その顔見たさについ
史記好きの方に警告。
登場人物の名に大いに覚えがあるかと思いますが、単に気に入った名前を使わせてもらっているだけですので、実際の人物とは別人とお考えください。
帰化しているとはいえ、客卿という立場にある張良が彼女の世話役に選出されたことは少々意外であった。
無論、彼の人柄の良さと人並み外れた才智は常から万人の認めるところであったが、彼女が現在置かれている地位――王弟鍾愛の寵妃であることを考えれば、他国出身の臣である彼にとってはあまりに過ぎた大役とも言えた。
…ともあれ、この一件で益々公子の信頼篤い賢臣と誉れの高くなった張良は、従来の慣例から逸脱した君命に異を唱えることもなく謹んで拝命した。
申生公子の紹介で初めて張良と顔を合わせた時、彼女は口には出さないながらも内心「又うるさそうな奴を連れて来たな…」と大いに眉を顰めた。
先に世話役に任ぜられた陳平が妙にちょっかいを出してくる上に、根っから蛇蝎の如く毛嫌いしている女好きの最低男だったので、張良も似たような人物だろうと思ったのだ。
「幽姫よ、この者はこの度陳平と共にそなたの世話役とした張良だ。客卿ではあるが並の大臣などよりも遥かに信頼に値する男故、そなたも頼りとするがよい」
「そのような…過大評価でございます、殿下。不肖張良、至らぬ我が身に終日ただただ恥じ入るばかりと自覚しておりますれば、慢心を招くようなお言葉はどうかご勘弁を。
――幽姫さま。某、名を張良と申します。以後宜しくお見知りおき下さいませ」
今ひとりの世話役とそう変わらない歳であろう張良は、涼やかに整った面に人好きのする笑みを浮かべ、嫌そうな顔をする彼女に向かって膝を突き丁寧に一礼した。
彼女の予想に反し、張良は繊細で優美な面差しそのままの穏和な気質、しかも陳平のように色好みで軟派なところなど欠片もない実直な、かと言って白起のように謹厳生真面目一直線という訳ではなく思考の柔軟性もある、今までにないタイプの好青年だった。
彼は王宮を抜け出そうと連日逃走を繰り返す彼女を批難するのではなく、その行動を取る要因となっている彼女の孤独と不安とを汲み取り、ひとり見知らぬ世界に放り出され絶望に押し潰されそうになっていた彼女の心境に唯一理解を示した。
――彼ならば、信じても大丈夫かもしれない。
延々と続く暗闇に一筋の光芒を得た思いで彼女が張良に対して少しずつ信頼を寄せ、次第に心を開き始めたのは、当然の帰結だっただろう。
さる朝のこと。
「好き嫌いはなりませんよ、幽姫さま。さ、どうかお召し上がり下さい」
「いやッ。嫌だったらいーやー!」
左手に料理の小鉢を持ち、右手にその具を挟んだ箸を握るという恰好でジリジリと迫る張良を、彼女は頸を横に振りながら懸命に押し退ける。膳に並べられた他の皿は全て空だ。
事態経過は次の通りである。
まず、食事中の彼女の房室を訪れた張良が、小鉢の中の惣菜だけが手付かずの状態で放置されているのを見咎めたことから始まった。
彼女の健康管理は、世話役として張良に託された任務の一環である。結果、「食べろ」「嫌だ」の押し問答が展開される事態となったのだ。
席を立ち、卓の周囲を散々に逃げ回った末、彼女はとうとう壁際に追い詰められた。
「これ、キライ。苦い。まずい」
小柄な躰を更に縮め込み、それでも最後の足掻きとばかりに懇願するように上目遣いで張良の双眸を覗き込み、泣き出しそうな程情けなく顔を顰めてみせる。
…が、一見厳格そのものでありながら意外に詰めの甘い彼の護衛役相手であれば頗る効果を発揮するこの落とし技も、眼の前の青年にはとんと通用しない。
「まずくとも食べるのです。幽姫さまがこちらの薬膳料理をお好みでいらっしゃらないことは承知しております。ですが、わたしは決して嫌がらせでお勧めしているのではありません。左肩のお怪我を早く治す為に食事をしっかり摂らなくては…お判りですね?」
「むぅ…」
一歩も退かない様子の張良に、彼女は渋面を作って唇を尖らせた。
救援を求めようにも、給仕の女官たちは皆微笑ましげに眺めているばかりで、助けてはくれない。
――大人しげな顔をしているくせに、まるで頑固オヤジだ。こんなの詐欺じゃないか!
心の中で悪態を吐き、目線の上にある柔和且つ美麗な面をキッと睨む。
確かに張良は、この世界では珍しく柔軟な思考の可能な好人物だ。
故に誰もが気付きもしなかった彼女の孤独感と不安感とを逸早く察し、真っ先にその信頼を勝ち得たのであるが、ただ甘やかすだけではなく、締めるべきところはきっちり締める男であった。
一方の張良はというと、恨みがましげに自分を睨み付けてくる彼女が可笑しくてならなかった。
睨まれたところで迫力など皆無だが、恐らくもっと文句を言いたいのであろう、モゴモゴと不規則に頬を膨らませ、引き結んだ口元を変に動かしている。
極僅かではあるが自身に対する甘えすら見 出せそうな彼女の仕草が尚小動物のように愛らしく、又、先刻の困ったような、どこか拗ねたような顔見たさにらしくもなく嗜虐心を煽られ、つい意地悪をしたくなる。
張良の眼には、初めて会った時から彼女は守り慈しむべき庇護の対象として映っていた。
女の勘なのか何なのか、いずれにせよそれらを敏感に読み取ったからこそ、女官たちも仲の良い兄妹のようだと遠巻きに微笑ましく二人の遣り取りを見守っていた。
だが、当の彼女は、己が本心から張良に気を許し、懐き、彼に甘え始めてさえいるという自覚がまだなかった。
「いつまでも幼子のように駄々をこねられますな。さあ」
細い箸先に挟まれた具が口の前まで運ばれ、静かな口調で食べるよう促される。
彼女は悩んだ。
以前出された時に一度口にしただけだが、口腔に入れた瞬間猛烈な苦味に襲われる上に食感もまるでゴムを噛むような気持ち悪い弾力だけがいつまでも残るので、本当は一口たりとも食べたくない。
しかし、これは怪我の治癒と健康増進を願っての善意の行動だ。それを考えれば拒否を続けることは出来ない。
第一、自分の為にも良くない。
「…~~ッ!」
彼女はギュッと眼を瞑り、息を止め、意を決して大嫌いな薬膳の具にパクリと食い付いた。途端に目尻に涙が滲み出る。やはり途轍もなく苦い。
今すぐ吐き出したい衝動を堪えて数回咀嚼し、大きな塊のまま一気に呑み込む。
差し出された水の器を鷲掴みにして奪い取り無我夢中で飲み干すと、軽く頭を撫でられた。ノロノロと視線を上げた先には、大輪の花の如き張良の綺麗な満面の笑みがあった。
「よく出来ました。この勢いで、残りも全て片付けてしまいましょう」
『……お、鬼ーーーッ!!』
涙混じりに母語で叫んだ彼女の怒声は、必然的に大きく開かれた口の中に再び薬膳料理を放り込まれたことによって早くも別種の悲鳴に変わった。
以後、暫くの間、彼女は張良と口を利こうとしなかったという。