未満の妻
一国を覆いつくした革命がついに成り、国は新たな指導者のもと、新たな秩序にむけて急速に平定されつつあった。
新政府における外交掛として国の舵取りをまかされたライヴァンはまだ二十七歳と若く、革命以前は一介の貿易商人であったが、その能力はすでに諸外国にまで知れわたり始めていた。
国内においても、この革命の功により、すでに爵位があたえられている。
体つきはさほど鍛えられていないが背が高く色白で、なにより眼に力があり、一目で女が色めき立つような外貌の男である。
そのライヴァンがこのたび妻としてめとったのは、貴族ながら急進的な革命派の側につき、新国家での重役の地位を約束されたレボニュー伯爵家の長女で、ノルエナという。歳は十八。
夫婦仲は、わるくはない。
が、ライヴァンには遊び癖があり、頻繁に娼館へ出入りする姿を知らないものはこの城下にはいない。
当然、ノルエナの耳にもその噂は届いていた。
*
さわやかな朝の気配に目覚めたノルエナが一番はじめに感じたのは、のどの乾燥と腰の鈍痛の二つであった。
かろうじて寝台から起きあがると、ノルエナの様子をうかがっていたらしい侍女が数名、洗面や着替えの用意を手にしずしずと入室する。
てきぱきとした手際に身をまかせ、ノルエナはなお気だるげにまどろんでいる。
そこへつづけて入室してきた侍女頭が、
「奥さま」
と恭しくあいさつをした。
「旦那さまからのご伝言でございます」
「なあに?」
「はい。今晩は帰りが遅くなるのでご夕食はご一緒できず、旦那さまのご帰宅をお待ちになる必要はなく、さきにお眠りになられていてよろしいようです」
「そう。……」
その予定とやらを邪推し、ノルエナは消沈した。
十中八九、娼館であろう。
(昨夜も、わたくしはライヴァンさまを満足させてさしあげられなかったのね)
侍女たちによって着付けられた衣装のうえから、腹部のあたりをそっと撫でる。
何度朝をむかえてもにぶい痛みに慣れることはなく、むしろ夜を重ねるごとに憂鬱がつのり、満足どころか行為への苦手意識ばかりが増してゆく。
(みんな、こんなものなのかしら。……)
夫以外に経験のないノルエナには、わからない。
ただ、結婚以前に夢想していたものとは、なにかがずれているようであった。
「奥さま。奥さまは読書がお好きであるとうかがいました。隣国よりめずらしい冊子を入手いたしましたので、本日はそちらをお読みになられてはいかがでしょう」
沈みこんだノルエナを見かねた侍女頭が、あかるい声音でべつの話題をもちだす。
心配をかけてしまったことを察し、申しわけなくおもいながら、ノルエナはその提案にうれしそうに頷いてみせた。
「ええ、ありがとう。もってきてちょうだい」
「かしこまりました。それでは、朝食のあとに」
(なにかひとつでも、わたくしがお役に立てるようなことはないのかしら)
眉間のあたりをくもらせ、ノルエナは夫の姿をおもいうかべた。
(あのかたに愛されたいとおもうことが、なぜ、こんなにも苦しいの)
*
「お帰りなさいませ」
夜ふけ。――
娼婦の白粉の匂いを身にまとって帰宅した夫に、ノルエナは気取られぬ範囲で眉をひそめた。
ライヴァンはといえば、こちらは目をまるくし、ノルエナの出迎えにおどろいたようである。
「ノルエナ。まだ起きていたのですか」
「夫をむかえるのは妻の役目です。――たとえ」
と、そこまで言ってじぶんがなにを口走ろうとしたのかに気がついたらしい。
恥じいるように睫毛をふせ、くちびるを噛みしめる。
(たとえそれが望まれぬことでも、わたくしは妻なのだから)
貴族の令嬢としての教育を受け、そのことに誇りをもつノルエナにすれば、そのような弱音がじぶんのなかにあることすら堪えられない思いであった。
のみこまれたせりふを察し、ライヴァンは苦笑した。
(不貞をはたらく夫。――とでも、言いたいのだろう)
よい夫ではない、と、自覚はある。
革命のための工作に奔走していたころは、仲間同士の連絡や、潜伏場所として、娼館は格好の隠れ蓑となった。
そのとき懇意にしていた連中のなかには、理由があって表舞台に立つわけにゆかない者も多く、いまだ密会のために娼館へ通う必要がある。
が、それだけではなく好色もたしかにあった。
馴染みの女がいないだけで、これでは妻に恨まれてもしかたがないであろう。
それでも、ライヴァンは悪びれず、むしろ妻を言いくるめようとした。
「いま、国は一新され、これは生まれたばかりの赤子のようなものです」
革命というのは成功したあとのほうがよほどむずかしく、まず、理想と現実の差に苦しむ破目になる。
事実、革命派の過激分子が、成された改革により地位を得たことでとつぜん保守化することもあるうえ、なにより旧王家派の処理もまだ済んではいない。
成立したばかりの新政権がわずかな刺激で簡単に天秤をくずしてしまうであろうことは明白であり、それをふせぐため、四方八方に飛びまわる日々がつづいている。
「娼館や酒場には情報があつまります。いまはとにかく国を軌道にのせなければなりません。わが家をかえりみる余裕が私にないことは、謝ります。しかしあなたにもわかってほしい」
などといいながら、それにしてもわれながら身勝手な言い分だと、ライヴァンは内心おのれに呆れるような気分になった。
しかし、このときのノルエナの心情は、真逆である。
(そうだわ。これなら)
と、ひらめいた。
(ライヴァンさまのお役にたつことができる。――妻として望まれないのであれば、せめて)
世間知らずの令嬢の健気さはあわれなほどで、ノルエナ自身、白とおもいこめば黒さえも白く見えるという、馬鹿に一途なところがある。
この瞬間、ノルエナは妻であることを自ら捨てることを選び、それこそがライヴァンのためになると懸命に信じこんだ。
要するに夫を個人として愛することをやめ、だだっ広く温度のぬるい情のなかへ落としこみ、むしろ一個の人格をごく一般的な尊敬の対象として見た。
つまり、気持の熱度を下げ、距離をとった。
娼婦との事後の匂いを濃厚に引きずり帰宅する夫への不安は胸をおしつぶさんばかりに重く、そうでもしなければこの年ごろの娘の心は千々にちぎれていたのに相違ない。
いわば、無意識の自己防衛策といっていい。
「わかりました」
ノルエナは頷き、
「では、わたくしもお国のために働きます」
そうと決めたとたん、おどろくほどの清々しい気分がノルエナの胸中に満ち、別人に生まれ変わったかのように気分が一変した。
もともと、聡明で教養があり、幼少期の家庭教師をして女にしておくにはもったいないと言わしめる度胸もある。
これにはライヴァンも仰天し、
「あなたは女でしょう」
おもわず上から下までノルエナを見てしまったのは、まるで見知らぬ人物に対面したような気がしたからである。
ノルエナが、心外そうに眉をあげた。
「あら、だって赤子を育てるのは女の仕事ですわ」
「あれはことばのあやです。わかっているくせに、なぜ聞き分けのないことを言うのですか」
「国の大事です。男も女も関係なく、おのれの役を果たすべきではありませんか」
ライヴァンは辟易し、ついに折れた。
箱入り娘になにができる、とたかをくくったのもある。
「よろしい。わかりました。勝手にしなさい。ただし危険なことは決してせず、重大なことはすべて私に相談するように」
ノルエナはその機をのがさず、
「それでは、わたくしのことは今後、どうぞ妻とはお呼びにならないでくださいませ」
とすかさず言った。
さすがのライヴァンもおどろき、返答につまった。
「わたくしはもはや妻ではありません。同志ですわ」
そのライヴァンへ悠然とほほえみ、
「同志と呼んでくださいますね? 勝手にしろとおっしゃったのはライヴァンさまですもの」
と、あどけなくくびをかしげた。
「――それは、妻としての役割も放棄すると、そういうことですか?」
慎重にことばを選び、ライヴァンが訊ねると、ノルエナはかわいらしく声をたてて笑った。
が、そのくちびるからこぼれることばは、辛辣である。
「跡継ぎを心配されていらっしゃるの? それなら杞憂ですわ。家を存続させることは、貴族としての義務ですもの。さいわい、わたくしの兄の家には幼くて健康な息子が三人おります。その三男を養子にとりましょう」
世間的には新婚期間でありながら、ライヴァンに抱かれることはノルエナにとって苦痛でしかなくなっている。
なにしろ心の伴わない性行為は、つらい。
政略結婚ではあったが、たがいを慈しみ穏やかな家庭を築くことを夢見ていた少女に、夫のまとう生々しい気配は刺激がつよく、芽生えかけていた思いをことごとく踏みにじられたも同然であった。
むしろ、それでもライヴァンの役にたちたいとおもいつめる神経の可憐さをおどろくべきであろう。
(わたくしはもはや、旦那さまを愛さなくてもいいのだわ)
とおもうと、息苦しさから解放され身軽になったような心地になった。
(だって同志なのだもの。だから、愛されなくてもいい。わたくしだけを見つめてくださらないことを悲しむ必要なんて、もう、ない)
夫の前身は商人である。
たとえ愛情は得られずとも、ノルエナの能力さえうまく示すことができれば、損得勘定のうえからいっても性別や年齢の垣根をこえた信頼を得ることくらいはできるであろう。
その自信は、あった。
(養子? ――)
一方、受けた衝撃の大きさに、おもわずライヴァンはよろめきそうになる足腰を叱咤した。
「あなたが、……あなたは産んでくださらない?」
呆然とつぶやくと、ノルエナはますますむじゃきな顔で、こともなげに言いはなった。
「ごじぶんの血をのこされたいのであれば、どうぞ、どなたかを囲えばよろしいのだわ」
「あなたという妻がいるのに? なにか、勘違いをしているようですね」
ノルエナの態度が気にくわず、つい攻撃的な語調になる。
「百歩ゆずって、あなたを同志と呼ぶことは構わない。だからといってあなたが私の妻でなくなることはありませんよ。そもそも同志というが、一体あなたになにができるというんです? 革命のときですら、あなたは家に守られていた。血腥いことや残酷なことからは遠ざけられていた。そのあなたになにができますか?」
「まるで……まるで、この国は男のかたのもののような言いかたをなさるのね。わたくしを小娘だとおもって馬鹿にしていらっしゃるのでしょう」
鼻でわらうような物言いにノルエナはたじろいだが、ここで引き下がるわけにはゆかない。
革命直後の混乱はいまだ尾を引きずっており、ここで革命の最大の功労者であるライヴァンが離婚騒ぎなど起こせば、醜聞どころではないであろう。
離婚はできない。
ならば妻としての魅力に乏しいノルエナがすこしでもライヴァンの役にたつには、これしか道がないではないか。
「旧弊を改めなければ、新しい時代の意味はありません。女にだってそれなりの権利と責任が与えられるべきですわ。血と戦いが男の革命であるのなら、女の革命はべつの道にあります。それに」
ことばを止め、みじかく息を吸う。
黒真珠のように濡れた瞳が、わずかな怒りを込めてきらりと光る。
「それに、わたくしを妻にしてくださらなかったのは、あなたではありませんか」
――その表情に見惚れたときには、すでに遅い。
経験したことのない甘美な痺れからライヴァンがわれにかえったのは、一礼したノルエナが背をむけて立ち去ったあとである。
世界中でただ一人、ライヴァンだけがすべてを手にいれてよいはずだった存在を完全に失ったことを、かれはそのときにようやく悟った。
*
のち、ノルエナは女性教育組合を設立し、男尊女卑の風が根強く残る社会構造につよい反発を示すことにより、新国家に参加する開明的な連中のなかで次第に実力をみとめられ、その発言力を増してゆくに至る。
ライヴァンもまた、諸外国との外交の難事をつぎつぎとさばき、その手腕により確固たる存在感を国内外に知らしめた。
その一方で私生活においては、妻から一途にさしだされつづけた無条件の愛情をとりもどすため恥も外聞もかなぐり捨てる破目になるのだが、それはまたべつの話。――
よろしければ簡単な後日談(http://ncode.syosetu.com/n1464dh/)もあわせてどうぞ。