手を伸ばせば触れれるのに
ただ麗らかに暖かだった春が過ぎ、カラリと暑い初夏へと突入した時分。
背の中程まで伸びた黒髪を揺らして回廊を駆けていると、彼女はふと立ち止まった。
――何だろうか、あれは。
庭園の木陰に何かが転がり、時折、もぞもぞと動く。
気になるなぁ。
直感的にそう思い、気付けば彼女は欄干に片手を置き、飛び降りていた。
それは、物ではなく人だった。
男が両腕を頭の後ろで組み、片足を立てて気持ち良さそうに眠っている。
顎紐付きの立派な冠に、凡そ実戦向きとは言えない飾りを兼ねての長剣。
官服も、これまで彼女が見てきたいずれのものよりも煌びやかで上質だった。
もっと詳しく観察しようと傍らに腰を落とした彼女は、男の腕がピクリと動いたことに気付かなかった。
――誰かに、似ている?
意志の強そうな眉に、スッと通った鼻梁。何だか見覚えがある。
それでも、誰に似ているのか思い出せず、両膝を立てて男の寝顔をじっと見つめたまま難しい顔で考え込んでいると、眠っているとばかり思っていた男が急に開眼し、後頭部に回していた腕で素早く彼女の手首を掴み、強引に引き寄せた。
「あわわッ!」
突然のことになす術もなく、彼女は男の上に覆い被さる体勢で倒れ込んだ。
押さえ付けるように背に腕が巻き付き、もう片方の手で顎を持ち上げられる。
「――見るだけか? 接吻してくれても良かったのだぞ、娘」
揶揄するように細められた切れ長の眼に、ニヤリと歪められた酷薄そうな口元が、男の若々しくも威厳ある端正な面を悪童の如く見せる。
彼女は驚きの余り言葉もなくぽかんと口を開き、幾度も瞼を瞬かせた。
彼女と男の視線が、近距離で交わる。
果たして、先に逸らしたのは男の方だった。
「…真っ直ぐにわしの眼を見る上に、狼狽えも萎縮もせぬとは」
横を向き、ククッと喉を鳴らし、男は緩慢な所作で上半身を起こした。
彼は今一度拘束したままの彼女の恰好を上から下まで確かめ、再び視線を合わせる。
「そなたが、申生の溺愛しておる幽姫か」
「しぃ…せ? コーシのこと?」
この世界に来て半年余り。彼女の言葉は未だ拙いままだった。
「…は! まるで赤子よの。あの弟に童子の趣味があったとは知らなんだ」
「どぅじ…?」
単語自体は聞き取れるものの、意味は判らない。彼女は頸を傾げた。
ともかく、判ったことは、眼の前で口髭を撫でる男が申生の兄王だということだけだ。
申生は、献公の実弟だ。顔立ちに見覚えがあったのはそのせいだったのだ。
「コーシの兄上?」
「わしか? そうじゃ」
鷹揚に頷き、献公は又笑った。可笑しくて堪らぬとでも言いたげな笑い声であった。
上機嫌な様子の献公と連れ立って、彼女は彼に庭園を隅から隅まで案内して貰っていた。
繋いだ手を前後にブンブン振って隣を歩く無邪気な姿を見て、献公が微笑ましげに、そして至極面白そうに頬を緩めていることを、彼女は全く察知していない。
「コーシの兄上、何故ここにいた? 扇持ちと護衛兵はどうした?」
「ああ、あやつらか。鬱陶しいので下がらせたのよ」
「ふーん」
無論、陰から腕利きの兵士が数名、今も眼を光らせているのだが、彼女はそれに気付いて曖昧に返答した。献公も、それ以上語ろうとはしない。
いつも傍に人がいては、心が休まらないのだろう。彼女にも白起というやや真面目過ぎる護衛役がいるので、その思いはよく判る。
人によりけりだろうが、どちらかと言えば彼女は姿を見せずに護られる方がまだマシだと考える方であった為、献公の言葉に共感したことは言うまでもなかった。
やがて庭園をひと回りし終えた両名は、宮殿の回廊へと続く短い階の前に立った。
「どうもありがとうございました、コーシの兄上。とても愉しかった」
弟と同じく、献公も背が高い。彼女は頸を後ろに反らせ、下から見上げる態勢で満面の笑みを向けた。
屈託のない、そしてはっとする程愛らしい笑顔に、図らずも献公の眼が吸い寄せられる。
息を止めて見入る献公だったが、既に彼女は繋いでいた手を離して階を昇っていた。
「ハッキに怒られるから、もう行く。じゃあね」
大きく手を振り、彼女は足音も軽く回廊を走って行った。
彼女の小柄な後ろ姿を見送った後。
日頃の癖で口髭をいじりながら、献公は愉しげに眼を細めた。
「ふむ、なかなか興味深い娘だな。申生の奴が執心するのも頷ける」
この国の君主であると知りながら、それまでの口調や態度を一切変えなかった、稀有な娘。
権力に媚びるということをしない人間がいることに、献公は新鮮な驚きを覚えた。
先程も、好奇心旺盛に顔を覗き込みはしたものの、決して触れてこようとはしなかった。
無遠慮に手を伸ばされていれば、献公は彼女を無礼討ちにするつもりであったのだ。
だが、余りにただただ熱心に見つめられるものだから、つい堪え切れなくなってこちらから動いてしまった。
――ともかく、それで献公は、彼女が利権目当てに躰で王族に取り入ろうとするような、貪婪で計算高い女狐ではないと判断した。
それどころか、本当に申生に抱かれているのかと疑う程に艶も色気もない、寧ろ幼さ故に生じるあどけないまでの清らかさまで感じる。
噂通り、極ありふれた平凡な容姿に、無知な子どもの如き口調と振る舞い。
そして何より、見る者を魅了せずにはおかない、無防備且つ可憐な微笑み。
手を伸ばせば容易に触れ得ただろうに、何故か躊躇ってしまった。
あの笑みを崩してしまうのではないかと、無意識に懼れたのだろうか。
いずれにせよ、ここまで献公に気を遣わせた人物は彼女が初めてだった。
「誠に得難い娘よ……、少しばかり羨ましいのう」
献公には、弟が千金にも勝る稀少なる宝を得たように思えてならなかった。