消えない温もり
本命のはずなのに、これまで名前しか出てこなかった『彼女』の夫――ということになっている――申生公子が、ようやく満を持して登場。
他の話の中でさんざん描写した通り、『彼女』にベタ惚れです。
この不思議な世界に彼女がやって来て、早くも一年の月日が流れていた。
相も変わらずこちらの言葉は苦手で幼稚、活発で向こう見ずな立ち振る舞いも依然変わらないが、自分の置かれた立場や周囲の人々の位置関係などはぼんやりとではあるが大方把握していた。
但し、それらは全て正確なものであるとは到底言えないものであった。
――ともあれ、咸陽宮と呼ばれる巨大かつ壮麗な執務宮の内部構造を細部に至るまで知り尽くした彼女は、いつもの如く煩わしい護衛の眼を潜り抜け、庭に逃げて来ていた。
『涼しいなあ』
彼女の独り言は全て母語によるものだ。ここの言葉を覚えられない理由は、脳内での思考に総じて母語を用いている為でもあるが、彼女にそれを改善する気はない。
軍服を脱いで以来、随分と着慣れた地味な女官服の袖で額を拭いつつ、彼女は枝ぶりのいい巨木を見つけ、するすると器用によじ登る。
中腹あたりに到着すると一気に視界が開け、高く造られた土塀の外まで見渡せる。
彼女は子どものように歓声を上げ、右手を眉近くで翳し、暫し四方を見遣っていた。
ぶらりと下ろした両脚を無意識にばたつかせる彼女は、不自然な枝の揺れを見咎め、木の下に立った人物の存在に気付けなかった。
「――幽姫」
「!!」
突然下から聞こえた低い声に彼女は肩を撥ね上げ、反射的にその場から逃げようとする。
しかし、いつの間にやら手首を握られており、離れることは叶わなかった。
「このようなところに隠れておったとは……。道理であの白起も見つけられぬ筈だ」
酷く愉しげに零し、申生はきりりとした眉宇を緩めて笑った。
見上げる端正な面は、彼女を見つけたという喜色で溢れている。
「コー、シ…」
幹の窪みに巧く足を掛け、さっさと自分の隣に腰掛けた申生を、彼女は困惑気味に見遣る。
やたらと自分に触れてくるこの青年公子が、彼女はとても苦手だった。
嫌われたり、憎まれたりしている訳ではないことは判っているのだが、こちらを見る眼が妙に熱を帯びているように感じられて、怖いのだ。それは、勘による本能的な恐れでもあった。
だが、彼は瀕死の状態から助けてくれた命の恩人であり、寄る辺のない彼女をこの宮殿に保護してくれた張本人だ。自分勝手な第六感から避けるなど、明らかに礼を欠いた態度であるし、庇護される側としては到底許される行為ではない。――それでも。
出来る限り一定の距離を保ちつつ、彼女は口を噤んでじっと静止した。
申生はというと、そんな彼女を蕩けるような眼差しで心底愛おしげに見つめ続ける。
未だに視線の熱の理由を知らぬ彼女は、風と共に流れてきたにおいにふと顔を動かす。
辿り着いた先は、己の手を取り横に座る若い男。
「……汗臭いー」
「うん?」
申生が不思議そうに声を上げる。
彼女は少し顰め面をして犬のようにフンフンと鼻を動かし、徐々に頸を彼の方へと傾けてゆく。
一瞬驚いたように眼を見開いた申生だったが、すぐに口の端を柔らかく曲げた。
「――ああ。軍の修練場で、将軍らと少々打ち合ってきた。そのせいだろう」
不快か? との問いに、彼女は彼を覗き込んだ態勢のまま、ふるふると頸を横に振る。
決して不快ではない。寧ろ、申生の言葉に興味を引かれた。軍人だった彼女は、元来逞しい男が好きだったから。
上背はあるものの、一見して書生風の申生だが、それなりに鍛えているらしい。
「コーシは、強い?」
「…さあ、どうだろうか。得手不得手は別にしても、一国の公子の嗜みとして、剣、戟、槍、矛、弩、一応ひと通りの武器は扱える。大軍を統率する兵法術も又然りだ」
「ほー、凄い」
大夫であり、戦時には上将軍を務める申生は、一兵士としても、そして戦闘指揮官としても、どちらでも通用する優れた将兵のようだ。彼女は歓声を上げて手を叩いた。
出会った瞬間に懸想し、今も尚熱烈に愛してやまない相手から純粋に称賛の眼を向けられ、申生は満更でもなさそうだ。
…と、一羽の小鳥が彼女の肩にとまった。円らな眸が愛らしい。
「おやぁ、こんにちは」
彼女はほにゃりと頬を綻ばせ、物言わぬ小鳥に優しく声を掛ける。
愛する彼女の関心を一瞬にして奪われ、申生の整った面が面白くなさそうに歪む。
小鳥如きに嫉妬している申生のことなど露知らず、彼女は腕を伝って手の上に降りてきた小鳥と視線を合わせ、嫣然と笑った。小鳥も又、警戒せずにピッピッと啼く。
黙ってその様子を見ていた申生だったが、再び肩に戻った小鳥が甘えるように彼女の頬に擦り寄った途端、その小さな茶色い躰を鷲掴み、地面に向けて力一杯投げ捨てた。
「あっ!」
叩き付けられる寸前でどこかに飛び去った小鳥にホッと息を吐き、彼女は怒りに眦を決しながら、何故だか怒っている申生に改めて向き直った。
「コーシ、ピーに何する!」
「鳥獣の分際で、図々しくもわたしのそなたに触れるからだ。当然の報いよ」
「は? わたしのそなた? コーシ、何言ってる? 頭大丈夫?」
自身が当の昔に申生の妃として迎えられていることを知らない彼女は、熱で気が触れたのではなかろうかと申生の額に手を伸ばす。が、逆にその手首を掴まれ、引っ張られる。
いつの間にか後頭部に回されていた右手に避けることも叶わず、唇を塞がれた。
「うー、うーッ! ――ゲホッ」
いつまで経っても慣れない唐突な接吻に、彼女は酸素を求めて激しく咳き込む。
幹に体重を預け、彼女の小柄な躰をすっぽりと抱き込んだ申生は一方的に告げる。
「そなたに触れてよいのは、この世でわたしだけだ。判ったな、幽姫」
何故こうも強引なのか。それも、理解不能な要求ばかり。
接触するなという時点で、白起や陳平らといった存在が引っ掛かってくる。
意図的に絡んでくる女好きの陳平は別として、白起は護衛という立場上、必然的に接触せざるを得ない場面が出てくることは判り切っているというのに、今更何なのだ。
――それに、彼女に対して唇やそれ以上のものを求めてくるのは申生だけだ。
無論、合意もなく押し倒されるなど御免なので、その場合は当て身を喰らわせて一目散に逃走する。ただ、哀しいかな、それが成功する確率は左程高くはないのが現状だ。
その都度、彼女は「女が欲しいのなら、他を当たれーっ!」と激しく喚くのである。
「誰のものでもないよ」
頬を膨らませ、両腕を使って懸命に突っ撥ねようとする彼女だったが、申生の拘束は一切緩まない。
暫く繰り返して諦め、彼女は大人しく彼の胸に凭れた。
――こうして伝わってくる熱は心地良いのにな。
慣らされてしまった温もりに苦笑しつつ、彼女はもう抵抗しなかった。
夏に近付きつつある風は少しばかり生暖かかったが、彼女を捕らえる男の四肢の熱さには敵わないようだった。