ココロの還る場所
ココロの還る場所
夏の瀬戸内海、真っ青な空に澄んだ高い笛の音が鳴り響いた。
広島県の東の端にある中ノ島町。たくさんの緑鮮やかな島々が織りなす多島美を眺める小さな港町。
港を囲む防波堤に停泊する旅客船をイメージして水上に建てられた施設、中ノ島水族館。その脇にには建物と防波堤でできた「T」の字の壁面を利用し網で二面を囲った四角い生けすプールが作られている。
生けすプールを大きなバンドウイルカがジャンプする。船のデッキを模して作られた観覧席から歓声と拍手が聞こえてくる。
「山陽地方で曲芸を見せてくれるイルカはこの子だけ。中ノ島水族館のアイドル、バンドウイルカのココちゃん!」
水面に浮かべられたフロートのステージに立つ女性トレーナーはヘッドマイクで紹介した。三メートルはあろうかという大きなイルカは尾びれの力だけで水上に立ち上がり観客に胸びれを振った。小さな子供が手すりから身を乗り出し手を振り返す。
「メイントレーナーは私、響海"おねえさん”が務めさせていただきます。そして、土・日曜限定、当水族館のもう一つの名物。先月一三歳になったばかり、世界最年少(未公認)イルカトレーナー、アオ君でーす!」
おねえさん、というにはちょっと無理がありそうな女性トレーナーはもう一つ対角方向にあるフロートを指差した。
フロート上、ウェットスーツを着た小柄な少年は観客に答えようと手を振った。ところがいつの間にかフロートの下に潜り込んでいたココが大きな波を起こしフロートを揺り動かした。打ち合わせにない行動にあせって少年は足を滑らせ海に転落してしまった。
水面に浮かんだ少年をココは自ら背中に乗せる。少年は何するんだよ、とでも言いたげにココの頭を軽くたたいた。本来は少年が観客にあいさつをしてから乗る予定だったのだ。ココはそんなことはおかまいなしに少年を乗せたままプールを一周した。
「あらあら、ココちゃん待ちきれなかったみたいです。でも一見おっちょこちょいに見えるアオ君ですが、初めてショーに出たのが六歳の時でもうトレーナ歴七年のベテランだったりします。ココちゃん最近私が重たいのかアオ君ばっかり背中に乗せるんですよー」
予定にない流れに女性トレーナーが軽くアドリブを入れる。会場中に笑いが広がった。こういう自由な流れは小さな水族館の良さの一つだ。
「一発大きいの行くよ」
少年はココの背中を叩いて合図した。ココは任せて、とばかりにいったん水中に潜り勢いをつけて鼻先で少年を空高く押し上げた。少年も膝の力を使ってジャンプした。かなり高くまで飛び上がった。少年はわきに抱えていたボールをさらに高く投げ上げた。それを再びジャンプしてきたココが追って頭で跳ね飛ばす。ボールは大きな弧を描き女性トレーナーの手に収まった。少年とココは大の字でプールに着水し、観客にも届くような盛大な水しぶきをあげた。観客席は歓声と悲鳴で大にぎわいだ。
『まったく、ま~た好きにやってくれちゃって~フォロー大変なんだから』
ずぶ濡れになった女性トレーナーは頬を引きつらせつぶやいた。
『一四年か・・・早いものね・・・あなた』
ココと少年の息の合った演技を横目に、手にしたボールを見てふと女性トレーナーは防波堤の外の海を見た。
☆
一四年前・・・
「水族館横に生けすプールを作って、わたしが面倒をみます!」
防波堤脇に作られた小さな仮説プール。雨の中、ウェットスーツを着た若い女性が腰まで海につかり弱ったイルカを抱きしめ震えながら叫んだ。
「君はまだ専門学校を卒業したばかりの新人さんだろう。どこから迷って来たかもわからないそのイルカを育てるなんて無茶だ!」
防波堤で傘をさした白衣の男性は叫び返した。
「イヤッ! この子は私に助けを求めていたの」
女性は引き下がらない。
「まったく・・・しょうのない人だね君は。私も獣医としてはあまりお勧めできないのだが、君の気持に免じて私も協力してあげよう。さぁまずは上がっておいで、そのままじゃ風邪をひくよ」
白衣の男性はため息をつきながらいまだ水の中にいる女性に傘と手を差し伸べた。
『大地さん・・・それが著名な獣医のあなたと新人トレーナーだったわたしとの出会い。やがて恋に落ち結ばれ間もなく碧海が生まれた。元気になったイルカはココと名付けられ水族館の人気者になった。でもあなたは海獣類の研究チームに選ばれ、三歳の碧海を残してオーストラリアに行ってしまった・・・』
☆
一足先に出番を終えた少年は更衣室に戻り着替えを済ませていた。ふとドアが開く。入ってきたのは白衣の男性と大柄な目の青い外国人。
「大きくなったなアオ、十年ぶりか」
「父さん・・・?」
少年には父親の記憶がほとんどない。写真で見たその面影でそう感じ言った。
☆
「十年ぶりに帰って来て、まず一言目がそれなの・・・?」
まだショーが終わったばかり。濡れた髪をタオルで拭きながら女性トレーナーはあからさまに不満な顔をして言った。
「そうだ、ココを太平洋に帰そう。この海は元々イルカが住むのに適した環境ではない、キミがココを飼育すると決めたとき言ったはずだ。それにイルカは高い知能を持った特別な生き物だ。人間の都合で閉じ込めておくのは良くない事だ」
まるで他人に言うかのように獣医は妻である女性トレーナーに言った。
「長い間一緒に暮らしてきたココは家族のようなものよ。いきなり自然に帰してもうまく生きていける保証はない。家族を一人ぼっちにさせるのが正しい事?ココがそれを望んでいるの?」
女性トレーナーはロッカーの扉を強くたたいた。少年はビクッと肩をすぼめる。
「そのために環境保護団体に資金面、アフターケア面での協力を得てきた。こちら、日本支部代表のリチャード氏だ」
獣医は同行してきた大柄な外国人に目を向ける。リチャードと呼ばれた男はその大きな手で女性トレーナーの手を取った。
「はじめまして、リチャードといいます。あなたがダイチのワイフですか。お聞きしていた通り芯の強そうな素敵な女性ですネ」
女性トレーナーは軽く会釈をして聞き流す。
「ナルミさん、イルカは自然の海で生きる権利を持っていマス。人間と同じく。こんな狭いところに閉じ込めるのは虐待に等しいデス。もう一つ、ご自分のお子さんもかわいそうじゃないデスか?遊びたい盛りに親の仕事に縛られてしまう。出るところに出れば児童虐待として取られる・・・」
そういい終わる前に女性トレーナーはその大きな手を力いっぱいはたいた。そして獣医にタオルを投げつけ叫んだ。
「帰って!何年も家族を離れていたあなたにとやかく言う資格はないわ!これ以上ここにいるなら警察を呼ぶわよ!」
タオルを女性トレーナーに返し、手をさすっている外国人の肩を引いて出口へとうながす獣医。
「行こうリチャード。また後日出なおそう。そうだ響海、久しぶりに夕食でも・・・と思ったんだけど、そんな空気じゃないな」
母親はギロっと父親を睨んだ。初めて見る母親の剣幕に少年はどう反応すればいいかわからずうろたえていた。
☆
数日後・・・
学校から帰った少年はイルカプールの様子がおかしい事に気が付いた。普段なら平日は観客もまばらなのに、この日はやけに騒がしい。観客でにぎわうのであれば喜ばしい事だがどうもそんな雰囲気ではない。数十人の外国人の集団がプラカードをかかげ英語で何かを連呼していた。英語は習い始めたばかりの少年だがいくつかの単語は理解することができた。
「・・・・SAVE・・・」「・・・DOLPHIN・・・」
その様子を同じ海外のテレビ局らしきスタッフがカメラを構え撮影している。スタッフの一人が少年に気付いた。手にした資料と見比べ確認すると、カメラマンとレポーターに少年の取材を促す。
異様な雰囲気に少年が後ずさりしていると誰かがその手を強引に引いた。それは母親だった。
母親は通訳の声に耳を貸そうとはせず少年を連れて水族館のスタッフルームに退避した。
「あれがああいう連中のやり方・・・こちらの気持ちなんてこれっぽっちも考えない。自分たちの主張を押し付けてくる。まったく・・・なんでそれを知りながらあんな連中を連れてきたのよ・・・」
母親は入ってきたドアに背中を付けうずくまる。よく見るとウェットスーツにパーカーを羽織っているだけだ。ショーの直後だったのだろうか・・・
「今日は、後のことは母さんやっておくから、アオは裏口から先に帰って」
母親は顔を伏せたまま言った。
少年は言われた通り家に帰り母親を待った。しかし日が暮れ、夜遅くになっても母親は帰って来なかった。
☆
「・・・起きろ。アオ起きろ」
体をゆすられた少年は目を覚ます。どうやら台所のテーブルで寝てしまったようだ。テレビはついたまま、朝の番組が流れている。
「母さ・・・」
言いかけたその言葉を飲み込んだ。少年を起こしたのは先日の獣医、父親だった。
「騒がせてすまない。だがこれがココのためなんだ。今日は学校から帰ったら隣町のおばさんの家に行きなさい。もう話は付けてある」
父親はそれだけ言うとそそくさと出て行った。
急に崩れていく当たり前だった日常。まだ少年は半分夢の中にいるような気がしていた。
☆
三日後、預けられていた母方の実家に母親が迎えに来た。
家に帰る車の中、母親は一言も口を開かない。少年も何を言えばいいかわからず、とうとう会話のないまま自宅アパートまで着いてしまった。駐車場に車を停めエンジンを切る。少年はチラッと母親を見る。母親はハンドルに頭をもたげたまま車を降りる様子はない。気まずくなった少年は先に降りようとドアノブに手をかける・
「再来月ね、ココ海に帰ることになったの・・・夏休みのショーが最後のお別れショーになるから、しっかり盛り上げて送り出してあげようね」
母親は一息にそういうと一目でそれと分かるような作り笑いを浮かべた。そして逃げるように家に入っていった。少年は呆気にとられ何も言うことができなかった。
☆
次の日からまたいつも通りの日々に戻っていた。少年は学校から帰るとイルカプールの掃除とココのえさの用意。土日は母親とともにイルカショーに出演。今まで何年も続いてきた少年の家族の日常。これからもずっと続くと思っていた事。しかしあとひと月ほどでそれが終わってしまう。
意識してしまうと日が経つのが急に早くなってしまうのだろうか。何も変わりのないまま夏は過ぎ去っていく。
☆
夏休み最終日、最後のイルカショーが終わった。ちょうど日曜日ということもありいつもは盆を過ぎたら少なくなる観客も終日大入りだった。
閉館時間になり人気のなくなったイルカプール。数えきれないくらいの花束が並んでいる。何も知らないココはフロートのステージに立つ少年と母親に頭を向けた。
「ココ、今まで長い間・・・本当にありがとうね。それからアオ・・・あなたも」
母親はいとおしげにココの鼻先を撫でる。そして少年を胸に抱きしめた。少年はもう長い間忘れていたぬくもりの中にいた。最後に感じたのはもう何年も前になるのか・・・その時そばにいたはずの父親も今はもう遠い。そして今度はココも遠くに行ってしまう。少年はこみあげてくるさみしさに胸を締め付けられ力の限りに泣いた。
☆
次の日から水族館は休館となり、ここの搬送作業に多くの人や機材があわただしく出入りした。日暮れ前、麻酔で眠るココは特製のハンモックに包まれクレーンで吊り上げられていた。夕暮れに染まるココのの大きな身体。少年はふと振り返る。そこには誰もいなくなったプールが静かに波の音を繰り返すだけ。見慣れた風景なのにもういつもと同じではない。そこにもうココはいないのだ。もう涙は出てこなくなっていた。母親を見上げる。少年と同じくココと長い時を過ごした母親も同じなのだろう。少年の手を強く握りしめ遠くを見つめていた。
ココはトラックの水槽に移されその日のうちに広島県呉港まで移動した。そこで停泊中の環境保護団体の船に載せられ二日後にはもう沖縄近海にいた。
ここはイルカの群れが回遊する海域。航海中も大きな鯨がブリーチングする光景が何度も見られた。少年は初めて見る陸地の影ひとつ見えない広い海や巨大なクジラのジャンプにひと時現実を忘れていた。
ココと同じバンドウイルカは比較的ポピュラーな種。大きな群れを見つけるのにさほど時間はかからなかった。
傷つけられないよう慎重にクレーンで海に放されるココ。長い間忘れていた外海の波にとまどうココ。しかし程なくその波に乗って遊んだり、プールでは見せた事もないような大きなジャンプを披露したりすんなり順応していた。
少年と母親には最後の仕事があった。ボートでココに近づく。
「最後はあなたが送ってあげて」
母親は指揮用のホイッスルを少年の首にかけた。少年は何も言わずボートに立つと今まで何百回も繰り返してきた動作をはじめた。
気を付けの姿勢で三回短く笛を吹き、人差し指を立てた手を真っ直ぐ頭上に掲げる。ココは少年の前に頭を浮かべピタッと止まる。
少年の手は震えていた。しかしもう戻ることはできない。
『この笛を吹いたらココは・・・』
次の合図までのほんのひと時、少年の頭には今までココと過ごした数年の思い出が頭を駆け巡った。
少年はすうっと息を吸うとひときわ長く、大きく、澄んだ音色を響かせた。そして掲げた手を横に大きく伸ばす。その先には自然のイルカの群れ。
『ハウス(家に帰りなさい)』の指示。ココは一瞬戸惑いを見せる。だが命令は絶対。小さな鳴き声を残しココはイルカの群れの方に泳いで行った。
最初遠巻きに泳いでいたココだが興味を持ったイルカに誘われ群れへと加わっていく。
「これで・・・良かったん・・・だよね・・・」
「ありがとう、よくやってくれたわ。もう・・・いいのよ」
横に手を伸ばしたままうつむき背中を震わせている少年。その頭を母親はそっと抱いた。
もうココが群れのどこにいるのかわからなくなってしまった。
☆
水族館は通常営業に戻っていた。しかしもうプールにはココの姿はない。
防波堤に立つ少年の目には見慣れた風景がまるで別世界のように感じられた。
「やっぱりこっちにいたのね。もう帰るわよ。ちょっと重いから持ってよ」
水族館を辞職した母親はとりあえず私物を持ち帰ることにした。私服姿の母親の手にはたくさんの荷物。積めるだけの荷物をトランクに押し込むと母親は少年を助手席に乗せ当てもなく車を走らせた。
「どこに行こうか?母さん仕事ばっかりで今まで遊びになんて行った事ないからよくわからないの。どこか行きたい所あったら言って」
夏休み明けの日曜日、まだ街は夏の余韻でにぎわっている。母親と休日ドライブ。少年が知る限りでは生まれた初めての事。こういう話を友達から聞かされてずっと自分もやってみたいと夢見ていた。ココがいるから行けれないんだ・・・と逆恨みしたこともあった。そのささやかな夢がやっと叶ったはずなのに・・・どうしてこうも虚しいのだろう。
☆
そして2年の時が流れた。
お盆を過ぎたある夏の日、父親が再び二人の前に姿を見せた。それはあの沖縄の船の上で以来。少しやつれただろうか、目に力がない。
台所のテーブル、少年と母親に向かい席に着く父親。こうして三人テーブルを囲むのは何年ぶりのことなのかもはやわからなくなっていた。しかし一家団らんを過ごす、そんな空気ではなかった。セミの鳴き声が会話のない台所に響く。
父親は何も言わず鞄から一通の封筒を出した。送り主の欄には母親の名前がある。
『離婚届』
封筒から出した書類にはその表題と父親と母親の名前が朱印とともに書かれていた。
「二人にはすまない事をしたと思っている。自然に帰してやること、それがココのためだと思い強引な手段だとわかっていたが環境保護団体に協力を頼んだ。だがこれで良かったのか・・・わたしにはわからなくなってしまった」
「昔からかわらないわ、あなたは。良かったんだと思うわ、今となっては。あの沖縄での生き生きとしたココを見て、わたしたちのエゴであの狭いプールに閉じ込めているより幸せなんじゃないかって思ったわ。何が正解かなんて誰にもわからない。でも・・・あなたとわたしの進む向きは一緒じゃなかった」
母親は書類を受け取る。
突然、少年が両手でテーブルを砕けんばかりに叩き叫んだ。
「いいかげんにしろ!みんな理屈でばかり話して。本当にココが幸せなの?広い海で一人ぼっちで泣いてるかもしれない。どうしてみんな一緒にいちゃいけないんだよ!」
台所から飛び出していく少年。父親と母親はうつむいたまま何も言わなかった。
家を飛び出した少年はでたらめに走った。何も見ず、ろくに確認もせず飛び出した交差点。あわや車にはねられそうになる。幸いスピードが出てなかったのか車はタイヤの悲鳴を残し少年の目の前で止まった。
「コルァ!よく見て渡らなきゃだめデスよ!」
運転席から飛び出してどなった外国人に見覚えがあった。父親と一緒にいた環境保護団体の代表のリチャードという人物だ。
「大丈夫デスか?あやうく事故になるところでしたヨ・・・まぁ無事でなにより。あれ?君はあのイルカのフレンドのボーイじゃないですか」
リチャードは倒れ込んだ少年を引き起こしてズボンの汚れを落としてあげた。
「ちょうどよかった。ボーイはニュース見ましたか?」
少年は今はそんなことに耳を貸す気にはなれなかった。
「これデス」
しかしリチャードが見せた新聞の切り抜きの見出しを見て目の色が変わった。
『瀬戸内海にバンドウイルカ迷い込む(山口)』
写真もない小さな記事。日付は三日前。
少年はリチャードの制止を気にも留めず再び走り出した。それがココであるという確証はない。だが少年は走らずにはいられなかった。
息を切らせたどり着いたのはかつてココがいた生けすプールの防波堤。プールと海を区切る網もフロートももうそこにはない。ただ波が繰り返し打ち寄せる音が続くだけ。ココの姿はそこにはなかった。
少年はポケットから銀色のホイッスルを取り出した。息を整えると大きく息を吸い込み海の果てまで呼びかけるように長く笛を吹いた。しかし海は静かなままだ。
二度目の笛を吹こうとしたその時、少年の目の前の海から一頭のイルカがしぶきを上げてジャンプした。
「ココ・・・?いや違う」
一瞬晴れやかになった少年の顔はまた曇ってしまった。
体長はココの半分くらい。まだ子供のイルカだった。
「お前、どこから来たんだ?ひとりぼっちか?」
少年は頭を寄せてきた仔イルカの鼻を撫でる。ところが仔イルカはその手を振り払い少年の服にかみつくと強引に海に引き落とした。水面に頭を出した少年はさらに服を引く仔イルカの仕草に何かを感じた。
「付いて来い・・・って事?」
小さな体の仔イルカの背びれにつかまり少年が着いたのはすぐ近くの岩場の間にある砂浜。波打ち際に横たわる一頭のイルカ
「ココ!」
慌てて駆け寄る少年。背びれの傷のパターンは見間違えるはずもない。もう長い間見ていなかったがすぐにわかった。
だがしかし少年の声にココの反応はなかった。ココの背中には鋭い刃物で切り裂かれたような大きな傷が刻まれていた。頭上の鼻噴口から弱く息が吹き出される。
少年はココと目が合った。ココは小さく一鳴きするとそのまま動かなくなってしまった。
『ただいま・・・』
少年の耳には確かにそう聞こえていた。
「おかえり・・・ココ・・・」
少年は動かなくなったココの頭に泣き崩れた。
☆
「漁船か何かのスクリューに巻き込まれたんだろう・・・」
父親は傷口を見て言った。母親は両手で顔を覆う。
「父さん、母さん・・・ココはちゃんと命令を守ったよ・・・二年もかけて。『ハウス』って、家に帰りなさい、って。ちゃんと帰ってきたんだよ!ここがココにとっては帰るべき家で、僕たちは家族なんだよ!」
少年の叫びは父親と母親の胸に深く突き刺さった。
「ああ、そうだ。その通りだ。ココは自由な海よりお前との絆を選んだ。わたしたちはそんな事にも気付いてやれなかったんだ」
父親は砂浜に両ひざをつきうなだれた。
悲しげな声を上げココに寄り添う仔イルカ。
「お前はココの子供なんだね。だったら僕らは家族だよ。寂しくなんてないからね。もう一人じゃないよ」
少年は仔イルカの頭を撫でた。
父親は涙をぬぐい心を決めると、一緒についてきたリチャードの前に立った。
「リチャード、すまないが帰ってくれないか。ここからは家族内の話になる。細かい詮索はなしだ」
「バット・・・あの仔イルカは・・・」
リチャードはそう言いかけたが肩をすぼめ両手を上げると何も言わず去って行った。
「そう、家庭内の話よね」
母親はポケットから一枚の紙を取り出し海に破り捨てた。
涙にぬれた少年の顔に笑顔が浮かぶ。
☆
それから数年の時が流れた。
『中ノ島水族館、リニューアルオープン』
『歓迎、バンドウイルカのコロちゃん』
水族館にはこんな看板が掲げられていた。夏休みに入ったとある日曜日、新しくなったイルカプールは大勢の観客でにぎわっていた。この日リニューアルされたイルカプールにデビューしたバンドウイルカのコロちゃん。ココの子はコロと名付けられ香川県屋の島水族館にあずけられていた。そのコロが中ノ島水族館に帰ってきたのだ。
そして、同じく屋島水族館からイルカトレーナーとして赴任してきた青年。あのアオの成長した姿がそこにあった。
子供の頃のようにイルカに乗ったりはできなくなったが、手慣れた指示を出しショーを盛り上げるアオ。
ふと、アオが音楽を止める。そしてカゴから一つ古びたボールを取り出した。明らかに流れを切る動きにどよめく観客。
「さぁコロちゃん、一発で決めてよ」
アオはホイッスルを吹きボールを高く投げ上げた。それに合わせ勢いをつけジャンプしたコロが宙返りをして尾びれでボールをキックした。ボールは大きな弧を描き観客席の夫婦の手に届いた。
「ナイスキャッチ!父さん、母さん!」
アオは親指を立てた手を突き出す。
受け取ったのはアオの両親。二人とも手を振り返した。手に届いた古びたボールには「アオ」と「ココ」の名前が書かれているそれは少年とココがショーで使っていたボール。
満場の拍手に包まれるプール。再び軽快な音楽が流れ始め、イルカショーが再開される。
夏の瀬戸内海、真っ青な空に澄んだ高い笛の音が響いた。それにイルカの鳴き声、観客の歓声が重なる。