴族の魂を表すもの」
「ということは、貴族の持つ忠誠の証は全ての貴族が忠実に従うことを表明するためのものってことか」
「そう。ウォルシンガムはただの代表者」
「王の証の、他の四つは誰が持っている」
彼女は少し沈黙した。
「英雄サーシャルトス、鐘守りの悪魔くらいしかまだわからない」
「そうか。ありがとう。しかしなんか危なそうな西側の国にあるとかなったら冒険する気が失せるな」
「西の国?」
「え?」
「西の国、例えば何がある」ユリアは珍しく驚いた顔をした。
「ディシヴァシーラくらいしか知らないけれど」
ディシヴァシーラ――彼女は小さく呟いた。記憶を探ったらしい。
「残念だけどそんな国は知らない」
「西の王国らしいけど」まさかトワイライトがおれに嘘をついたのか? どう考えても嘘がつける空気ではなかった気がするが。
「西の王国? 王はアーヴァシーラに唯一」
しかし彼女はいつもの流れを変えた。西に王国なんてない、それが誰に言っても返される言葉だった。だが彼女は違った。
「影か――やはり」
顎に指をあて彼女は呟いた。
「影? レーゼもなんだったか、影人とか言われていたが、それと何か関係が?」
「影は王家が途絶える前にも存在していた。そうでなければ『追放者』に敵はいない。王の証は権力、世界を支配し支えるもの。それと相反するものが影。権力のなかった時代の闇」
「よくわからないが、とりあえず悪いものと考えていいんだな。王家が途絶え、権力支配が消えた今、権力のなかった元の世界――宇宙でいうビックバンのない世界に戻りつつあるということか」
「ビックバン? わたしはそれを知らないけれど、元の世界に戻る、で正解。元の何もない世界に戻りつつある。その現象と残っている王の世界との境界を影という」
イメージとしては異常に強い雷雲が四方から迫り来るようなものだ。
「元の世界に戻る……戻る?」
「そう。影に飲み込まれたものは消滅する。人の記憶からも、地図などの物理的記録からも。だからわたしは西の王国を思い出せない」
「記憶からも記録からも存在が消滅するだと?」そんなことが起こりうるのか。案外この世界もファンタジーかもしれない。
これがトワイライトの言っていた「消滅」というやつか。
「けれどあなたはそれを拒絶することができる。普通の人間が持っていない体質」
なにかとおれには能力が備わっているな。魔法の一つもない世界でおれだけが能力を持っている。まあ、どれもろくでもない能力なのだが。故に嬉しくはない。
「ん? そういえばトワイライトがおれに西の王国のことを話したんだが、『今は亡き国』とかそういうニュアンスのことを言っていたし、その日の夜スークロックの人間はディシヴァシーラのことを知らなかった。何故あいつは西都を憶えていたんだ?」
「トワイライト? フルネームは」
「トワイライト・マックスフォード」
その名を聞くと彼女は納得したようだった。
「サテライト・マックスフォードは現在の『追放者』の長。同じ姓を持つそのトワイライトは恐らくあなたが会った当時の追放者のリーダー。それならあなたと同じ体質であってもおかしくはない」
「何故そんなことが言える」
「影人を相手にするならば、影を拒絶できる人間がいた方が有利」
そういうこと、とおれはつい頷いてしまったがそういえばまだ影人について何も情報を得ていない。
「影人って誰なんだ」
「影を取り込んだ屍のこと。屍は動かない、それがこの世界の物理的絶対法則。故に自ら動く死体、すなわち屍者の存在はその法則と相反し影人と言えよう」
黒魔術的なものと考えていいのか。まあ違うのだろうが、理解しやすい言い方ではそうなるな。
「じゃあレーゼは既に死んでいて、影を取り込んだ所為でああなったということか」
ユリアは頷いて言った。
「死者は死に返す」
どこか聞き覚えのあるフレーズである。
ともかくおれはこうしてユリアから情報を得て、城にいる全員に礼を言ってからここを出ることにした。なに、礼を言うくらいのコミュニケーション力はあるさ。リーナやユリア達とここで別れるのは少々悲しいがな。客間の掃除をすると言うユリアには感謝だ。自室が散らかり放題のおれは掃除が一番の苦手だからな。まだ料理の方が簡単さ。おれの隣に彼女のような理想の人がいればいいのに、と思ってしまう。
おれはユリアを残して客間を出た。