込み上げる衝動のままに
「幽姫さま、お早うございます」
朝。朝餉の終わった刻限を見計らって、張良は彼女の房室を訪れた。
……が、彼の眼に飛び込んできたのは、空になった膳を引き終え、いつもの如く膨れた腹を満足そうに撫でている彼女の幸せそうな笑顔ではなかった。
「…」
――どうしたことか、これは。
思いながら、張良はそれが己の欺瞞でしかないことを痛いほど判っていた。
送り届けられた取り取りの宝物に、読み書きの講義のために置かれた竹帛の束。普段なら埃ひとつなく整然と整理されている筈のそれらが、房室中に散乱している。
床には幾筋もの引っ掻いたような跡と、房室の奥へと消えてゆくように一枚ずつ落ちている女物の着衣に、紐の引き千切られた翡翠の装飾品、結ばれたままの形を保つ腰帯。
こうなるともう、この房室の先、寝室の寝台にぐったりと横たわっているであろう彼女の痛ましい姿は想像に難くない。
申生公子とはつい先刻、朝議の行われる施政宮の前の回廊で顔を合わせた。
理知的で柔和な面に似合わぬ険しい表情を刻んでいたのはこのせいだったのかと、今更ながら悟る。
「可哀想に…」
張良から見れば、小柄で童顔な彼女は未だ年端のいかぬ童女で、決して無体を働いてよい相手ではなかった。
柳眉を顰め、張良はすぐさま女官を呼びつけた。
一糸も纏わぬ生まれたままの姿で気を失っていた彼女は、女官が数人がかりで己の裸体を清めているところでとろとろと眼を覚ました。意識はぼんやりと霞がかったままだ。
躰…痛い…。
全身がだるくて身 動ぎすらできず、ただ薄く眼だけを開けて、やれ湯の支度だ、やれ清潔な布の準備を、と自分の周りで忙しく作業に従事する女官たちを眺める。
昨夜、必死の抵抗も虚しく衣服を剥ぎ取られ、それでも幾度も床に爪を立てて踏ん張った。
しかしその奮闘も、適度に鍛えられた男の長身に組み敷かれた瞬間、捩じ伏せられ。
後はもう、為すがまま齎される苦痛に耐え、只管歯を喰い縛るだけだった。
穢された――と純潔の喪失を嘆くには、既にこの身はあの青年公子に搾取され過ぎた。
又も拒み通せなかった自身を甚だ情けなく思いながらも、彼女は何とか声を絞り出す。
「ぅ…、ゃ、め…」
「幽姫さま、お目覚めですか?」
「今しばしご辛抱くださりませ」
「や、や…」
こんな惨めな姿、譬え気遣ってくれているのだとしても、これ以上余人に晒されていたくない。知りもしない人間の手に触れられたくない。そっとしておいて欲しい。
鬱血の残る首筋を丁寧に拭う女官の手を振り払い、鈍痛の奔る上体を無理やり起こして、肩に掛けられた衣に顔を埋め、全身を隠すように寝台に丸くなる。
寝室の外、居住空間の房室から、現時点で唯一信頼する人物の声が途切れがちに聞こえてきた。
「…。…あぁ…、…して、幽姫さまのご様子は――」
――張良!
彼女はがばりと跳ね起き、声の限りに叫んだ。
「リョー! チョーリョッ!」
「…っ…幽姫、さまっ?」
「来てッ、こっち来てっ! リョーだけ! あとはいいっ! みんな、いなくていぃ!」
「ゆ、幽姫さま」
「なりません、そのようなお姿で…! しかもここは寝室です。幾ら張良さまといえど、殿下以外の殿方の立ち入りを許すわけには――」
「ぃや、いやッ! リョー、リョー!」
宥める女官の声は、最早錯乱状態の彼女には届かない。
程なく、周囲の制止を振り切った張良が寝室に現れ、彼女は己を隠すように四方を取り囲む女官たちの壁を強引に突破し、泣きながら萌葱色の袍に飛び付いた。
張良は衣一枚纏っただけの震える小さな肩を一度慰撫し、ゆっくりと顔を上げた。
「――皆、どうか幽姫さまの望むままにしてはくれまいか」
「…ですが、」
「幽姫さまは酷く混乱なさっておいでだ。お気を鎮められたら、その時にまた改めてそなたたちを呼ぼう。殿下がご不在の今、このお方の拠り所となれるのは某だけだ」
その言葉は紛うことなき事実で、二人の実の兄妹のような微笑ましい関係を知る女官一同は反論をやめ、一礼してから順に寝室を離れて行った。
しんと静まり返り、彼女のしゃくり上げる音だけが不規則に響く。
「幽姫さま。他の者は皆、たった今この場を離れました。お傍に付いているのはわたしだけです。どうか落ち着いてください」
「ぅ…ひっく」
それから暫く彼女はぐずり続けていたが、やがて握り締めた掌でゴシゴシと顔を擦り、泣き腫らした黒眸で張良を見上げた。
「少しは落ち着かれましたか?」
にこり、慈愛に満ちた穏やかな微笑み。優しく背を撫でる繊細な指先。
漸く平静を取り戻して、彼女はほっと笑みを浮かべた。
「――」
それまで穏健そのものだった張良の微笑が、何故か不意に強張った。
「?」
微妙な変化を感じ取り、怪訝に首を傾げる彼女に、ツィ、と白い繊手が伸ばされる。
「――幽姫さま。取り敢えず、衣服の前を合わせて下さい」
「う? リョー、こっちが上?」
「…それでは死人ですよ。左が上です、ほら…」
ずり落ちた衣を持ち上げた張良は、必然的に露わになる彼女の胸元の、無数に赤い痕の散る肌を見て、暫し動きを止める。視線ごと吸い寄せられたようだった。
「リョー? どした?」
自身の肌蹴た前をじっと凝視してくる張良に、彼女はそっと手を差し伸べる。
白皙の頬に触れるか否かという時、いきなり躰を引き込まれた。
足が浮き、背に両腕を回され、否応なく顔を肩口に押し付けられたかと思うと、横にあった優美な美貌があろうことか胸先に降りてくる。
「!!」
在り得ない事態に、彼女は全身を撥ね上げた。
「なに? なに? リョー、なにするっ?」
張良は答えない。憑かれたように肌蹴た己の胸元だけを注視している。
その眼の色が、昨夜、無理やり寝台に己を組み敷いた申生とまったく同じものに感じられて恐ろしかった。
何が…、一体何が起きているのか。俄かには信じ難いことだった。
フッと湿った吐息が当たり、冷えた唇が触れた肌から、ちりりとした痛みが奔る。
ぞわり、粟肌が立った。
「ひっ」
――吸われた。
嫌悪感と恐怖が、一気に背中を駆けのぼる。
「チョーリョ、やっ!」
短い拒絶の言葉と共に押し退けられ、張良ははっと我に返った。
彼女は青褪めた顔で衣の合わせ目を両手でぎゅっと握り締め、カタカタと震えていた。
「……幽、姫、さま」
早く、早く詫びなければ。公子の寵妃相手にとんでもない狼藉を働いたのだから。
そう思うのだが、張良の口から出てきたのは彼女を呼ぶ惚けたような短い呟きだけだった。目線は依然、怯えたように幼い面を歪める彼女にある。
今の今まで、彼女は童子と同じく、護るべき庇護の対象だった。裏を返せば、そこに劣情や男女の情といったものは微塵も存在しなかった。
…それが、どうだ。公子との激しい閨房の残滓を色濃く残す彼女が薄絹一枚という余りにしどけない姿で、だのに一片の羞恥もなく小柄な躰いっぱいに全幅の信頼を表現して、どこまでも屈託のない無垢な笑顔で見上げてきたその瞬間。
張良の中で、何かが焼き切れた。
――何と、したことか…。
己の裡に潜んでいた凶暴な欲と衝動を前に、張良はただ茫然とする他なかった。