奇形の春
お久しぶりです、お元気ですか。
あなたが今、何処に居るのか存じませんが、そちらの桜は満開でしょうか、それとももう散ってしまったかしら。
私は学生の頃より変わらず、東京の端のほうで暮らしています。徒歩三分圏内には孫夫婦が暮らし、毎朝一緒に食事をするのが日課です。
こちらの桜は、今が一番の見頃だそうです。毎日うつらうつらしてしまうような暖かい日が続いていますから、きっと上野や御苑は大勢の花見客で賑わっているのでしょうね。
それを思うと風が吹くのが、ひどく恨めしく感じられます。雨が降った翌日、地面に汚れた花びらが張り付いているのをみるのは本当に心苦しい。桜を愛する人のため、1日でも長く咲いていてほしいと願わずにはいられせん。
それでも、どんなに長く花をつけたとしても、私がたまの散歩に出掛けて、近所の桜並木を歩く頃には、きっと葉ばかりの暑苦しい木になっているのでしょう。毛虫が垂れて、桃色の花を咲かせたことなんかちっとも覚えていないふりをするのでしょう。
足腰が弱ってから、調子の良い時にしか外出できないので、あれだけ好きだった桜の姿もまともに見られなくなってしまいました。
死ぬまでにあと何度、満開の桜を見られるのか。それとももう、人生最後の桜は終わってしまったのか。
改めて考えを巡らせると恐ろしい気がして、気をそらせる為に手紙を書いたのです。
思い出の中のあなたを想って。
出す宛てもない、ひとりぼっちの手紙を。
夫はとうに先立ちました。
早いもので、もうじき10年になります。
息を引き取ったのは、晩冬の朝方でした。差し込む朝焼けで橙に染まる顔を私の方へ向けて、
「もう一度、桜を見られると思っていた。」
と細い息を吐き出しながら呟いたのが、今でも耳の奥で蘇ってきます。
夫の言葉を肝に銘じて生きようと思いました。以来、桜の木を見上げるたび、あぁ今年も無事にみることができた、これが最後かしら、と重たく噛みしめることにしたのです。同じ齢の夫より、私は五度も多く桜を見たわ、六度も見たわ、と毎年少しずつ優越感を覚える様になりました。夫より優れていることといえば、長生きをして、より多くの桜を見たことくらいのものです。
最近では、夫のことはほとんど思い出しません。
どんな表情で眠るのか、どんな声をしていたのか。悲しいくらいに忘れてしまい、日常の中から彼の影は綺麗さっぱり消えてゆきました。
それまでは夫の愛用した伊万里の茶碗を見ただけで、無言でおかわりを要求する顔を思い出したり、窓に目をやるたび、パイプを咥えて詰め将棋をする姿が映り込む様な気がしていたのに。
気持ちは年々、変化していくものです。思い出すたびに涙ぐむのが常だったのですが、だんだんと涙は少なくなって懐かしみに変わり、そうしていつの間にかシャボン玉を指で突ついて消す様に、思い出が一粒一粒弾けてなくなってゆくのです。
その代わり、何故だか今まで眠っていた、あなたとの思い出がむくりと1人でに起き上がってきました。
触れずにいた記憶の奥の扉が何かの拍子に再び開いたように、会話もなく、一瞬の接触もなかったあなたのことが、鮮やかな色彩を持って息を吹き返したのです。
それは私の人生で一番、甘美な記憶でした。
初恋でした。
私とあなたは毎朝少しの間、幅の広い川を隔てて向かい合い、ただただ視線を交えました。
あなたとの間に起こった出来事といえば、たったそれだけ。橋を渡って向こう岸へ行くとか、文を書いた紙飛行機を飛ばすとか、そういった交流は一切ありませんでしたね。
あなたのことが気になって気になって、近くにいきたい、一度でいいから話をしてみたいと思っていたのに、どうしてもできなかったのです。
少し触れれば壊れてしまうほど、硝子細工のように脆くて繊細で、その空気をとどめておくには、なにもしないのが一番だと互いに感じていたのかもしれません。
だからこそ、二人で美しい記憶を作ったのかもしれません。
あなたは私と同じ年くらいの青年で、通学途中の様子でした。墨色の学生服は透き通る空の下でよく目立ち、帽子を目深に被り、口許は男らしくキッと結んでい
ました。
私たちは待ち合わせをしたわけでもないのにほとんど同時にいつもの川の前に立ち、手を振るでも声を投げ合うでもなく、ひたすらに見つめ合いました。
私は、あなたに惹かれていました。そしてきっと、私の自惚れでなければ、あなたも私に対して同じ気持ちを抱いていたのではないでしょうか。
そうだったなら、嬉しい。
あなたの背後には桜の木がありました。
栄養がいきわたっていない貧相な木でしたので、恥ずかしいことに春になるまで、それが桜だとまったく気がつきませんでした。
冬休みが終わり、女学校卒業を間近に控えた頃、桜の木が、ぽつぽつと枝に花をつけ始めました。
あなたは目の覚めるような桃色の背景の前で、いつもと同じく堂々と立ち竦んでいました。
まるで夢のようでした。いえ、もしかしたら夢だったのかもしれないと思われるほど、天国のような美しい光景でした。
水面はシャッターを押したように眩しく光り、土手のつくしが手を振るみたいにさらさらと揺れていました。
そしてその奥に、あなたがいるのです。
名前も住まいもなにも知らない、誰よりも遠い処にいるあなたが。
桜の散る頃、いつものように川べりへ立つと、すでにあなたがいました。そして私の姿をみとめると、学制帽を脱ぎ、それを大きく横に振りました。私も、手を振り返しました。
私の春は、この瞬間に終わったのです。
桜の前にはあなたがいて、あなたのうしろには桜がありました。その光景が、私の春そのものでした。
暖かい風が吹いても、青草の香りがしても、桜が咲いても、あなたのいない春はどこかちぐはぐで、なにかが足りない、なにか、大事なものが足りなくてもどかしいのです。
夫が桜のことを大事そうに口にしたのは、死ぬ間際になってはじめてでした。
気がつかれるはずもない別の人に向けた恋心が露わになったのかと、密かに冷や汗をかきましたが、考えてみると夫も桜が好きだったのかもしれませんね。
よく二人で桜並木を散歩しましたから。
あなたは今、どこにいるのでしょう。
何十年も経ってまだ私があなたを想っていること、恐ろしく思われますか。
それとも喜んでくださいますか。
どちらにせよ私は、もう完成しない春に夢を見続けるのです。
ひとりぼっちでまた次の、奇形の春を待つのです。